別れと戸惑い
水族館の出口を出ると、空がもう薄い青に寄っていた。
外の空気は少し冷たくて、館内の湿った匂いが袖のあたりに残ってる気がする。
三枝はポケットから定期を出して、改札へ向かって歩いた。
「帰り、混むかな」
「この時間なら、まあまあじゃない?」
駅前の自販機の灯りがやけに白い。
三枝は小銭を探すみたいにポケットをまさぐって、やめた。
ホームに上がると、電車の入ってくる音がトンネルの奥から膨らんできた。
風が来て、髪が少し顔にかかった。
三枝は片手で押さえながら、僕の方を見た。
「今日、魚いっぱい見れたね。」
「暗いとこ、楽だった」
「それ褒めてる?」
「褒めてない」
電車が止まって、ドアが開く。
人が降りて、乗って、僕らも流れに混じった。
座席は埋まってて、吊り革が並んで揺れている。
僕は手すりをつかんで、三枝は僕の斜め前でつり革を握った。
カメラは肩から下げたままだ。
走り出すと、窓に駅の明かりが流れて、車内の広告の色が少し黄ばんで見える。
三枝がレンズキャップを指先でくるくる回した。
「水族館のショップ、見なかったの失敗したな~。」
「あそこ混むし」
「でもさ、変なキーホルダーとかあるじゃん。魚の」
「魚のキーホルダー要る?」
「要るか要らないかで言ったら、要らないね」
「じゃあいいじゃん」
「今の会話、ゼロだったね」
僕は笑って、息だけ出した。
三枝は肩をすくめるみたいにして、窓の外を見た。
トンネルに入って、ガラスに僕らの影が映る。
揺れに合わせて、三枝のカメラが小さくコツ、と鳴った。
「次、いつ現像するの?」
「う~ん。連休明けてからかな。」
「そっか」
「気になる?見においでよ。」
「暇だったら。」
「折角、二人で撮った写真もあるし見においでよ。てか、こい。」
「強制ですか。わかった。いいよ。」
そう言って三枝は、つり革を握った手の力を抜いたり入れたりした。
車内アナウンスが次の駅名を言う。
隣のサラリーマンがスマホをスクロールする指の音が小さく聞こえた。
「今日の写真、何枚撮った?」
「まだ数えてないよ。フィルムだし」
「そっか。現像するまでわかんないか。」
「覚えてはいるよ!」
「覚えてるなら、じゃあ当てて。僕、何回まばたきした?」
「無理でしょ。頭こんがらがるよ。」
そういって僕たちは笑いあった。
しばらく、レールの継ぎ目の音が一定に続く。
僕は吊り革の列を見上げて、端の方が少し黒ずんでるのに気 видноがいった。
「ねえ高瀬、帰ったら何する?」
「風呂。あと、晩飯」
「普通だ」
「三枝は?」
「私も普通。たぶん、現像したいの我慢して、今日撮った写真の事考える。」
「特別な一枚にするために?」
と言うと、三枝は首をかしげて、嬉しそうに笑った。
別に大げさじゃない笑い方で、口元だけが少し上がる。じぃと僕の顔見てまた、嬉しそうに笑う。
途中駅に近づくと、三枝が一歩だけドアの方へ寄った。
人の間をすり抜けるほどじゃないけど、降りる準備の距離だ。
アナウンスが駅名を言い終わる前に、三枝がこっちを振り向く。
「ここで降りるね。今日は本当にありがとう。」
「うん」
電車が止まってドアが開くと、ホームの空気が入ってきた。三枝は人の流れに乗って一歩降りて、すぐ振り返った。
「ありがとう。高瀬。今日は楽しかったよ。じゃ、またね。」
「また」
三枝は廊下ですれ違った時みたいに笑顔で、手を大きく振った。
僕も小さく手を上げる。
ドアが閉まって、三枝の姿はガラスの向こうで一瞬だけ細くなったように見えた。
三枝はこちらを見てまだ手振っていた。
電車が動き出す。ホームの明かりが後ろへ流れて、三枝を見えなくした。車内がまた同じ明るさに戻る。
手すりから手を放して、つり革を握り直すと、手のひらにゴムの感触が残った。
最寄り駅で降りて、改札を抜ける。外は夜になっていて、コンビニの看板が眩しい。
家までの道を歩くと、どこかの家の晩ごはんの匂いがした。
自転車のライトが横を通って、足元が一瞬白くなる。玄関の鍵を回す音が、思ったより大きく響いた。
靴を脱いで上がると、家の空気が昼のままで止まっている。電気をつけて、カバンを床に置いた。
ポケットから改札で使った定期を出して、机の上に置く。洗面台に行って、蛇口をひねって手を洗った。
水が指の間を流れて、少し冷たかった。
自室に戻って、ベッドの上で仰向けになって、天井の角を目でなぞっていた。
電気は消してあって、机の上の充電器だけが小さく光っている。
枕元のスマホが、薄い震えで布団を鳴らした。
画面をつけると、三枝の名前。
「今日はありがと! 楽しかったよ。写真現像したら渡すね。あと……こういうの、ちゃんと言いたくて。今日水族館行けて嬉しかった!」
親指が止まったまま、通知の文字をもう一回追った。
布団の中で足先を動かすと、シーツが擦れてかすかに音がした。
部屋の外から、家のどこかの水道の音が一瞬だけした。返信欄を開く。
何度か打って、消して、また打つ。
「全然。気にしないで。こちらこそありがとう。おつかれ」
送信のボタンを押して、画面がすっと会話画面に戻る。
既読はまだつかない。スマホを伏せて置いたのに、しばらく手が離れなかった。
そのまま目を閉じても、すぐには眠れなかった。
天井の角から視線を外しても、さっきまでそこにあった線だけが残っている気がする。
三枝は、いつも正面から来る。回り道をしないし、探るような言い方もしない。
気になることは、そのまま差し出してくる感じがする。
写真部の部室で、一歩近づかれたときのことを思い出す。
距離としては、たったそれだけだったはずなのに、なぜか困った。
近いとか遠いとかじゃなくて、決めていた位置を越えられた感じがした。
僕は、人と距離を置くのが楽だった。踏み込まれない場所に立っていれば、余計なことを考えなくていい。
誰かの気持ちに応える必要も、自分の内側を見せる必要もない。
それなのに、三枝はいつの間にか、そこを飛び越えてきていた。
気づいたときには、もう足跡みたいなものが残っていて、それを消そうともしていない自分がいた。
水族館に行ったことも、カメラを構えている三枝に、あの言葉をかけたことも、
距離の事を考えてやったわけじゃない。ただ、その場で、そうしてしまっただけだ。
なのに、それが全部、前に「困った」と思った感覚を、少しずつ大きくしている。
受け入れかけていた。
そう言い切るほどはっきりしていないけれど、少なくとも、拒もうとはしていなかった。
それが、いちばん落ち着かない。




