動揺とあいさつ
昇降口のガラス扉を押すと、夕方の空気がひやっと頬に当たった。
校舎の中の匂いが背中から剥がれていく。
靴裏がアスファルトに変わる音がして、やっと呼吸が元に戻る。
さっきのことを思い返すと、あのカメラの小さな音。
「カシャ」
より、三枝が一歩こっちに寄った瞬間のほうが先に出てくる。
レンズが向いたことより、肩のあたりに影が落ちたこと。
近い、と思っただけで、体のほうが先に固くなった。
僕、そんなに驚くことだったか。手をポケットに突っ込む。
指先が、入れっぱなしの小銭に当たって冷たい。
歩幅を少しだけ大きくして、靴ひもがほどけてないか足元を見るふりをした。
あの時も、そんなふりをした気がする。体の位置は、ただ一歩分だった。
僕の後ろはドアだった。でも、頭の中は勝手に後ろへ下がっていく。
そういうズレが自分にあるのは、前から知ってる。人との距離を一定以上に保つ事、何回もやってる。
警戒しすぎだろ、と自分で思う。べつに触られたわけでもないし、取り返しがつかないことでもない。
写真だって、驚いたけど、すぐに冷静になれた。だから、息が止まりそうになったのは、レンズじゃなくて、あの一歩のほうだった。
困るな。
そう思ったところで、すぐに打ち消す。困るってほどじゃない。明日も同じ教室で会うだけだ。
三枝が何を考えてああしたのかも、僕には分からない。
からかったのかもしれないし、ほんとにただ、次取る距離を測ったのかもしれない。
決めつける材料がない。ただ、僕が勝手に身構えた、それだけだ。
駅前に向かう道に出ると、生徒の声が風に混ざって流れてきた。
誰かが笑いあう音、また、明日と元気に別れる音、嬉しそうに話すカップルの音。
僕とは関係ない音だ。そういうのに紛れると、気持ちが勝手に薄まる。
考えすぎかもしれない。たった一歩でこんなふうになるほうが変だ。信号が青に変わる。横断歩道の白い線を踏んで渡る。
靴底が線の上だけ少し滑る。帰ったら、鞄を置いて、制服を脱いで、冷蔵庫を開けて、麦茶でも飲む。
そういう順番を頭の中で並べると、体がそれに合わせて動き出す。ポケットの中で小銭を握ったまま、僕はそのまま駅のほうへ歩いた。
違和感は背中に小さく残ったけど、振り返らずに、いつもの道を選んだ。
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次の日の休み時間の廊下は、窓のほうから白い光が差していて、日差しが強かった。
制服の袖が擦れる音と、上履きのぱたぱたが途切れない。
「高瀬、ちょい待て」
隣で歩いてた友人が、僕の腕を軽く引いて、壁際に寄せた。
立ち話の形になると、通るやつが肩をすぼめて間を抜けていく。
「三枝さんと仲良くしてんの?」
友人の口角だけ上げる。
「別に仲良くないよ」
「本当かよ。」
僕が言い返す前に、向こうから人の流れが割れて、三枝ひよりと友人たちが並んで歩いてきた。
肩に細いストラップのカメラケース。
彼女がふと顔を上げて、目が合った。
合った、というより、最初からそこに合わせてきたみたいに、ぴたりと止まる。
「高瀬」
名前を呼ばれて、友人の肘が僕の脇腹に軽く刺さる。
僕は小さく手を上げるだけにした。
「...よっ」
三枝は、にやついたまま手を振った。
指先だけじゃなくて、腕ごとぶんぶん振る。
通りすがりの一年が二度見して、後ろの子と顔を見合わせて笑った。
「おー、相変わらず愛想の良さ。モテ女だな。」
「モテ女って」
「知らんの?三枝さん、他クラスの男子にまで声かけられたりよくしてる。愛想いいし、だれに対してもフランクに接するし。」
三枝は僕たちの前を通り過ぎながら。
「またね」と言って、写真部の子に何か耳打ちして笑った。
そのまま人波に紛れていく。背中だけ残って、カメラケースの金具がかち、と鳴った。
「な、またね、だってよ」
「委員の仕事でちょっと話しただけだって」
「ちょっとでああなる? 連絡先交換した? なあ、した?」
「してない。する理由ないし」
「じゃ、俺が聞いてやろうか。高瀬のために」
「やめろ。絶対やめろ」
「はいはい。でも、適度な付き合いだぞ。若者よ。」
と笑って茶化してきた。
僕は廊下の向こうを見た。
もう三枝は見えないのに、さっきの手振りだけ、目の奥に残っていて、消えるのが遅い気がした。




