暗室と帰宅
暗室の扉の向こうで、かすかな物音がして、鍵の回る金属音が短く鳴った。
少し重たいドアが内側から開いて、赤い光が廊下の床を一瞬だけなぞる。
「……終わりましたー」
顔を出した三枝が、こちらを見て目を丸くした。
それから、すぐに笑って言う。
「あれ? 高瀬、来てたんだ」
先輩が片手で頭を掻きながら、扉の前に戻る。
「三枝、暗室見たいらしいから。ちょっと案内してやって」
「いいですよ。案内するほど広くないですけど。」
三枝は扉の縁に手を添えたまま、赤い光の中でもう一つの手で手招きする。
「高瀬、こっちきて」
僕は椅子の背にかけた鞄の肩紐を指で引っ張って、戻して、また引っ張る。
それでも足が動かなくて、思わず聞いた。
「僕、入っていいの?」
「大丈夫。いま薬品いじらないから。見るだけならいいよー。」
中は暗くて、最初に鼻の奥にツンとした匂いが来る。現像液の匂いと、濡れた紙の匂いが混ざってる。
「白灯、つけるね。大丈夫なタイミングだから」
ぱち、と弱い白い光が点いた。暗室って名前のわりに、白い灯りがあることを初めて知った。
部屋は狭い。流し台があって、トレーがいくつか重ねてある。
床の隅に長靴。壁には温度計とタイマー。
タイマーの赤い数字は消えていて、代わりに時計の秒針だけが妙にうるさい。
いちばん目を引いたのは、天井近くに張られたロープだった。
洗濯物みたいに、写真がいくつも吊るされている。木の洗濯ばさみで挟まれて、端が少し反ってる。
水気を切られた紙が、灯りを受けて鈍く光っていた。
「乾燥中」
三枝が言って、ロープの下をくぐるみたいに歩く。肩が写真に触れないように、ちょっとだけすぼめてる。
僕も真似して通った。写真の下を通ると、紙から落ちる水の匂いが近い。
ぽたと、水滴が受け皿に落ちる音がした。
「これ、今日の?」
「うん。さっきまでやってたやつ。……ほら、ここ」
三枝が一枚の端を指でつまむ。触れないぎりぎりで止めて、指だけで空中に線を引くみたいに示した。
写ってるのは校舎の裏の階段で笑いあう二人の生徒、光の当たり方が妙に柔らかい。
見慣れてる場所なのに、知らない場所みたいに見える。
「知ってる所だ。」
「そうだよ。だけど、同じに見えないでしょ」
三枝はロープに吊られた写真を、右から左へ順番に見ていった。口は動いてるのに声が小さい。
暗室だと、自然にそうなる。
「フィルムってさ、撮ってすぐ見られない。面倒ってよく言われる。」
「そうなの?」
「うん、でもね。」
三枝は洗濯ばさみの影を指でなぞって、止まった。
「すぐ見えないから、フィルムは。
そのあいだ、何度も思い出すの。あの場所のこととか、光の感じとか。
たぶんね、写真を待ってるんじゃなくて、写真のことを、ずっと考えてるんだと思う。
だから、出来上がるころには、もう他の写真と同じじゃなく特別な一枚になってる。」
言い終わってから、三枝が一瞬だけ僕のほうを見た。
目が合って、すぐ外れた。
彼女は自分の前髪を指でつまんで、耳の後ろへ押し込む。
「……ごめん。なんか、急にこんな事言われても困るね。」
「いや、良いと思う。なんとなくわかるかも。」
僕はそう言って、写真に視線を戻した。紙の縁が乾きかけて、白っぽくなっている。
三枝は、「うん」と嬉しそうに言って、流し台のほうへ歩いた。
蛇口の下に置いた受け皿を少しずらす。金属がこすれる音がして、それで会話が途切れたまま落ち着いた。
吊るされた写真はどれも、まだ湿っている。木の洗濯ばさみが一定の間隔で並んでいて、影も同じように並ぶ。
暗室の中の小さな秩序みたいだった。僕はその列を端から端まで見て、最後に三枝の背中を見る。
「高瀬はさ」
三枝が振り向かずに言った。
「待つの、平気?」
質問が軽く投げられた感じで、答えを急かされてない。
「平気っていうか……待ってる間、別のことしてる」
「それ、ずるい」
「ずるいのかよ」
声が少し大きくなって、僕はすぐ小さくした。三枝が肩だけ揺らして笑った。
暗室の壁に、その笑いが吸われていく。
「じゃ、戻ろ。白灯消すね」
スイッチが切られて、光が消えた。
暗さが一枚増えたみたいに感じて、目が慣れるまで数秒かかった。
扉を開けると部室の蛍光灯が眩しい。
三枝が先に出て、僕が後ろでドアを押さえる。鍵を閉める手つきが、さっきより早い。
部室に戻ると、鞄がそのまま椅子にかかっていた。先輩はもういなくなっていた。
僕は肩にかけて、ファスナーを閉める。
三枝は机の上のタイマーを指で弾いて、止まった針を確認してからポケットに入れた。
「帰る?」と僕が言うと。
「一緒に帰る」と三枝が言った。
廊下に出ると、窓の外がもう夕方で、校庭の端が薄く影になっていた。
部活の声が遠くでして、階段を降りる足音が混ざる。
靴箱の前で僕が上履きを脱いでいる間、三枝は紐を結び直していた。結び目をぎゅっと引いて、立ち上がる。
「方向、同じだっけ」と三枝が言う。
「駅のほう行くなら、同じ」
「よしよし、じゃあ帰ろう。」
それだけで、僕たちは並んで昇降口を出た。
外の空気が少し冷たくて、暗室の匂いがまだ鼻の奥に残っている気がした。
校門のほうへ歩き出すと、二人の靴の音がだいたい同じ速さで鳴った。
アスファルトから昼の熱が抜けきってなくて、靴底にねばっとした感触がある。
僕らは並んで歩いた。曲がり角の自販機の前で、同じクラスの男子が二人、しゃべりながらこっちを見た。
視線が一瞬止まって、すぐ逸れる。耳だけがこっちに向いてるみたいだった。
僕は手を軽く上げて
「委員の用事。解散」とだけ言った。
「解散って、今歩いてるけど」と三枝が小さく笑う。
「噂に必要なのは、単語だけだから」
三枝は肩をすくめて、それ以上追いかけてこなかった。
靴の擦れる音が二つぶん、夕方の歩道に並ぶ。
駅前のロータリーが見えてきたところで、三枝がスマホを取り出した。画面の光が頬に当たって白い。
「外でも撮りたいんだよね。学校の中だと同じ絵ばっかになるし。」
「そうなんだ。まあ、確かに。同じ絵ばっかだと飽きそう。」
「...飽きるというか、刺激が少ないんだよね。」
三枝が少し視線を落としてから、僕のほうを見る。
「事務連絡、なんだけど」
「うん?」
「ほら、委員の仕事でさ。校外で撮るなら、あとで時間とか場所とか共有しないといけないし...」
「委員の仕事で校外で写真撮る事とかあるの?」
「...どうだろう。まあ、何かあると高瀬探して話にいかないといけないし...」
言いながら、スマホを持つ手が少しだけぎこちなくなる。
「連絡先、教えてもらってもいい?」
僕は少し戸惑いながらもポケットから自分のスマホを出して、ホームボタンを押す。
指先が少し湿っていて、ガラスがすべった。
「そう、事務連絡。変な意味にしないでよ」
三枝は自身に言い聞かせてるみたいだ。
「変にするほど器用じゃない」
言いながら、画面を向け合って番号を打つ。送信音が小さく鳴って、三枝の端末がすぐ震えた。
彼女は確認して、親指で短く打ってから僕に見せる。
『さえぐさ ひより』括弧が仕事っぽくて、僕はそれをそのまま登録した。
駅の改札に近づくと、人の流れが増えて、制服の袖が何度か触れた。三枝は一歩だけ前に出て、立ち止まる。
「じゃ、私はこっち。今日はありがとう高瀬。」
「うん。気をつけて」
三枝が笑顔で手を振る。
僕も同じくらいの高さで、短く返した。
彼女は振り向かずに改札のほうへ歩いていって、夕方の雑音の中に混ざっていった。
僕は自分のホームの案内板を見上げて、表示が切り替わるのを待った。




