距離とクリティカル
青い光が天井から落ちて、僕の手の甲も薄く青くなる。
目の前のガラスに、僕と三枝の輪郭がうっすら映っていた。
向こう側では魚が群れになって、同じ方向へ何度も折れ曲がる。
ぶつかりそうで、ぶつからない。
水と水の間に、見えない線があるみたいだった。
「おぉ~。おぉ~!」
三枝が息を吐いて、ガラスへ半歩近づく。肩がほんの少し、僕の正面に出る。
僕はそのぶん、体重を右足に移した。動いたと言えるほどじゃない。
でも靴の先が、床の目地をまたがない位置に戻った。
「寒い?」
三枝が振り返る。
「いや。なんか、ここ暗いなって」
適当に言って、視線を魚に戻す。戻すっていうより、戻さないと落ち着かない。
ガラスは冷たそうに見えるのは、触った人の手の跡が白く残っているからだろう。
子どもの指が線を引いたみたいな跡。その跡の向こうでは、魚は何も知らない顔で泳ぐ。
近いのに、届かない。届かないように作られてる。
僕は人と並ぶとき、いつも同じことをしてる。
肩が当たらない幅を勝手に決めて、歩く速度を合わせるふりをする。
向こうが詰めたら、僕は足を止めて信号を見るとか、スマホを見るとか、何かを探すふりをして間を作る。
廊下で誰かが距離を詰めてきたら、ロッカーを開ける手元に集中するふりをする。
笑われたら笑い返すけど、話が自分の中のほうへ入ってきそうになったら、冗談で外へ押し返す。
三枝はガラス越しに、魚の流れを指で追うみたいに眺めていた。指先は触れていない。
触れないまま、近い。
「もう撮らない?」
僕が言うと、三枝はカメラを軽くなぞる。
「まだ撮るよ。今は少し見るのに集中する。」
そう言って、三枝は笑顔で僕を見る。
僕の輪郭がガラスに映るのを、僕は見ないふりをした。
見ると、どこに立ってるかがはっきりしすぎる。
写真部の部室を思い出す。あのときも、窓のガラスがあった。
午後の光で、机の上のフィルムケースが白く光っていた。
僕は部室の入り口付近で、帰ろうとドアの前に立ってた。
壁に背中が触れるか触れないかのところ。
三枝が「待って、高瀬」と言って、カメラを向けてきた。
僕があっけに取られていると、三枝が一歩、踏み込んだ。
ほんの一歩。床のきしむ音がした。そのとき僕は、後ろの壁を意識した。
逃げ場がない、って言葉が浮かぶ前に、背中が壁を探してる感じ。
距離が近いとか、そういう話じゃなくて、こっちが。
「ここまで」って勝手に決めて置いてた線に、三枝が超えてきたみたいだった。
壁に背中が当たるより先に、別のものが当たった気がした。
「高瀬?」
今の三枝が、小さく僕の顔をのぞく。
「ん?」
「さっきから、ちょいちょい下がってない?」
言われて、僕は足元を見た。床の目地が一本、さっきより遠い。
僕の靴が、無意識に引いた線の上にある。
「いや、ここ人通るし」
僕は横にずれて、通路側を少し空けた。空けた分、三枝との間に、見えない幅が戻る。
三枝は「そっか」とだけ言って、また水槽へ向き直った。
ガラスに映る二人の影は、青い光で薄くなったり濃くなったりする。
魚の群れはまた折れ曲がって、ガラス際をすっと流れていく。
ガラスのこちらと向こうみたいに、線がある。
線の種類が、距離とは別のやつ。そう思ったところで、口の中が乾いて、言葉が出なくなった。
僕は息を吸って、ガラスに残った手の跡をぼんやり見ていた。
暗めの展示通路は、水槽の循環音が低く続く。三枝もまた写真を撮り始めた。
三枝は立ち止まって、カメラを顔の高さに構えたまま動かなくなった。
ストラップが胸の前でまっすぐ張っている。
指だけが小さくレンズのリングに触れて、止まる。
シャッターは切られないのに、目の前だけ時間が固まったみたいだった。
僕は水槽の前で手持ち無沙汰になって、ガラスの向こうの魚を追った。
群れが折り返すたび、光が刃みたいに走る。横顔を見ると、三枝のまつ毛がライトに縁取られていた。
「……三枝」
呼んだら、すぐ返ってきた。
「なにっ」
食い気味で、声が少し跳ねた。
カメラはまだ構えたまま、返事が返ってきた。
僕の方に来るわけでもなく、引くわけでもなく、ちょうど通路の端で止まっている。
言うことを探して、口が先に動いた。
「カメラ構えてる三枝はなんか良いね。似合ってると思う。」
言い終わった瞬間、三枝の動きが止まった。今まで止まってたのに、もう一段止まった感じ。
指がシャッターボタンの上で固まって、息が一回分だけ聞こえなくなった気がした。
水槽のブクブクだけがやけに大きい。
「……別に」
短く言って、視線をガラスの中に戻す。
カメラのファインダーの向こうで何かを測るみたいに、ほんの少しだけ顎が上がった。
暗いのに、耳のあたりが赤く見えたけど、照明のせいだろうと流した。
ここ、青と赤が混ざる。
三枝はそのまま、カメラを下ろさずに半歩前に出る。足音が控えめに二つ。
僕がついてくるのを確認するみたいに肩だけ振り向いて。
「次、こっち。」と言った。言い方が早い。
巻き取る音が、カリカリと手元で鳴る。
僕も遅れて歩き出す。通路の曲がり角で、三枝のストラップが揺れて背中に当たるのが見えた。
展示の案内板の白文字が暗闇に浮いて、矢印が淡く光っている。
「タコって撮りづらくない?」
聞くと、三枝は前を向いたまま、。
「撮りづらいから撮るんだよ」
足取りは変えない。先に行ってしまうでもなく、ちゃんと僕の歩幅に合わせてるのが分かる距離で、次の部屋の入口まで導く。
軟体動物のコーナーに近づくと、空気が少しひんやりして、湿った匂いが濃くなった。
ガラス越しに白い光が揺れて、通路の影が薄まる。
三枝は入口の手前で立ち位置を決めるみたいに一度止まり、今度は迷いなくカメラを構え直した。
さっきの一瞬の止まり方は、もう置いてきたみたいに。
僕は横に並ぶ場所を探して、案内板の端に指を置いた。




