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距離と決意

天井を見上げたまま、目だけを動かす。


何かを考えようとしているわけじゃないのに、頭の中だけが落ち着かない。こういう夜は、無理に眠ろうとすると、かえって意識が冴えてしまう。


どうして今こうなっているのかを、順番に整理したいわけでもない。ただ、考えが勝手に戻ってくる場所が、だいたい同じだというだけだ。


両親が離婚したこと。


それは、出来事としてはもう過去に収まっている。詳しい話を思い出そうとしても、映像みたいには浮かんでこない。


ただ、「そうだった」という事実だけが、静かに残っている。


母親は、生活の中からいなくなった。


突然というより、ある日を境に、存在しない状態が続いていった。朝の音や、帰宅したときの気配が減っていって、それが特別視されなくなっていった。


最初は、戸惑いがなかったわけじゃない。


このままでいいのかとか、何かを間違えていないかとか、そういう漠然とした感覚はあったし寂しさを感じた事も何度もあった。


でも、それをどう扱えばいいのか分からないまま、時間だけが過ぎていった。


時間が経つにつれて、驚かなくなった。


いないことに対して、毎回立ち止まらなくなった。それが日常になって、意識しなくても生活は続いていった。


その頃からだったと思う。人との距離を、少し手前で保ち直すようになったのは。


踏み込まれないように、踏み込まない。


近づきすぎなければ、離れる瞬間に傷つかずに済む。何かを失う前提で考えていれば、失ったときに、わざわざ痛みを確かめなくていい。


そうやって距離を取ることは、意識的な決断というより、身についたやり方だった。守っているつもりも、諦めているつもりもなく、ただ、その位置が一番静かだった。


それを正しいと思ったことも、間違っていると感じたこともない。そうしていれば、感情が大きく揺れないで済んだ。


それだけは、確かだった。


天井の模様を目でなぞりながら、息を吐く。


距離を置きただした理由を、言葉にすることはできる。でも、それ以上掘り下げる気にはならなかった。


それは説明じゃなくて、確認に近い。僕はそうやって、失う悲しみを味わわない位置に、自分を置いてきた。


距離を置くことは、癖みたいなものになっていた。


誰かと話すときも、関わるときも、自然と一歩分だけ余白を残す。その余白があれば、何かが変わっても、すぐに自分を立て直せる気がした。


踏み込まれないようにするのは、相手を拒むためじゃない。


踏み込まないのも、無関心だからではない。どちらも、失ったときの痛みを、最初から小さくしておくためのやり方だった。


近づかなければ、期待もしない。期待しなければ、失望もしない。


そう考えるようになったのが、いつからだったのかは、もうはっきりしない。


母親がいなくなった生活は、特別な出来事としては残っていない。


ただ、「いなくなる」という変化が、起こりうるものとして、当たり前に組み込まれた。それだけのことだ。


それ以来、関係が続くことを前提にしなくなった。


続くかもしれないし、終わるかもしれない。そのどちらにも備えているつもりで、実際には、どちらにも深く触れない場所に立っていた。


それが冷たい態度だとは、思っていない。でも、温かいとも言えない。


揺れないために選んだ位置は、感情を遠ざけることにもなっていた。


それでも、この距離の取り方を、今すぐ変えたいとは思わなかった。


守られてきた感覚がある以上、簡単に手放せるものでもない。


ただ、無関係ではない、とは思う。過去の時間と、今の自分の姿勢が、どこかでつながっていることは、もう否定できなかった。


だからといって、理由としてまとめてしまう気はない。


両親の離婚も、母親がいなくなったことも、距離を置くようになった自分も、全部を一本の線で結ぶのは、少し乱暴だ。


天井から視線を外して、部屋の暗さに身を委ねる。ここは安全で、静かで、何も踏み込んでこない。


前の夜から、ざわつきが残っている。


眠って起きても、完全には消えていなかった。強くなるわけでも、形を持つわけでもないのに、確かにそこにある感覚だけが、胸の奥に沈んでいる。


なくなったわけじゃない、と思う。


時間が経てば薄れるものだと期待していたわけでもない。ただ、朝になれば少しは整理されているかもしれない、という程度の予想が外れただけだ。


まだ、何も壊れていない。


それは、はっきり分かる。関係が変わったわけでも、距離が詰まった決定的な瞬間があったわけでもない。昨日までと同じように、日常は続いている。


だからこそ、考えてしまう。近いと思う距離は。僕も受け入れ、近づいたのかもしれない。


でも、今なら、引き返せる距離だということを。近づききってしまえば、戻れない。


何かを共有しすぎてしまえば、距離を戻すことは、拒絶や否定と区別がつかなくなる。そうなる前の位置が、まだ残っている。


ざわつきの正体を、無理に言葉にしようとはしなかった。


好意なのか、興味なのか。それを判断すること自体が、もう一歩踏み込む行為に思えた。


分かっているのは、消えていないという事実だけだ。それを否定するつもりはない。なかったことにもしない。ただ、育てるかどうかは、別の話だ。


これ以上、踏み込まれない位置に戻る。本当にぎりぎり戻れると思う。


それは、関係を壊す選択じゃない。関係を断つ判断でもない。ただ、自分がこれ以上揺れないための位置を、もう一度取り直すというだけだ。


失う苦しみを、もう味わいたくない。


その本音は、思ったよりもはっきりしていた。理由を探さなくても、理屈を重ねなくても、そこだけは迷いがなかった。


嫌いになるわけじゃない。遠ざけたいわけでも、否定したいわけでもない。だからこそ、距離を戻すという形を選ぶしかなかった。


これは、逃げではない、と自分に言い聞かせる必要もなかった。


守るための判断だということは、自分が一番よく分かっていた。


決めたからといって、何かが変わるわけじゃない。


部屋の空気も、窓の外の明るさも、昨日と同じままだ。ただ、内側だけが、静かに向きを変えている。


感情は、消えていない。


それを確認するように、胸の奥に意識を向ける。ちゃんと残っている。揺れも、温度も、否定する理由はなかった。


でも、それ以上近づかせない。


踏み込ませないし、自分からも踏み込まない。感情の存在を認めたうえで、距離だけを戻す。それが、今の自分にできる一番穏やかな選択だった。


もし、ここで進めば。


何かを期待して、何かを信じて、その先で失う可能性も引き受けることになる。それを悪いことだとは思わない。ただ、自分はまだ、そこに立ちたくなかった。


朝が来る。


目覚ましの音がして、体を起こして、制服に袖を通す。考えは途切れ途切れになるけれど、決意だけは崩れなかった。


いつも通りに家を出て、いつも通りに歩く。


特別な覚悟をした感覚も、背筋が伸びるような気分もない。ただ、少しだけ足元が安定している。


ここから先で、何かを変える必要はない。距離を示す行動を取る必要もない。ただ、これ以上踏み込ませない。


そして、僕はもう三枝にこれ以上近づかない。自分から接触しに行かない。


内側で決めただけだ。それで十分だと思えた。


嫌いになるわけじゃない。


好意があるかどうかも、今は判断しない。ただ、引き返せる距離に、自分を戻した。それだけのことだ。


駅に着く足を踏み入れる直前、息をひとつ整える。


日常は続く。何もなかったように、同じ時間が流れていく。


それでいい。この決意は、外に見せるためのものじゃない。自分が揺れないために、静かに置いておくものだ。

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