撮影と二人
三枝は通路横の暗い壁際で立ち止まり、鞄からカメラを出した。
金属の角が照明を拾って小さく光る。
巻き上げレバーを指で確かめてから、底の蓋を開けてフィルムを押し込む。
カチャ、と乾いた音がして、彼女の爪がフィルムの端を引っかけた。
「まだ入れてなかったの」
「うん。館内、光が暴れるから。最初に整えておきたい」
蓋を閉め、巻き上げる。小さく二回、規則的な音がした。
彼女は露出計の窓をのぞいて、ダイヤルをいじる。
レンズに指紋がつかないように、ハンカチで拭く手つきが速い。
「白黒?」
僕が聞くと、三枝は目だけこちらに向けた。
「うん。色、ここ強すぎる時あるでしょ。水の青とか、ライトの紫とか」
「へえ」
「顔も撮るの良いけど、背中でも、感情は写るんだよ。」
言い方がいつもの軽さで、カメラを構えたまま歩き出した。
回遊ルートの先に、ゆっくり回る水槽の光が滲んでいる。
子どもの声がガラスに跳ねて、遠くでスタッフの説明がマイク越しに割れた。
「水族館、フィルムだと難しいの?」
「難しいよ。暗いし、動くし。ぶれるのも失敗も、いっぱい出る」
「じゃあ……」
「でも撮るの。失敗しない場所って、だいたい退屈だしね。腕が鳴るよ。」
そう言って、三枝は人の流れの後ろについた。
水槽前に立つ家族連れの背中、肩から下げたトート、帽子のつば。
顔が見えない位置を選ぶみたいに、少しだけ角度をずらす。
シャッターを切る前に、彼女は一度、目で周りを見回した。
ガラスに映る顔が入らないように、歩幅を合わせて。
カシャ。
音が思ったより小さくて、周囲のざわめきに紛れた。
「いまの、誰撮ったの」
「背中。あと、手」
僕の前を歩いていた人の手が、水槽の光で青くなっていたのを思い出す。
次の水槽へ進むと、床の矢印が曲がって、暗さがもう一段増した。
頭上の照明が細く、足元の影が伸びる。三枝が少し距離を取った。
僕の右斜め後ろに回る気配がして、肩のあたりがかすっと冷えた気がした。
振り向くと、彼女はもうファインダーをのぞいている。
「……え、今、僕?」
「うん。こっち向かないで。いまの、いい感じだから」
いい感じ、と言われて、僕は結局そのまま前を向いた。
水槽の中を銀色の魚が群れで曲がる。子どもがガラスを叩きそうになって、母親が手をつかんで止める。
その動きの端っこで、三枝のシャッターがもう一度鳴った。
カシャ。
「表情って、こっちが見ようとすると整うでしょ」
三枝はカメラを下ろし、巻き上げながら言った。
「でも、歩き方とかその人たちの距離感とかしぐさとかいろいろ見えるのはあるよ。それも私にとっての表情なんだ。」
「顔だけじゃなく全体を見れば全部わかる、みたいな?」
「全部は言わない。言えるほど見えない時もあるし、わからない時もある。でも、全部わからないから写真は面白いよ。」
彼女は言い切らないまま、僕の横に戻った。
水槽の光が彼女の頬を白くして、すぐ消える。通路の途中に、クラゲの円柱水槽があった。
淡い光の中で、透明な傘がふわっと上がって、また落ちる。
人が溜まっていて、進むのに少し詰まる。
三枝が僕の袖を軽く引いた。
「ね、ここで一枚、撮っておきたい」
「クラゲ?」
「クラゲも。……あと、二人も」
彼女は近くにいた大学生くらいの女性二人組に、小さく頭を下げた。
「すみません、撮ってもらってもいいですか。これ、押すだけで」
「いいですよー」
三枝はカメラを渡しながら、ストラップの長さを手早く調整して、フィルムの巻き上げを確認した。
女性が受け取るとき、三枝は一言付け足す。
「いやだったら言ってね。」
そう言っても断らせる雰囲気は三枝からは感じなかった。僕はクラゲ水槽の前に立ち、背中に水槽の光を受けた。
三枝が隣に来て、肩が触れそうで触れないところに立つ。
女性が。「もうちょい右です」と言って、僕らは靴を数センチずらした。
「いきますねー」
小さな掛け声のあと、カシャ、と別の指の音が鳴った。
三枝は受け取ったカメラを一度のぞいて、すぐに巻き上げた。
確認のために覗き込むようなことはしない。
ただ、レンズを指で撫でて、また鞄にしまう。
「ありがとございます」
女性たちに手を振って、三枝は先に歩き出した。
僕もその後ろにつく。
暗い通路の先で、水槽の光が揺れていた。背中だけが見える距離で、三枝の髪が小さく揺れた。
僕はそれを見て、足音を合わせた。




