先輩とアルバム
放課後の廊下は、昼の音が引いたあとみたいに薄かった。
窓の外はまだ明るいのに、教室の扉はだいたい閉まっていた。
床に落ちた夕日の四角が、掃除の水跡を乾かしている。
鞄の内側、折れないように挟んだ紙の角を指で確かめる。
広報委員の回覧用の書類。
先生に渡せと言われた分のうち、写真部の分だけが残っていた。
だから、行く。用事はそれだけ。
階段を上がるとき、踊り場で誰かの笑い声が遠くにして、すぐ消えた。
廊下の端、写真部の扉の前で、一度立ち止まった。
戸の前で一度だけ息を止める。ノックしてから、手のひらで引いた。
前来た時と同じくらい部室は暗くて、カーテンの隙間から斜めの光が床に細い帯を落としていた。
中にいたのは一人だけだった。机に片肘をついて、カメラのストラップを指でいじっている女生徒。
写真部の先輩、って言うとそれだけで十分なくらい、雰囲気が部室に馴染んでる。
「あ、どうも。高瀬です」
顔だけ上げて、短く手を振った。
「おつかれ。誰か用?」
「広報のやつ。書類を先生から預かってて」
鞄の中で角がつぶれないように挟んでおいたクリアファイルを出す。
紙の擦れる音が、部室の静けさにやけに響いた。
先輩が受け取って、ファイルの上から親指でとんとんと確かめる。
「助かるよ」
机の上には切り抜きみたいな写真が何枚か散らばっていて、端っこに小さな銀色のクリップが転がっていた。
暗室の扉は閉まっている。僕は書類を渡しに来ただけだ。
先輩はクリアファイルを椅子の背に引っかけて、机の上の写真を揃えた。
紙の角がきっちり重なる。
「ねえ、高瀬くんだっけ?」
「はい」
「三枝と同じクラス?」
不意に来て、僕は一拍置いて頷く。
「同じです。二年の……えっと、二組」
「あー」
とだけ言って、視線を僕じゃなく窓の外へ滑らせた。外の声が一度大きくなって、また遠ざかった。
「あ、そういえば、写真の方も、広報に回すやつ何かありますか?先生が....」
言いながら、机の端に置かれたプリンター用紙の束を見た。
先輩は立ち上がって、引き出しを開ける。金属が擦れる乾いた音。
「じゃあ、これ。掲示に使って。余り」
校舎の夕方の光が、写真の黒を少し青く見せた。
「ありがとうございます」
先輩はまた椅子に腰を落として、カメラのストラップを指に絡める。
「広報、忙しいね」
「そこまでですよ。」
言葉がそれだけで途切れて、部室の時計の秒針が聞こえた。
僕は手の中の写真をそっと平らにして、折れないように鞄の中へ戻した。
赤いランプがついている暗室の扉は閉まったままだ。
「じゃ、僕帰りますね。用事、済んだんで」
鞄の肩紐を持ち上げて立つと、背中に。
「んー」
間のびした声がぶつかった。
「待って。いや、待ってっていうか……座ってなよ。」
先輩は椅子の背にもたれて、片手で空いてる椅子を指した。
軽い感じなのに、指は逃げ道を塞ぐみたいにそこから動かない。
「え、でも……」
「現像、もうすぐ終わるから。折角なら三枝にあっていきなよ。」
僕は鞄を持ったまま立ち尽くして、結局、椅子の背に鞄を引っかけた。
座ると床がきしんで、先輩がそれを聞いたみたいに目だけこっちを向ける。
「高瀬くん」
「はい」
先輩は棚の方へ体をひねって、上段から厚いアルバムを一冊抜き取った。
背表紙の角が擦れて白くなってるやつ。
机の上に置くと、どすんと鈍い音がした。
「三枝が撮った写真のアルバム。暇なら、めくってて」
そう言って、先輩は暗室の扉の前まで行き、耳を寄せるみたいに立った。
扉の向こうからは水の流れる音が細く続いている。
アルバムに手を乗せると、ビニールの表紙がひんやりした。開きかけて、やめた。
「見ないの?」
先輩が振り返らずに言う。
「勝手に見ていいんですか」
「いいよ。本人、別に気にしないよ。……たぶん」
たぶん、が小さく落ちて、そこから先輩はそれ以上続けなかった。
僕はページを一枚だけめくった。
ビニールが擦れる音がして、急に部室が静かになった気がした。
すぐ次のページをめくる手が止まる。
暗室の扉の前で先輩が腕を組み直す。時計を見て、また扉を見る。
「ほんとに、もうすぐ。あとちょい」
「……」
「ほんとに。折角ならさ。現像したての写真も暗室で見ていきなよ。中々暗室に入るとか出来ない経験だよ。」
僕は返事の代わりに、アルバムの端を持ち上げて置き直した。
鞄の中の鍵がかちゃ、と鳴る。先輩が不意に、扉から離れて僕の方へ二、三歩近づいた。
視線はアルバムの上じゃなくて、僕の顔のあたりを短くなぞる。
「う~ん。でも、そっかぁ~。君があの高瀬くんか。」
言い終わると、先輩はそれを自分で聞き直すみたいに口をつぐんで、すぐに視線を逸らした。
「なんです?」と言うタイミングを失って、喉の奥で音が引っかかったままになる。
先輩は片手で頭を掻いて、また暗室の扉の前に戻った。
僕は椅子の背にかけた鞄の肩紐を指で引っ張って、戻して、また引っ張る。
赤い光が一瞬だけ床に漏れて、すぐに消えた。先輩が、「ほらね」と言って扉を開ける。
「だから待たせた。……ちゃんと見た?」
返事をする前に、僕はアルバムを閉じて机の上に置いた。
帰るつもりで持ち上げた鞄は、椅子の背でじっとしている。




