昼休みと約束
連休明けの昼休み、教室はパンの袋のカサカサと、机を引く音でざらついていた。
僕は席でコンビニの焼きそばパンの端をちぎっていた。ソースの匂いが指に残る。
「高瀬」
呼ばれて顔を上げると、すぐ隣で三枝が立っていた。
肩から斜めにカメラバッグの紐が見えて、髪の毛が少し跳ねている。
「今、いい?」
「うん。どうした?」
僕が立つと、席の椅子が小さく鳴った。
視線が一つ、二つ、こっちに寄るのが分かる。教室の空気が、少しだけざわついた気がした。
三枝は廊下に出るよと合図して、僕もそれに続いた。
廊下の風が冷たくて、ソースの匂いが薄まる。
「この前のフィルムの現像、今日やるんだ。暗室空いてるから」
「へえ。もうやるんだ」
三枝はカメラバッグの口を少し開けて、中身を指で押さえた。
フィルムケースが小さく鳴った。
「放課後、部室来れる?」
「放課後ね。…うん、行けると思う」
「じゃ、決まり。あ、急がなくていいよ。現像は少し時間かかるから。」
三枝が戻ろうとしたところで、廊下の向こうからクラスの男子が二人、
給水機の前で立ち止まってこっちを見た。笑いをこらえるみたいな顔。
「おーい高瀬ー。昼休みに仲がいいことで」
「普通に羨ましい」
三枝が一瞬だけ僕の方を見た。
僕は肩をすくめて、手を軽く振った。
「そんなんじゃない。用事。現像だって」
「現像ぉ? なんか大人っぽい単語出た」
「俺らも現像してえよ」
「それはなんか違うだろ」
笑い声が廊下に散った、背中に当たる視線が、まだ残っている感じがした。
「じゃ、放課後。高瀬、忘れないでね」
三枝はそう言って、指で空中に丸を描いた。
僕はうなずいたつもりだったけど、うまく角度が決まらなかった。
三枝が教室へ戻っていくと、扉のガラス越しに、何人かが目だけで追っているのが見えた。
僕が後から入ると、机の間の空気が一瞬途切れて、すぐに別の話に戻っていく。
「高瀬は放課後、写真部デート?」
友人が、ストローの刺さったパック牛乳を振りながら言った。
「ちがうって現像。フィルムの」
「現像って言えば全部許されると思ってない?まあ、何かあったら相談しろよ。しないだろうけど」
「許されるって何が。なんだよその感じ」
「なんでも~。」
僕はパンの残りを口に入れた。ソースが喉に引っかかって、水を飲む。
教室の笑いがまた小さく起きて、誰かの椅子がきい、と鳴った。
「まあ、いいか。高瀬には三枝しかいないし」
「言いすぎだろ」
そう返した声が、思ったより乾いて聞こえた。
僕は机の上の消しゴムを指で転がして、端で止めた。窓の外の白い光が、机の木目に薄く伸びていた。
放課後、写真部。
口の中でその言葉をもう一回転がして、飲み込んだ。理由はある。用事だ。
そう思ったところで、教室のどこかからまた視線が飛んでくる気がして、シャツを指でつまんで直した。
放課後、三枝はすぐに教室を出ていった。僕は言われた通り時間を置いて、ゆっくり部室に向かった。
部室に着くと三枝の姿はなく、暗室の赤ランプだけが点いていた。
ほどなくして、暗室のドアの赤いランプが消えて、かわりに白い蛍光灯が部室の壁を平たく照らした。
三枝がドアの取っ手を押し、湿った空気を外に逃がしながら、出てきた。
現像液の匂いが、服の袖に引っかかっている気がした。
「ふう。これで終わり。あ、来てくれたんだ。」
三枝は濡れた手をタオルで拭きながら、指先を振った。
シンクの蛇口から落ちる水が、ぽつ、ぽつ、とリズムを刻む。
三枝は暗室から運んできたフィルムの端を、クリップでつまんでハンガーに掛ける。
引っ張ると、まだ少しぬめりがあるように見えた。
洗ったばかりの紙が、重みで少し反って、下の方が同じ角度に揺れる。
三枝が指で一枚ずつ間をあけていく。
「手伝ってくれる?くっつくと、乾いたとこで貼りついちゃうからね」
「了解」
僕も真似して、クリップをひとつずつずらす。
紙の端から、細い水が落ちて床に黒い点を作った。
吊られている中に、子どもの後ろ姿の写真があった。
小さなリュックの肩ひもが片方ずれていて、床の光の筋が背中の方へ伸びている。
手を伸ばすのはやめて、少し距離を変えて見る。
子どもの足元の濡れたタイルの反射が、角度で白くなったり消えたりした。
「その子、クラゲのとこでずっと動かなかったよね」
三枝がロープの下から覗き込むみたいに言った。
「見上げたまんま。親に呼ばれても、振り向かなかったな。」
「展示、あそこだけ音も違った。ぼわーって」
「水槽の前、ずっと暗いしな」
僕が言うと、三枝は「暗いの好き」とだけ言って、タオルを肩にかけ直した。
乾燥中の紙が、風でまた少し揺れた。別の写真に目が止まる。
ガラス越しの影が、やけに人の形をしている。
僕の制服の襟の白が、端っこに写っていた。
水槽の反射に紛れて、顔の輪郭もある。
自分が写っている写真、というのが変な感じで、僕は視線を外して別の一枚に逃げた。
「高瀬、そこ、写り込みすぎ」
三枝がロープの端を押さえたまま言う。
「僕のせいじゃないだろ。ガラスが悪い」
「ガラスは悪くない。人が近い」
「近いのは三枝だって」
言いながら、僕はクリップを一つ追加して、紙の下端が机に触れないようにした。
三枝は「はいはい」と返して、乾いてきた写真の角を指先でつまもうとして、すぐ引っ込めた。
「触ると跡つくんだった」
「学習したね」
「知ってます!あと、イルカのとこ、通路が狭かったね。」
「渋滞してたね」
「そう。あの展示の並び、もうちょい考えてほしい」
三枝はロープを少し強く引いて張り直した。
結び目がきゅっと鳴る。写真が一斉に、同じ方向へふわっと揺れて止まる。
僕は吊られた列を、端から端まで目でなぞった。
濡れた紙はまだ色が落ち着かず、どれも薄い灰色の膜を被っているみたいに見える。
部室の時計が、カチ、カチ、と針を進める。
「乾くまで、もうちょいかかるよね」
「うん。帰る前に、あれだけ外す」
三枝は指で子どもの後ろ姿の写真を指し、僕の写り込みのある一枚の前で止めた。
指先が空中で一瞬迷って、結局、何も触らずに下ろされる。
「高瀬、これ、あげるね。」
「乾いてからな」
「乾いてから。今はだめ」
「知ってるよ。」
三枝はふふっと笑い作業を進める。僕は椅子を引いて座り、ロープの下から見上げる。
水滴が、ぽとり、と床に落ちた音がした。




