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男子と気付き

チャイムが鳴ってから、教室の音は少しずつ薄まっていった。


机を引く音、カバンのファスナー、廊下を走る上履きが遠ざかって、代わりに黒板消しの粉っぽい匂いが残る。


僕は自分の机の引き出しを探りながら、ノートの端を指で押さえていた。


帰る準備をしているふりをして、体はまだ椅子に預けたまま。


隣の方で、三枝が立ち上がる気配がした。椅子の脚が床に擦れて、軽い音がする。


視線を向けるほどのことでもないはずなのに、目が勝手にそっちへ寄った。


「三枝ー」


教室の入口から、明るい声が投げ込まれた。


入ってきたのは、同じ学年の男子生徒だった。


サッカー部で、いつも前髪が上に跳ねてる。


肩にバッグを引っかけたまま、ドア枠に片手を置いて笑っていた。


「は~い。なに?」


と返して、机の上のペンケースを閉じた。カチッ、と小さく鳴る。


男子が近づいてきて、三枝の机の横に止まる。距離は、机一つ分もない。


「この前さ、写真部の展示、廊下のとこ見たんだけど。あれ、三枝のやつ?」


「うん。何枚か混ざってるよ」


「やっぱり。あの、二人の子が笑ってる写真。すげー綺麗だった」


「ありがと」


と言って、頬の横の髪を耳にかけた。指先が少しだけフィルムの巻き戻しみたいに動いて、すぐ戻る。


「すごいいい表情が撮れたんだ~。タイミング合うと、たまたま当たりみたいになる」


「当たりって言うなよ。狙ってるじゃん」


「狙ってないって」


ふたりの間に、笑いが一回転がった。男子の声は大きいのに、雑じゃなくて、教室の空気を軽くする感じがした。


僕は教科書をカバンに入れて、ジッパーを半分だけ閉めた。指が途中で止まる。


閉めきらないまま、また三枝のほうを見てしまう。


男子がカバンの中からスマホを出して、「あ、これ」と画面を見せた。


「今度さ、クラスのやつらで河川敷でバーベキューやるって言ってたじゃん。あれ、来たら?また、いい表情取れるんじゃない?」


三枝が首を傾ける。


「写真を取りに?」


「いや、三枝が。ほら、フィルムのやつ。俺、よくわかんないけど、楽しくて写真も撮れて最高じゃん。」


「まあ、悪くはないけど、写真撮ってたら手伝えないよ。」


「じゃあ俺が焼く係やるから。撮る係でいいじゃん」


「なんで係分けされてるの」


三枝の笑い声が、窓の方へ抜けた。西日が机の角を白くしていて、ふたりの影が床で少し重なっていた。


僕は立ち上がって、椅子を机に寄せた。ガタン、と自分の音がやけに大きく感じる。


男子と三枝はそれでも話を続けていて、こっちを見ない。


「三枝、放課後って部室とか行くの?」


「今日は行かないよ。プリント、昨日までで一区切りついたし」


「じゃあ今、時間ある?」


「うーん、委員のプリント配るのだけ、職員室寄る」


「それ終わるまで待つわ。俺も先生に用あるし」


三枝は、「別に待たなくていいよ」と言いながら、ノートを二冊重ねて抱えた。


男子は「いいって」と軽く返して、教室の出口のほうへ体を向けた。


僕はカバンを肩にかけて、廊下側の列を歩き出した。ふたりより先に出れば、何か言う必要はなくなる。


そう思って、ドアの前を通り抜けようとする。


背中越しに、「そのフィルムってさ、現像ってどれくらいかかんの?」


と聞く声がした。


三枝が、「ものによるよ」と答える。


笑いがまた混ざる。


廊下は人が行き来していて、別のクラスの生徒が「部活だるー」と言いながら通り過ぎた。


窓から風が入って、掲示物の紙がぱたぱた鳴る。


僕は靴箱の方へ向かうはずなのに、足が一度だけ遅くなる。振り返らない。


振り返ったら、見てたことが形になる気がした。


教室のドアの向こうで、三枝の声が少しだけ遠くなった。


聞こえるのは、男子の明るい相づちと、机に何かが当たる軽い音。


カバンのジッパーを、ようやく最後まで引いた。


昇降口のほうがざわついていた。


生徒たちの声と、靴箱の扉がぶつかる乾いた音。僕は鞄の肩紐を引き上げながら、人の流れを避けて端を歩いた。


さっきの風景が頭から離れない。


三枝が立ち止まっていて、男子がひとり、少し前のめりに話しかけていた。


距離が近い。男子の手が、空中で何度も小さく動く。


三枝は笑って、肩のあたりで髪を指にかけて、うなずいた。


僕は歩幅を変えずに階段を下りたはずなのに、足の裏だけが一拍遅れてくるみたいだった。


下駄箱で上履きを突っ込む指先が、ゴムの縁に引っかかる。直して、また引っかかる。


「高瀬、帰る?」


後ろから声をかけられて、僕は顔を上げた。


クラスのやつが二、三人、コンビニ寄ってく流れの話をしている。


「今日はいいや。家、用事ある」


言いながら、用事なんてなかった。言葉が口から出たあとで、舌が少し乾いた。


相手は、「そっか」と軽く手を振って外へ出ていった。


昇降口のガラス戸が開いて、夕方の風が入る。


土の匂いと、校舎の古い匂いみたいなのが混ざっていた。


僕も外に出て、空を見上げないようにして歩き出した。


さっきの光景が、目の端にまた貼りつく。三枝の笑い方とか、男子の立ち位置とか。


どうでもいいはずの細かい部分だけが残って、消えない。


理由は分からなかった。腹が痛いとか、頭が重いとか、そういうのとも違う。


鞄の中の教科書がずれて、背中に角が当たる。


信号待ちで立ち止まったとき、夜の水族館が急に浮かんだ。


暗い通路の天井、青い光、ガラス越しの魚の影。


帰宅してベッドに倒れたまま、スマホの画面を何度も点けたり消したりしていた自分の指。


――踏み込まれているかもしれない。あのとき、そういう言葉が頭の中で転がっていた。


三枝のメッセージを読んで、返事を打っては消して、結局いちばん薄い文を送った夜。


天井の模様を数えて、眠れないまま、体のどこかが落ち着かない感じだけが残った。


でも、僕はまだ大丈夫だと思っていた。


クラスのやつと笑って、委員の仕事して、たまに一緒に帰って、それで収まる場所に自分がいる、と。


踏み込まれそうになったら冗談で逃げるし、黙ってもやり過ごせる。


いつもみたいに。青になって、信号を渡る。


横断歩道の白い線を踏むたび、靴底がアスファルトをこすった。


家に着くころには空が濃くなっていて、近所の家の換気扇の音がはっきり聞こえた。


玄関の鍵を回すと、金属が擦れる小さな振動が指に来る。


「ただいま」


返事はなく、居間の時計だけが一定の間隔で鳴っていた。


靴下のまま廊下を歩く。冷蔵庫の前で立ち止まり、扉を開けたけど、何が飲みたいか分からずに閉めた。


自室に入って、鞄を床に落とす。ファスナーがぶつかって鈍い音がした。


机の上にスマホを置いて、画面が黒いままなのを見た。


目を閉じると、また教室のシーンが出てくる。三枝の横顔と、男子の声の届かない距離。


あれは、別に珍しい風景じゃない。そう言いかけて、喉の奥で止まった。


僕は椅子の背に手を置いて、力を入れた。


安全なところに立って見ていられる、って思ってた。


そのはずだった。けど、さっきの一瞬で、線が引かれてないことだけが分かった。


椅子を引く音が、部屋にやけに大きく響いた。

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