表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/16

距離とクリティカル

青い光が天井から落ちて、僕の手の甲も薄く青くなる。


目の前のガラスに、僕と三枝の輪郭がうっすら映っていた。


向こう側では魚が群れになって、同じ方向へ何度も折れ曲がる。


ぶつかりそうで、ぶつからない。


水と水の間に、見えない線があるみたいだった。


「おぉ~。おぉ~!」


三枝が息を吐いて、ガラスへ半歩近づく。肩がほんの少し、僕の正面に出る。


僕はそのぶん、体重を右足に移した。動いたと言えるほどじゃない。


でも靴の先が、床の目地をまたがない位置に戻った。


「寒い?」


三枝が振り返る。


「いや。なんか、ここ暗いなって」


適当に言って、視線を魚に戻す。戻すっていうより、戻さないと落ち着かない。


ガラスは冷たそうに見えるのは、触った人の手の跡が白く残っているからだろう。


子どもの指が線を引いたみたいな跡。その跡の向こうでは、魚は何も知らない顔で泳ぐ。


近いのに、届かない。届かないように作られてる。


僕は人と並ぶとき、いつも同じことをしてる。


肩が当たらない幅を勝手に決めて、歩く速度を合わせるふりをする。


向こうが詰めたら、僕は足を止めて信号を見るとか、スマホを見るとか、何かを探すふりをして間を作る。


廊下で誰かが距離を詰めてきたら、ロッカーを開ける手元に集中するふりをする。


笑われたら笑い返すけど、話が自分の中のほうへ入ってきそうになったら、冗談で外へ押し返す。


三枝はガラス越しに、魚の流れを指で追うみたいに眺めていた。指先は触れていない。


触れないまま、近い。


「もう撮らない?」


僕が言うと、三枝はカメラを軽くなぞる。


「まだ撮るよ。今は少し見るのに集中する。」


そう言って、三枝は笑顔で僕を見る。


僕の輪郭がガラスに映るのを、僕は見ないふりをした。


見ると、どこに立ってるかがはっきりしすぎる。


写真部の部室を思い出す。あのときも、窓のガラスがあった。


午後の光で、机の上のフィルムケースが白く光っていた。


僕は部室の入り口付近で、帰ろうとドアの前に立ってた。


壁に背中が触れるか触れないかのところ。


三枝が「待って、高瀬」と言って、カメラを向けてきた。


僕があっけに取られていると、三枝が一歩、踏み込んだ。


ほんの一歩。床のきしむ音がした。そのとき僕は、後ろの壁を意識した。


逃げ場がない、って言葉が浮かぶ前に、背中が壁を探してる感じ。


距離が近いとか、そういう話じゃなくて、こっちが。


「ここまで」って勝手に決めて置いてた線に、三枝が超えてきたみたいだった。


壁に背中が当たるより先に、別のものが当たった気がした。


「高瀬?」


今の三枝が、小さく僕の顔をのぞく。


「ん?」


「さっきから、ちょいちょい下がってない?」


言われて、僕は足元を見た。床の目地が一本、さっきより遠い。


僕の靴が、無意識に引いた線の上にある。


「いや、ここ人通るし」


僕は横にずれて、通路側を少し空けた。空けた分、三枝との間に、見えない幅が戻る。


三枝は「そっか」とだけ言って、また水槽へ向き直った。


ガラスに映る二人の影は、青い光で薄くなったり濃くなったりする。


魚の群れはまた折れ曲がって、ガラス際をすっと流れていく。


ガラスのこちらと向こうみたいに、線がある。


線の種類が、距離とは別のやつ。そう思ったところで、口の中が乾いて、言葉が出なくなった。


僕は息を吸って、ガラスに残った手の跡をぼんやり見ていた。


暗めの展示通路は、水槽の循環音が低く続く。三枝もまた写真を撮り始めた。


三枝は立ち止まって、カメラを顔の高さに構えたまま動かなくなった。


ストラップが胸の前でまっすぐ張っている。


指だけが小さくレンズのリングに触れて、止まる。


シャッターは切られないのに、目の前だけ時間が固まったみたいだった。


僕は水槽の前で手持ち無沙汰になって、ガラスの向こうの魚を追った。


群れが折り返すたび、光が刃みたいに走る。横顔を見ると、三枝のまつ毛がライトに縁取られていた。


「……三枝」


呼んだら、すぐ返ってきた。


「なにっ」


食い気味で、声が少し跳ねた。


カメラはまだ構えたまま、返事が返ってきた。


僕の方に来るわけでもなく、引くわけでもなく、ちょうど通路の端で止まっている。


言うことを探して、口が先に動いた。


「カメラ構えてる三枝はなんか良いね。似合ってると思う。」


言い終わった瞬間、三枝の動きが止まった。今まで止まってたのに、もう一段止まった感じ。


指がシャッターボタンの上で固まって、息が一回分だけ聞こえなくなった気がした。


水槽のブクブクだけがやけに大きい。


「……別に」


短く言って、視線をガラスの中に戻す。


カメラのファインダーの向こうで何かを測るみたいに、ほんの少しだけ顎が上がった。


暗いのに、耳のあたりが赤く見えたけど、照明のせいだろうと流した。


ここ、青と赤が混ざる。


三枝はそのまま、カメラを下ろさずに半歩前に出る。足音が控えめに二つ。


僕がついてくるのを確認するみたいに肩だけ振り向いて。


「次、こっち。」と言った。言い方が早い。


巻き取る音が、カリカリと手元で鳴る。


僕も遅れて歩き出す。通路の曲がり角で、三枝のストラップが揺れて背中に当たるのが見えた。


展示の案内板の白文字が暗闇に浮いて、矢印が淡く光っている。


「タコって撮りづらくない?」


聞くと、三枝は前を向いたまま、。


「撮りづらいから撮るんだよ」


足取りは変えない。先に行ってしまうでもなく、ちゃんと僕の歩幅に合わせてるのが分かる距離で、次の部屋の入口まで導く。


軟体動物のコーナーに近づくと、空気が少しひんやりして、湿った匂いが濃くなった。


ガラス越しに白い光が揺れて、通路の影が薄まる。


三枝は入口の手前で立ち位置を決めるみたいに一度止まり、今度は迷いなくカメラを構え直した。


さっきの一瞬の止まり方は、もう置いてきたみたいに。


僕は横に並ぶ場所を探して、案内板の端に指を置いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ