生徒手帳の余白
放課後の校門は、出るための門ではなくなった。
手帳の余白に誰かが書いた。一言でよかった。「家に帰る」。
翌朝、掲示板の最上段に朱で清書された。
帰るな。帰れば、名を削る。――学校は、夜を学ぶ。
第〇条ノ零「白紙条項。生徒ノ書キ入レ、即時ニ校則トナス」
一 余白の発見
始業式の翌日、全校集会の終わりに教頭は咳ばらいを三つ。湿った体育館の床から、ワックスの匂いがのぼる。
「今年度の生徒手帳には、特例の条文がある」
マイクが軽くハウリングし、静けさは嫌な耳鳴りに変わった。
配られた手帳の末尾。条文の列に、罫線のない白い頁が追加されている。角に朱のスタンプ――白紙条項。
本条項ニ書キ込マレタ行為ハ、即時ニ校則トシテ運用ス。自治強化ノ一環トス。
生徒会記録係の私は、最前列で走り書きを始めた。こういう“改革”の文言は、後で揉める。正確に写したい。
だが笑いが後方で起きかけ、すぐ凍った。風紀委員長の倉田が掲示板カバーを外したからだ。
最上段、赤いガムテープで縁取られた新設校則。
帰宅ヲ禁ズ――違反者ハ最重罰。
体育館の空気が、音もなく縮んだ。誰かが短く笑って、周囲の視線でその笑いが消える。
「誰かの悪ノリ?」と、背後で囁き。
悪ノリにしては、朱の字が整いすぎている。私は隣の水城を見た。書道部の彼女は目を細め、朱の入りと抜きに見とれていた。
「清書だよ」と水城。「練習した手の落ち着き。しかも二度、同じ線を上から引き直してる。右払いだけ筆圧が強い」
二度引き直す理由。言葉の力を増やすためか、あるいは、下にあるものを隠すためか。
朝礼台では校長が「自治だ」と言い添えた。自治なら、誰が書いた? いつ? どう運用する?
その日の放課後、門は普通に開いた。私は門柱のスピーカーの下で、帰る生徒の背を数えた。
四人目が境界を越えたとき、職員室の端末に削除の表示が出たらしいという噂が走る。
翌朝、点呼で四人分の名が呼ばれない。担任は「登校状況は把握している」とだけ言った。把握は万能薬だ。効くのは言う側だけだが。
第〇条ノ一「帰宅禁止。校外逸脱ヲ重大違反ト見做ス」
二 反転
生徒会室。安い蛍光灯が紙の白を乾いた色にする。私は議事録の体裁を整え、倉田に提出した。
「自治だ。みんなで書く。みんなで守る」
倉田は昔からこの調子だ。真っ直ぐで、曲がらない。曲がらない棒は、簡単に折れるか、折れずに誰かを突き刺す。
「でも誰が書いたか分からないまま運用するのは、自治じゃなくて占有だ」
自分でも少し刺々しいと思いながら言うと、倉田は紙束をトントンと揃えた。
「昨夜、見回りは異常なし。朝一番に風紀が清書して掲示。以上が運用記録」
「昨夜は雨でした」と水城。
「スタンプの朱が、すこし滲んでる。乾く前に貼ったなら、雨で境目をごまかせる」
雨。滲み。境目。
私は手帳を撫でた。今年の紙は、指に毛羽立ちが引っかかる。昨年のはツルツルだった。
保健室へ降りる。養護教諭の牧野は、私の顔色を見て湯を淹れた。
「記録係くん、今年の手帳、紙が違うの気づいた?」
「はい。去年はにじみやすい。だから――」
「移植ができるの」
牧野は引き出しから旧版の手帳を出した。余白に、鉛筆の跡と消しゴムのカスの黒い粉。
「去年“書いて”、消した子がいる。消したフリをして、朱で清書し直し、今年の白紙に載せる。雨なら、貼り替えた筋も目立たない」
「誰が?」
牧野はカップの縁に視線を落とした。「名前は、名簿上で削られてる」
第〇条ノ二「罰則運用。清書後ハ風紀委員会ノ裁量トス。抑止ノ為、連座ヲ設ク」
三 手帳の鑑識
理科室。実験台に手帳を並べ、スタンドライトを当てる。
水城は半紙の上で筆を走らせ、朱の入りを真似る。
「二度引きは、一本目を“下書き扱い”にするため。下の線を消すかわりに、上の線を太くして視線を奪う。見せ方を知ってる手の動き」
ライトの角度を変えると、朱の下で黒鉛が燻った。
“家に帰る”。
その上に、同じ人の手で、朱の同じ字が重なっている。
「同じ癖、同じテンポ。同じ息継ぎ」
水城の指が震えずに走る。「軽くしたくて書いた本人が、自分で最重にしてるの」
胃が少し攫われた。誰かが楽になりたかった。だから余白に書いた。
そして“楽”を学校の最も重たい部品に組み込んだ。
私は生徒会の運用文書を請求した。風紀の黒いファイルが机に置かれる。
「抑止効果を最大化するため、帰宅違反者が出たクラスには次週の一斉点検を強化」
「削除線の定義:台帳上の整理上の表現であり、当人の存在の有無とは関係しない」
「連座:同居家族に対しても“指導”の対象を拡張可能」
読みながら、背中に汗。
「善意だよ」と倉田は言う。「帰宅が乱れれば、学校は保てない」
「帰宅を禁止してまで保つ学校は、何を保ってる?」
「単位だ。共同体。形。君だって、曖昧な輪郭より、線が引かれたほうが書きやすいだろ」
線は便利だ。罫線も、境界線も。便利な線は、間違えたとき、濃くなる。
第〇条ノ三「保健運用。逸脱者ノ記録ハ統計上“欠番”トス。欠番表現ハ個人情報保護ノ為」
四 運用文書
保健室は満床。帰宅できない生徒の眠りが、ひかえめな咳や布の擦れる音で交代していく。
窓の外の曇りは、色のない布団の裏面みたいだ。
「欠番って言い回し、きらい」牧野はカルテを閉じた。「名を消して安心する側の言葉だから」
「帰った四人は?」
「保護者の“了承”のもとで在宅学習扱い。台帳上は整理済。でも整理は片づけじゃない。押し入れに突っ込んだだけのことを、片づいたって呼ぶ大人は多い」
牧野は私のポケットの手帳を指した。「紙、濡らさないでね。今年のは繊維が毛羽立つ。語尾が滲む」
語尾。
去年の旧版。雨。朱。
私はそれが意味するものを飲み込みかけて、喉に引っかかった。
「“書いた人”の話、してもいい?」
牧野は私の目を覗いた。「去年の二学期、保健室によく来た子。昼寝をしにくるんじゃない。机で寝た時間ぶん、罪悪感が増えるから。介護とバイト。時々、『楽になりたい』って書いてった。あの字の癖、忘れない。楷書を崩さない子だった」
私は頷くしかなかった。記録係のくせに、記録の中で一番大事な線に手を伸ばせていない。
第〇条ノ四「定義。『家』ハ生徒ノ生活拠点ヲ指ス。寄宿舎入居者ノ家ハ寄宿舎ト見做ス」
五 先輩の遺言
図書室の一番奥、折れたパイプ椅子の上に段ボール。
閲覧注意のスタンプで封じられたノート束を、司書の先生がため息と一緒に出してくれた。鍵は牧野の指示だという。
ノートには、手帳の余白を模した紙片がセロテープで貼られ、鉛筆の線が何度も書き直されては消されている。
家に帰る
帰りたい
帰らせる
帰ることを許す
――そして最後のページだけ、違う。
家に帰る(軽罰)
その上に、朱で家に帰る(最重罰)。
「反転したのは、雨」と水城。「“軽罰”の“軽”の、衣偏の下が濡れてぼやけると、上から“最”で清書しやすい。しかも“最重罰”って四字は、“重”の右払いだけを強くする癖と合う。あの線、同じ手だよ」
軽くしたい――そう書いた本人が、最も重いに自筆で変えた。
すべて自筆。自分の苦しさを制度の部品にする緻密さ。
私はページの端を撫でる。セロテープの黄ばみは、時間の色と混ざって校則の色になっている。
ノートの最後に、短い文章があった。
いえにかえる。
いえは、じっに、かえるところだ。
※“じっ”の字を直すのがめんどうだ。
だれか、わたしのかわりに、かえしてほしい。
癖のないひらがな。眠い頭で書いた字。**“返る”**の誤字。
私は紙の軽さが突然増すのを感じた。軽いものは、風が吹けばどこへでも移る。ルールも。
第〇条ノ五「試験運用。寄宿舎居住者ノ『帰宅』ハ敷地内巡回ニ代替可」
六 定義戦
「定義をこちらから書けば、帰宅は可能だ」
私は生徒会机上の見本用余白に、下書きを始めた。
「『家は学校に含まれる』って書く。寄宿舎を“家”と見做す法律構文があるんだから、包含関係を逆方向に広げる」
水城は頷き、半紙をもう一枚重ねた。
「語尾に気をつけて。“含まれる”が滲むと、“込まれる”や“困まれる”に見える。困る方面への自動補完は、ルールが大好きな道だよ」
窓は細かい雨の粒で変な星空になっている。
私は黒インクのボールペンを撫で、呼吸を整えた。
“家は学校に含まれる”
筆圧を安定させ、**“れる”**の口を締める。雨が口を広げても、“こじ開けた解釈”にはしない。
書いた瞬間に、倉田がそれを清書した。朱は黒よりも強く、痕跡を上から均す力がある。
「帰宅は、これで可能にする。ただし運用がいる。校内扱いとしての帰宅だ」
倉田は事務の声で言う。
「外郭が崩れなければ、内部の動線は自由にできる。君の言い回しは、外郭を保ったまま、家を内部化した」
私は喉が乾くのを感じた。
「家は、内側になるんですか」
「そう運用する」
第〇条ノ六「統合。『家』ハ『学校』ニ含ム。校章貼付ノ出入口ハ“校内移動”ト扱ウ」
七 交渉
翌朝、放送。
新設条文ニ基ヅキ、保護者各位ニ保護者手帳ヲ交付シマス。
玄関等ノ出入口ニ校章ステッカーヲ貼付スルコト。以後、該当出入口ノ出入ハ校内管理下ニ置ク。
ざわめきが教室の床下で震えた。
四時間目の終わり、倉田が生徒会室に運用文書の改訂版を置く。
「家庭運用として、家庭内に点呼を設ける。夜間の連座は保留。しばらくはお願いベース」
お願い。ベース。お願いが基礎になると、拒否は非常識になる。非常識は罰の口実になる。
放課後、校門は開いた。
水城と並んで外へ出る。湿り気の濃い空気に、遠い土の匂いが混じる。
門柱の陰には、小さな金属箱――電子点呼の拡張。
ピッ。
画面に私の名前が浮かび、校内のまま家に移動した、と表示。
家のドアには、見慣れない校章ステッカー。母は玄関で笑う。手には新しい保護者手帳。
「今日からこれ、持ち歩けって。便利そうじゃない? “夜更かしは成績に悪影響”とか、書いておけば、あなたも守れるでしょ」
守る――誰を?
私は頷くフリだけして、部屋に引っ込んだ。
机に座り、手帳の余白を開く。黒いインクが、紙の毛羽に少しだけ吸われる。
書けば校則。書かなければ、誰かが書く。
沈黙は中立じゃない。他人の筆圧に治めてもらう決定だ。
通りの先で、配布車の赤灯がゆっくり回る。
向かいの家のドアにも、校章が貼られる。
SNSには**#自治強化のタグが踊り、“家でも遅刻指導?”のツイートが数分で流れて消える。タイムラインの欠番**。
夜、食卓。
母が保護者手帳の余白にボールペンを置く。
「宿題しないの、禁止って書いとこうかな。軽罰で、スマホ没収とか」
水のコップの結露が、紙の端を濡らした。
私は反射的に布巾で拭き、指で余白を押さえた。
「やめて」
言葉は丸かったが、声帯の縁は切れていた。
母は一瞬驚いて、苦笑い。「冗談よ。でも便利だとは思う。ほら、学校が手伝ってくれるなら、楽じゃない」
楽。
楽は、誰かが代わりに持つことで成立する。
第〇条ノ七「保護者条項。保護者ニモ手帳交付。余白条項ノ適用範囲ハ家庭運用ニ拡張」
八 夜の点呼
二十二時。スマートスピーカーが喋る。
「連座の時刻です。家族の点呼を開始します。応答してください」
母が笑いながら「はい」と答える。
私も短く「はい」。
スピーカーは満足して光を落とした。
静けさが戻ると同時に、遠くで電子音。ピッ。一つ。
誰かの家の削除か、整理か。
違いは運用の言い回しだ。
眠る前、私は水城にメッセージを送った。
――“返るって字、最近よく見ない?”
しばらくして既読。
――“見えるね。みんな、帰るより返る方に上手に流れてる。流路を作るのが、校則の本職”
寝返り。枕の硬さが変わった気がする。
天井の暗がりで、四角い何かが光る。校章ステッカーだ。窓に貼られている。
出入口じゃない窓にまで。
外から、誰かが私の部屋の窓を“校内”にした。
第〇条ノ八「拡張。施設管理上必要ト認メラレタ箇所ニ校章貼付可」
九 先輩の家
土曜、牧野に頼み込んで**“書いた人”の家を訪ねた。
地図の赤ピンは川沿いの古いアパート。廊下の蛍光灯が薄く、日中でも夕方**みたいな色をしている。
チャイム。間があって、扉が開く。
出てきたのは、弟だという少年。高校の制服が、うちの学校とは違う紺色。
「姉のこと、学校の人?」
「記録係です。去年の手帳の件で」
少年は一度だけ頷き、靴をそろえて部屋に通してくれた。
薄い畳。部屋の空気は洗剤と生乾きの布の匂いで、どちらも疲れている。
壁際の棚に、旧版の生徒手帳と、介護用のタイムカード。
少年は言う。
「姉ちゃん、いつも帰るの遅くて、手帳に帰るって書いてた。先生が言うには、ちゃんと書けば軽くなるって」
「軽く?」
「遅刻の扱いとか、宿題の期限とか。『書けば運用される』って。だから書いた。……雨の日に、書き直しに行って。帰ってきてから、笑って、『これで楽できる』って」
私は棚の手帳に触れた。白い毛羽が、指先の汗を飲む。
「それから?」
「卒業式の前の日、急に学校から電話。『在宅学習扱いになります』って。楽にはなってた。学校に行かなくていいってことだし」
少年は笑い方を忘れた顔で笑った。
私は頭を下げ、玄関で深呼吸を二つ。校章ステッカーはここにも貼られていた。
家は、最初から、学校の中だったかのように。
第〇条ノ九「示達。地域連携ノ為、商業施設等ト協力可。校章提示ニヨル優遇措置等」
十 コンビニの校章
帰り道、角のコンビニの自動ドアに校章。
扉が開くと、電子音がピッと鳴る。
レジ横の張り紙。
生徒諸君へ:当店内での飲食は“校内飲食マナー”に準じます。持ち込み禁止。制服着用時は二人以内での滞在。
制服を着ていない私は、鏡の前で自分の顔が少し校内に見えるのに怯えた。
フライヤーの中で、唐揚げが油の中に校内を作っていた。
一口サイズの自治が、串で抜かれて袋に入る。
私は何も買わず店を出る。
店のドアの外側までが校内かどうか、明確な運用はまだ降りてきていない。
降りたとき、外と呼べる面積はどのくらい残るだろう。
第〇条ノ十「追加。SNS上ノ表現ニ於テモ、校名・個人情報・校則違反助長表現ヲ禁ズ」
十一 見えない削除線
月曜、ホームルーム。担任が配ったプリントの一枚に、出席簿の形式変更。
“欠番”の表が細かくなり、説明欄に「整理済」のチェックボックス。
私は手を挙げた。「整理と削除の違いを」
担任は少し笑って、「言葉の問題だな」と言った。
言葉は問題だ。問題の多くは、言葉のほうが先に片づいた顔をする。
放課後、廊下で倉田を呼び止めた。
「これ以上の拡張は、外郭の意味を失わせる」
「外郭は、意味を守るために移動するものだよ」
彼は振り返らず、掲示を貼り替える。
“家は学校に含まれる”の下に、細字で附則が増えていた。
“家族は学校の構成員と見做す”
どこから? いつから? 見做すと書かれた瞬間から。
見做すは実体を伴わない。だが実体は、見做された通りに振る舞わざるを得ない。
第〇条ノ十一「保守。附則:本条項ハコミュニティ保全ノ為、外部へ拡張可」
十二 雨の授業
火曜、豪雨。窓ガラスに水の線。黒板の**“る”が、“ろ”になっていく。
国語の時間、教師はテストを配りながら言った。
「今日から、家での読書時間も指導の対象にする。保護者手帳に書いてもらうから」
配られた用紙の隅に、白紙条項。
“寝る前に三十分読書(軽罰)”
私は反射的に、上から定規を当てて押さえた。
水が紙の繊維を開くと、軽さは簡単に最**へ化ける。
放課後の連絡網。
“夜の点呼、家族全員。応答がない場合、翌朝のホームルームで連座の説明”
説明のほうが、罰より先に来る。
でも説明は、罰の輪郭を先に描く。
第〇条ノ十二「家庭点呼。通知:夜間点呼応答ナキ場合、翌日説明会(必参加)」
十三 夜の議事録
私は、生徒会の議事録を家で書いた。
議事録の最初に、条文断章を挿入するのはもう癖だ。
第〇条ノ十三「議事録作成者ハ中立ヲ保ツ」
書いた瞬間に、スマートスピーカーが反応した。
「中立の定義が未登録です。定義しますか」
私はペンを置いた。
定義してしまえば、運用が生まれる。
運用は、守るつもりで作っても、守りたいものを自動的に増やしてしまう。
母が居間で電話を切って、私の部屋に来た。
「明日から、家庭学習の報告、学校に提出だって。あなた、書ける?」
「書けるよ」
「じゃあ、私の分も書いて。仕事の“自己研鑽”三十分って」
母は笑い、「これ、楽ね」と言った。
楽。
手首が少し重くなった気がした。
第〇条ノ十三「定義。『中立』トハ“運用上の偏りを最小化するよう努める”状態」
十四 風紀の家
金曜の夕方、倉田の家の前で足が止まった。
玄関の校章は、うちより大きい。
呼び鈴を押すと、出てきたのは倉田本人。制服姿のまま、ネクタイの結びが完璧だ。
「何の用」
「運用の話を家でできるのは、すごいね」
「校内だから」
即答。
私は靴を脱ぎ、上がり込んだ。
リビングの壁に、掲示板。手書きの当番表。点呼のチェック欄。
「ここまでやる必要、ある?」
倉田は静かに息を吐いた。
「必要があるようにするのが、運用だ」
「“必要にしてしまう”の間違いじゃ」
「言葉の問題だ」
彼の机の引き出しには、運用文書の個人版。
“家庭における罰の等級(案)”
軽罰:スマホ没収十分
中罰:居間で学習
最重罰:一時的欠番
私は指先から血が引くのを感じた。
「“一時的欠番”って何」
「整理だよ。台帳上の」
「人間を押し入れに入れて扉を閉めて、『片づいた』って言うのと同じだよ」
倉田は一瞬黙り、そして小さく肩を竦めた。
「君は、線が嫌いなんだな」
「線を引く手が嫌いなんだよ」
第〇条ノ十四「一時的欠番。台帳上ノ整理上ノ表現ニシテ、指導完了時ニ復帰」
十五 家ごと学校
土曜の夜。雨。
窓の校章が、街灯に濡れて光る。
スマートスピーカーが喋る。
「連座の時刻です。家族の点呼を開始します」
母は手帳を開き、余白にボールペンの先を置いた。
「ねえ、これ、“夜更かしは健康に悪影響(最重罰)”って書いたら、あなたも守れる?」
守る。誰を。何から。
私は口の中に金属の味を感じた。
「その“最重”の右払い、強く引かないで」
「どうして」
「滲むと、別の字に重ねやすいから」
母はペンを止め、私を見た。
「何それ。怖いことを覚えてるのね」
覚えてしまったものは、もう消せない。
私は自分の手帳を開き、最後の余白をめくった。
そこに、印刷の附則。
本条項ハコミュニティ保全ノ目的ニ限リ、外部へ拡張可
私の字ではない。誰の字でもない。最初からある字。
外部。
外とは、外側のことだ。
外側は、線が移動すれば、いつでも内側になる。
私は笑ってしまった。喉の奥が空洞になる笑い。
やさしい仕組みだ。楽にしてくれる。
私が望んだ通りに。先輩が望んだ通りに。
楽は、共有されるほど、誰かの重しになる。
玄関の校章が、夜気にぬれて校章らしさを増やす。
私はペンをもう一度、握り直した。
書く側でいるために。
書かなければ、誰かが書くから。
余白は、一息吸うたびに増える。
校門は開いている。
そして、どこに置いても、門は中にある。
付記:増補パート(先輩の個人史・運用文書・近隣拡張)
A 先輩の個人史(断片)
・保健室記録(抜粋)
日付:10/12 症状:眠気。背景:家族介護、夜勤バイト。本人発言:「楽になりたい」
対応:仮眠、麦茶。助言:生活リズム調整。本人所感:「書けば楽になるんでしょ」
備考:手帳余白に鉛筆で“帰る”の字。消しゴムで消すが、粉が残る。
・進路指導室メモ(抜粋)
「書けば運用」という言葉を、職員が軽く使いすぎる。軽くは伝染する。軽くの対義語は重くではなく、深くだ。
深く――深く考える余白は、どこにある。
・遺されたメモ
いえにかえる。
※“かえる”が“かえす”に見えるときがある。
※たのむ。わたしをかえして。
返すの主体は、いつだって他人だ。自分で自分を返すのは難しい。
B 運用文書の条文化(拡張)
運用文書 第三版(家庭運用追補)より
家庭点呼:家族構成員(保護者・生徒・同居親族)を対象。例えば祖父母は任意だが、任意の不履行は指導の対象。
SNS運用:生徒のアカウントだけでなく、保護者の投稿にも**「学校に関する著しく不適切な記述」を規定。白紙条項を用いて“適切”**の定義を随時更新可。
地域連携:商店と協定を結び、校章提示による割引と校内マナーの適用。割引は餌、マナーは紐。
一時的欠番:家庭内の居場所の一時停止(自室に入れない等)を含む。整理の語を用いること。
復帰要件:反省文の提出。反省の定義は運用担当が決定(定義の白紙化)。
条文は、読みやすい。読みやすいものは、飲み込みやすい。
飲み込みやすいものは、毒でも栄養みたいな顔をする。
C 近隣拡張のデモ
・理髪店:校章提示で学割。店内に掲示――「刈り上げは“校内規準”」。坊主頭の自由は、規準の内に吸収。
・交番:校章と連携の貼り紙。「巡回強化中」。夜道が校内になった日の、外の面積は、誰も測らない。
・バス停:時刻表に点呼のアイコン。降車時にピッ。
移動するたび、移動の自由は校内で確認される。
終章(改稿:皮肉の温度を一段だけ上げる)
夜、机に向かう。
私はもう知っている。消しゴムは万能じゃない。
消すのは、紙の上の黒さだけ。残るのは、紙の内側の窪みだ。
窪みに、次の字が気持ちよくはまる。
手帳の最後の余白に、私は何も書かない。
代わりに、ページを折る。
折り目は、線だ。
線は、境界を呼ぶ。
呼べば、必ず来る。
門が。
中のほうから。
スマートスピーカーが言う。
「連座の時刻です」
玄関の校章が濡れて光る。
私は笑い、ペンを立てる。
書く側でいるために。
楽は、誰かの重しだ。
重しは、誰かの基準だ。
基準は、優しさの仮面を付けたルールだ。
そして、優しさは、一番強い罰の名前だ。
校門は開いている。
外は広い。
広い内側として。
――了。




