登校と邂逅
「……いくじなし」
その言葉は、強くなかった。
ただ事実を置くみたいに、夕方の空気に落ちた。
「……何それ」
そう返した自分の声が、思ったより軽く聞こえた。
三枝は一瞬だけこちらを見て、何か言いかけたみたいに口を開いて、結局、何も言わなかった。
「じゃあね」
それだけ言って、背を向ける。足音が遠ざかっていく。追いかけなかった。
一人になると、さっきまで張りつめていたものが、遅れて胸の奥に落ちてきた。
言えなかった言葉が、いくつも形を持たないまま残っている。
すがりたかったし、触れたかった。でも、そのどれもを口にしたら、
何かが決定的に変わる気がして、止めた。
距離を守ったつもりだった。
でも、残ったのは静けさと本当にこれでよかったのかと言う疑問。
校門の外で立ち止まったまま、僕はしばらく動けなかった。
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玄関を出ると、空気がまだ軽い。道の端に残った夜の冷えが、靴底から上がってくる。
制服の袖口を軽く引っ張って、歩き出した。住宅街の角を曲がると、パン屋の前にだけ甘い匂いが落ちていた。
自転車の音、犬の短い吠え声が一つ。信号は青で、渡る人は少ない。
新学期と頭のどこかに札が貼られているのは分かるけど、特に持ち物が増えるわけでもなくて、
足はいつもと同じ速さのまま進んだ。
駅が近づくと、線路のほうから金属が擦れる音がする。
定期をタッチして、エスカレーターの手すりに指先を置いた。冷たかった。
ホームに上がると、風が抜ける。発車案内の電光が一つ切り替わる。
ぼんやり見ている間に、いつもと同じ時間が押してくるだけだった。
「おー、高瀬」
振り向くと、同じ制服の影が近づいてくる。友人が手を軽く上げた。髪が少し寝癖がついてる。
「おはよ」
「早くね?」
「普通」
それだけで間が埋まる。僕はホームの端の黄色い線から半歩下がって、友人も同じくらいの距離で並んだ。
「クラス替えか~緊張するな。」
「知ってる人が多いといいな。同じクラスに。」
「まあな」
会話が途切れて、二人で線路を見た。遠くで電車の走る音が少し大きくなる。
電車が入ってきて、車輪の音が高く鳴り、減速の振動が足元に伝わった。
ドアが開く。中は暖かい空気と、誰かの柔軟剤の匂い。
空いているところに入って、吊り革をつかむ。友人が隣で、スマホの画面を親指で滑らせる。
「始業式、だるいな」
「うん」
ドアが閉まる音がして、電車が動き出す。窓の外の家並みが横に流れて、次の駅名がアナウンスで淡々と読まれた。
僕は鞄の中で折れたプリントの角を指先で押さえながら、学校の最寄りが近づくのを待った。
そこから友人と意味のない会話をしながら、学校に向かう。
校門の前は、朝の空気より少し熱かった。
「やば、緊張する」
と笑って、別のグループの誰かが肩を叩き返す。
輪の中心にいるやつらは言葉が軽く跳ねていて、僕はその外側の歩幅でついていく。
「ほら、急ぐぞ」
隣で友人が腕を引くみたいに前へ出た。僕は半歩遅れて頷き、鞄の肩紐を直した。
掲示板の前はすでに人だかりで、紙の上に視線が刺さっていた。背伸びする影がいくつも揺れる。
「あった!」
声を上げて指を差す。僕も同じ列を追い、名前を見つけた。
「お、同じ! 二組! マジで助かった!」
友人は肘で僕の肩を軽く突いた。
「同じだったー!」が重なって、騒がしさが一段上がる。
「よかった」
僕は口だけで合わせて、板の端の方へ少し体をずらした。紙の端が風でぴらっと浮いて、押さえた誰かの指先が白くなった。
友人はもう別の名前を探しに身を乗り出していて、背中が人の波に押される。校舎へ入ると、靴箱の金具がカチャカチャ鳴った。
窓からの光が床に四角く落ちている。
「席、見に行こ」
僕らは掲示のプリントを見比べながら階段を上がった。教室の前でもまた人が固まっていた。
席順表の前に肩が並び、誰かが。
「え、最悪」と言い、別の誰かが。
「最高じゃん」と手を叩く。
友人が自分の席を見つけて指を鳴らした。
「窓側! 勝ち!」
すぐに僕の名前を探して、
「お前そこか。近いな、ラッキー。じゃ、あとで」
僕は短く返して、自分の列へ歩いた。椅子の脚が床を擦る音があちこちでしていた。
自分の席は廊下側の真ん中あたりだった。
鞄を掛け、椅子を引いて座る。背中に教室のざわめきが当たって、前の黒板はまだ何も書かれていない。
カーテンが少し揺れて、窓の外の桜の枝が影だけ動いた。
友人の笑い声が遠くで続いている。僕は机の端を指でなぞって、木目のへこみを一つ見つけた。
先生が来るまでの数分が、いつも通りみたいに伸びる。そのとき、近くから小さく息が引っかかる音がして。
「あ……」
と、声が落ちた。




