第3話 異国の魂 ― 森を抜けて宿場町へ ―
朝の森は、音がやわらかい。
葉の裏で小さく鳴く虫の声、枝の先で震える露。
足を運ぶたび、しっとりと土が沈む。
俺とリリアは、焚き火の跡に土をかぶせてから歩き始めた。
吐く息はもう白くない。
かわりに、冷えた体の奥がゆっくり温まっていくのが分かる。
「この先、街道に出るまでが少し長いよ」
「どれくらい?」
「昼過ぎには着くと思う。そこで休んでから、町まであとひと押し」
会話は短く、歩調は一定。
彼女は時々前を見据えたまま、道の脇の獣道や折れた枝をさっと確認していた。
冒険者――見習いとはいえ、体に入ってる癖なんだろう。
日が高くなる少し手前、低い水音が聞こえはじめた。
小川だった。
石がいくつも顔を出していて、陽光が水面に細かな破片を散らしている。
「ここで少し休もうか」
「いいね。喉も乾いたし、足も少し張ってきたところだ」
俺は水をすくって金属皿に入れ、小枝で組んだ小さな火にかける。
沸いた湯を少しだけ硬いパンに垂らすと、表面がふやけ、香りがほんのり立ち上った。
……とはいえ、干しパンは干しパンだ。歯が立たないほどじゃない、くらいの変化。
「温かいだけで、違うね」
「うん。パン自体は変えられないけど、口の中の動きは良くなる。喉も通るし」
リリアがちいさく頷いて、慎重にかじる。
水際の草むらが風に揺れ、その匂いが湯気と混ざって鼻に刺さった。
少し塩気の残った指先を川で洗うと、冷たさが骨の方まで染みる。
「……ねえ、変な話、してもいい?」
「もう十分変な状況だし、どうぞ」
リリアは川面を見てから俺を見た。
躊躇がひとつ、呼吸がひとつ。
そのあと、言葉を落とすみたいに静かに言った。
「町に、ちょっと当たるって言われてる占い師がいるの。
ミルダ婆っていうんだけど」
「うん」
「この前そこでね、『近いうちに森で“異国の魂”に出会う。
その者が、お前の運命を少し変える』って」
異国の魂。
口の中のパンが、急に味を失った気がした。
「それ、俺か?」
「……たぶん。服、見たことないし、話し方も少し違う。
最初は怖かったけど……そういうものだって、言い聞かせた」
怖かった、のあとに置いた間。
その静けさを、川の音がそっと埋めた。
「変なことを聞くけど」リリアは小首を傾げる。
「あんた、どこから来たの?」
答えようとして、言葉がどこにも見つからなかった。
東京、という音を喉の手前で呑み込んで、代わりに息を吐く。
「……説明が難しい。とりあえずものすごく遠いところだな」
「ふうん」
否定も肯定もせず、彼女は目を細めて笑った。
火のはぜる音が、ぱちと短く跳ねた。
「だからって、追い払ったりはしないよ。
占いのこともあるし、危ない人には見えないしね」
「助かる」
「それに――昨日の魚、おいしかった」
最後だけ、ほんの少し照れて言う。
俺は、喉の奥の固いものが少しだけ溶けるのを感じた。
昼を少し回ったころ、小川は細い線になり、木々の密度が緩み、風がひらけた。
先に淡い色の帯が走っている。街道だ。
土に固く踏みしめられた車輪の跡、乾いた草の匂い、遠くで鈴の音。
「見えてきた。あれが街道」
「ああ……人の匂いがするな。さっきまでの静けさが嘘みたいだ」
馬車が二台、ゆっくりすれ違っていく。
荷台には麻袋と木箱、人の笑い声。
すれ違いざま、台の上の若い労働者が干し肉をちぎって口に放り込む。
匂いはするのに、驚くほど味の想像が湧かない。
塩と脂だけで出来ているような、そんな乾いた香り。
「ここから町まではもう少し。夕方前には着けるよ」
「楽しみだな。……どんな町なんだ?」
「小さいけど活気があるよ。旅人が多いからね」
街道の土埃が足首を薄く染めていく。
ときおり通り過ぎる行商人が、好奇の目を少しだけ投げては去る。
俺の服装が目に付くのだろう。
陽が傾き始めたころ、木柵と見張り台が見えた。
門の前で荷馬車が列を作っている。
門番が二人、槍を持ち、日焼けした顔で順番に荷を確かめていた。
「ここがバルンデル。辺境だけど、人は多いよ」
「賑やかだな」
列に並ぶ。
俺たちの番になったとき、門番のひとりが欠伸を噛み殺して「どこから」とだけ訊いた。
リリアが代わりに答える。
「森の東側。夜明けに出たよ」
「身分証は?」
「私はある。――彼は、ちょっと事情があって」
門番が俺を見る。
その瞬間、視界の端で、また薄い光がチラついた。
今度は人の顔の横――肩口のあたり。
|【門番・中年男性】
| 寝不足+肩こり。姿勢を直せ。
| “昼寝しろ、昼寝。腰にくるぞ。”
……おい、料理じゃないのかよ。
心の中でだけ、突っ込む。顔には出さない。
前回みたいに“妙なコメント”付き。
やっぱりこれ、鑑定ってやつなんだろう。
対象は食べ物だけじゃないのかもしれない。
「彼は私の同行者。怪しい人じゃないよ」
リリアが淡々と告げる。
門番は俺と彼女をしばらく見比べて、肩を回しながらうなずいた。
「じゃあ、町の中で登録所に寄ってやれ。
旅人札がないと宿が断られる店もある」
「助かる」
木製の門をくぐる。
石畳の道がまっすぐに延び、両脇には木と土壁の建物。
屋台からは湯気が上がり、鍋の中で何かがぐつぐつ煮えている。
肉を焼く匂い、麦粥の甘い湯気、革と油の匂い、人の汗。
――どれも「食べ物の匂い」をしているのに、不思議と胸が高鳴らない。
――旨味の手がかりが薄い、そんな感じだ。
「宿はどこに?」
「知り合いの宿がある。まずはそこに行こう。
登録所はその近くだし」
歩いていくと、大通りから一本外れた場所に、人の気配の薄い通りがあった。
木製の看板が外れたまま斜めになってぶら下がっている小さな建物。
窓は埃をかぶり、扉の取っ手は磨かれていない。
「ここ、前は食堂だったんだけどね。主がいなくなって、ずっと空き家」
リリアが何気なく言う。
俺は足を止めた。
窓の内側――古びたカウンターと、壁際に並ぶ椅子。
錆びた鍋がひとつ、さかさまに伏せられている。
喉の奥で、何かが小さく鳴った。
ここなら、火が入る。湯が沸く。香りが立つ。
……そんな絵が、ふっと浮かぶ。
「どうしたの?」
「いや、なんでも」
「宿はこっちだよ」
リリアが先に歩き出す。俺は一歩遅れて、その背を追った。
夕陽が屋根の端に引っかかり、通りに長い影を落としている。
歩きながら、俺は口を開いた。
ずっと喉の手前で詰まっていた言葉を、やっと押し出す。
「……俺、多分、ここに“転がり込んだ”転移者ってやつなんだろうな」
リリアは立ち止まり、振り返って、少しだけ笑った。
「なら――こうすけにとってここは異世界ってことか。
ようこそ、異世界へ」
風が木の看板を揺らし、乾いた音がひとつ鳴った。
その音が、出発の合図みたいに聞こえた。




