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海が見える病院にて

今は亡き親友『ゴメンナサイスト綾重十一』著者 エザキカズヒトに捧ぐ

青々とした芝生の上を、一羽のセグロセキレイが機嫌よく尾羽を上下に動かして散歩している。

ここは港に程近い病院の屋上に作られた空中庭園。

入院患者の私はレンガ造りの花壇に腰掛け、一人静かに雲の高く上がった初秋の空を見上げていた。

時折頬を撫でる心地よい風は海の気配を含んでいる。

仕事中に意識を失い救急搬送された私は検査の結果、担当の医師より脳腫瘍という深刻な病名を告げられた。そして、すぐさま低い成功確率に命を懸け、十二時間にも及ぶ大手術を受ける事となった。一時は生死の境を彷徨い、殆ど鎮痛剤も効かない猛烈な痛みに、自らの唇を噛み破り耐え続けた。

だが、永遠に続くかと思えた頭痛も術後十日を過ぎた頃から徐々に引き始め、三週間目には担当医から院内の歩行許可を貰えるところにまで回復した。

運良く手術は成功した。そして腫瘍は良性だったと医師から病理検査の結果が告げられた。どうやら私の肩を叩いた死神はどこかに消えてしまったようだ。

おかげでベッドに寝たきりの辛い日々は終わりを告げ、病院内の売店にも、カフェにも、レストランにも自由に歩いて行けるようになった。

まず真っ先に私の身体が求めたのは太陽の光だった。人間は命を繋ぐことが出来た時、己の肉体が自然の一部であることを本能的に確認したくなるようだ。

外の空気は気持ちが良い。そよ風に揺れるシマトネリコの鮮やかな緑をのんびりとした気持ちで眺めていた矢先、突然響いた怒声に私は首を竦めた。

「この馬鹿野郎!」

大声に驚いたセキレイが慌てて群青の空高く飛び上がって行く。

恐る恐る植木越しに声の先を覗くと、そこには同病室の山本さんがベンチに座り、目の前に立った背の高い若者を眉間に皺を寄せた厳しい顔つきで睨めつけている。

ここが学校ならちょうど不良生徒が職員室に呼び出され、恐ろしい生活指導の先生に叱られているような有様だ。

これは病人ゆえにお互い様なのだが、山本さんの顔色の悪さと、やつれて頬のこけた表情からは何とも壮絶な感が伝わってくる。

山本さんは私と同じく真夜中救急に運び込まれ、そのまま入院された人だ。

歳の頃は私より少し年上の五十歳前後だろうか。

病室ではお互い向かい合ったベッドに寝ているが、暗黙の了解と言うやつで病名は気安く聞けない。脳外科病棟の患者は誰もが必ず命に関わる病気で入院している。

実際私は手術後集中治療室を経て、ナースステーション隣の個室に入ったが、当初一週間そこで過ごす予定が、急患の為に僅か二日で四人部屋へ追い出された。

私は摘出した腫瘍が悪性なら三カ月で確実にあの世行き、良性ならどこに放っておいても時薬さえあれば回復するのだから至極適切な判断だったと思う。

聞いた話では、私の代わりに個室に運び込まれた患者さんは三日後に亡くなったそうだ。この病棟はいつも死が身近にある。

四人部屋の病室に移った後も私は痛みに呻き続けた。同室者には随分迷惑を掛けたと思う。もちろん山本さんも私の騒音を我慢してくれた一人だろう。同室者から苦情の一つも出なかった事には今でも頭が下がる。皆重い病気を抱えてはいたが、ありがたい事にお互い様と思ってくれたのだろう。

時折耳に届く見舞い客との会話の断片から、山本さんは病気によって右足に障害が出ている事。その結果トレーラーのドライバーとして仕事を続けることが出来なくなった事は知っていた。

「そのみっともない髪はなんだ!父さんが病院の床屋に連絡してやる。今すぐに行って切ってこい!」

父さん?なるほどあの若者は息子さんなのか、今までこれ程真剣に怒る父親を見た事が無かったのだろう。茶髪に染めた髪を伸ばし今風のナチュラルな感じにセットした若者は神妙な面持ちのまま俯いている。

普段なら「うるせえ!おやじには関係ねえよ」と口答えして舌打ちの一つも入れるのだろうが、脳溢血か脳梗塞、くも膜下出血か病名こそ分からないが、とにかくまともに歩くことも出来なくなった父親の言葉は、息子さんにとって全てが重く聞こえるのだろう。

自分の死をそう遠くない未来に見据え、父から息子に本当に伝えておかねばならない事を切々と話し続ける山本さんの声が、何故か私の胸に突き刺さる。

どう考えても四十過ぎの自分が、二十歳の若者に向けられる説教に神妙な気持ちになるのは変な話だ。

無論、私も一人の父親として同じことを考えている。全く異論はない。しかし、私が感情移入しているのは山本さんではなく、その息子さんの方だった。

おかしい、この不思議な感覚はなんなのだろう。

「お前はいつまでぶらぶらしているつもりだ。いい加減まともな仕事に就くことを考えろ。母さんに心配ばかり掛けてどうする。お前も二十歳だ。男が独り立ちするには遅い位だぞ。父さんだってもう・・・」

そこで山本さんは私の視線に気付いたらしく、声音を下げると言葉尻を濁した。

よく似た立場の同病室者とはいえ、他人のそれも親子の真剣な会話に無意識ながら聞き耳を立てていた私はさすがに気まずさを覚え、ちらりと二人を見やって軽く黙礼し、ベンチを立って病棟に戻り始めた。

背中からは再び切々と息子を諭す、父親の少し低く落とした声が空中庭園の扉まで追いかけてきた。

何とはなしにこのまま病室に戻る気持ちにはなれず、私はしばらく病院内を彷徨っていた。売店で二三の雑誌を手に取ってパラパラめくり、大きな抽象壁画のある一階の広いロビーをしばらく歩き回ってみたがどうにも心が落ち着かない。

まだ手術で切り開けた頭蓋骨は金属板で留めた状態だ、外来患者の診察が終わった午後の時間とはいえ、それでも人通りの多いフロアをいつまでもうろうろしている訳にはいかない。万が一転倒でもすれば病院にも迷惑が掛かる。

結局私は病棟九階の南端にあるカフェへ向かうことに決めた。

最上階でエレベーターを降りるとすぐ目の前にガラス張りのカフェ入り口があり、そこから覗く店内は午後二時過ぎの中途半端なタイミングのせいか、人影もなく閑散としていた。

私はカフェに入ると窓際の席に座り、トレイを胸に大事そうに抱えて現れたウエイトレスの女の子にアイスコーヒーを注文した。ここでゆっくりと胸の奥に引っかかったものが何なのか整理してみようと思った。

大きな窓越しに南の景色を見渡すと、青空に向かって白い橋脚を高く伸ばした巨大なベイブリッジがぼんやりと霞んで見えた。街並みの地平から半分だけ姿を見せた埠頭遊園地の大観覧車がゆっくりと回っている。

そして、海があった。埋立地の隙間から僅かに覗いた海面には陽の光が降り注ぎ鉛色に輝いている。

整然と並ぶ色とりどりの車が美しいモザイク模様になった広大なモータープールには、パナマックス級の巨大なPCC(自動車専用運搬船)が接岸している。埠頭倉庫の並んだ岸壁には二百九十九トン級、三百九十九トン級と言われるケミカルタンカー船や鋼材運搬の内航小型貨物船が接岸しているのが見える。

その小さな海は遠く太平洋が繋がっていた。

私は茫然と海の切れ端を見つめながら、いつの間にかテーブルに置かれたアイスコーヒーのグラスにフレッシュを注ぎ、ストローでゆっくりとかき回した。

カラカラカラとグラスに当たる氷の澄んだ音が心地よく耳に響く。

海、港、貨物船、ベイブリッジ、病院、全てのピースが頭の中で徐々に組み上がっていく。

そして、遂に記憶のパズルは完成する。途端に私の脳裏には三十年前のある情景がまざまざと浮かび上がってきた。


終点を告げる車内アナウンスに促され、地下鉄車両からホームに降りると古い路線の駅構内はベージュ色のタイル貼りのせいかずいぶん薄暗く感じた。自動改札に切符を放り込んで通り抜け、二番出口の地上へ向かう階段を駆け上がる。勢いよく地上に飛び出すと、急に辺りを眩しい陽光が包み込んだ。

そのまま港大通りを南に向かい、擦り切れたジーパンのポケットに両手を突っ込み、薄汚れた紺色のデッキシューズを蹴り飛ばすように歩き始めた高校生の私。

地下鉄駅出口のある大きな交差点に面してパチンコ店、ビリーヤード、サウナの入った大きな遊興ビルが建ち、その隣は最上階に映画館がある小さな百貨店、大型量販店の先駆けになったスーパー、銀行、全国チェーンのドーナッツ店、ファーストフードのハンバーガショップが並んでいた。

表通りを一歩入った商店街には特設市場、書店や時計屋、宝石店、八百屋、自転車屋、青果店、写真館、おもちゃ屋などがずらりと軒を揃え、古い街らしく店の隙間にひっそりと小さな神社のお社が身をひそめていた。商店街の裏通りには喫茶店とスナック、雀荘が目に付いた。

大通り沿いには「TAX FREE」と大きく張り紙をした外国人向け家電店兼土産物屋、大きな立ち飲み酒場、キャバレーの前には何故かディンキーヨットが看板代わりに置いてある。

店舗の装飾は決まって舵輪と白くペンキで塗られた浮き輪。船用品店の入り口には狛犬の様にパナマチョックが並んで陳列してある。洒落たレストランの屋根に乗った風見鶏は港ではお約束のカモメだ。

街はどこにいても潮の香りがした。

バブル景気直前の港街は、高層ビルが伸び上っていく都心部とは真逆に寂れたベールに身を包み始めていたが、それでもかつての繁栄の残滓をそこここに残していた。

だが今は、そのすべてが幻であったかのように跡形もない。

時代の流れと共に一つの街が無くなってしまうことはいつの時代にもよくある事だ。

私は繁華街を通り抜け、埠頭に向かって歩き続けた。

ガントリークレーンが立ち並ぶ巨大な埋め立て埠頭に貨物の荷役が移って久しい古い港には、平日の昼にもかかわらず人通りはおろか車の往来も殆ど無かった。

時折、遠く操車場からディーゼル機関車の汽笛が響いてくる。耳に届く音はそれだけだ。辺りは時が止まったように静かだった。

その閑散とした港通りの行き止まりに臨港病院があった。

そこに父が入院していた。

今はすっかり清潔感漂う近代的なビルに建て替えられているが、当時の病院は古い薄緑色にくすんだコンクリートの病棟だった。そこは肌寒い初春の空気が取り巻き、まるで建物が深い水底に沈んでいるように感じた。

鉄枠の重いドアを押し開け病院に入ると、ツンと鼻を刺す消毒液の匂いがした。中は街と同様に人影が少なく異様なほど静かだ。

リノリウム張りの薄暗い階段を最上階の三階まで上り、入院患者の病室が並ぶ廊下を足音を忍ばせて歩いた。一番奥まったところにある三〇八号室が父の病室だった。

入り口の白いカーテンを開き病室に入ると、腕に点滴をつなぎ、わき腹には腹水を抜く管を二本刺し込んだ父がベッドに横たわっていた。

付き添っているはずの母はどこか用を足しに出掛けたらしい。

私は思わずその場に立ち竦んだ。岩のように頑強であった父の憔悴し切った姿はそれ程に衝撃だった。

父は生粋の船乗りだった。

戦後の外航航路が盛んな時代、海と船、そして異国に夢を見て中学校を卒業後すぐに海運会社の養成所に入り船員になった。

太平洋は憧れのハワイ航路を定期船が結んでいた。その頃の仕事はまだ沢山のロマンがあった。

少年時代は街を闊歩する進駐軍の米兵達が格好良く見えて仕方なかったそうだ。彼らが乗りまわすジープやハーレーの排気ガスを吸うと頭が良くなると信じて、友達と何度も追いかけたと父は笑いながら話してくれた。

アメリカが輝き日本中の若者が皆憧れた時代だった。

父は養成所を修了するとそのまま海運会社に入社し、外航貨物船の甲板員から操機長、そして甲板長にまでなった腕利きの船乗りだった。

長い航海から帰ってくると、父は決まってまだ小学生だった私に沢山の土産話をしてくれた。

南洋の夜空に光輝く美しい南十字星。突然滝の様に降り始めるスコール。北海の黒い海と凍りつく風と波。静かで翡翠のように美しい地中海。海面を割って現れた巨大なクジラの群れ。夜の海面を航跡に沿って光る夜光虫。飛び跳ねるマンタやイルカ達との競争。世界中の様々な港町の情景。スエズ運河から見たアフリカの砂漠。分厚い鋼鉄で作られた船の外板すら凹ませるインド洋の猛烈な時化。海面から二十メートルを超す高さにあるブリッジまで叩きつける太平洋の大波。そして、嵐の海を抜けた船の甲板に花のように広がる白い塩の結晶。

私はその尽きる事の無い海の物語にわくわくと胸躍らせ、まるで冒険譚のように聞き続けた。父から貰う外国のお菓子やおもちゃといった土産物よりも、それは何倍も楽しみだった。

一度航海に出ると半年以上は戻らず、帰ってくると二カ月間家で休暇を過ごす日々を繰り返していた父が、毎日夕方には必ず帰ってくる勤め人になったのは、私が中学生になってしばらく経った頃だった。

海運不況で始まった日本人船員削減のあおりを受け、父は二十七年間乗り続けていた外交貨物船を降りたのだ。そして海運会社の子会社に転籍し、港湾荷役や本船に資材を供給する陸の仕事に移った。

航海中は船からのテレックスを海運会社に問い合わせ、父の消息を心配していた母は、これからは毎日安心していられると嬉しそうにしていた。

だが、陸に上がった魚とはまさにこの事なのだろうか。船乗りを辞めた父はかつての精彩をすっかり失ってしまった。

日に日に飲む酒の量が増えていった。航海中は酒を飲む船員の多い中、万が一の事態に支障を来たしてはならない。俺たちは板子一枚向こうサンタマリアの世界で生きているんだと頑固に一切アルコールを口にしなかった父が、休日になれば昼から熟柿のような匂いを漂わせるようになっていた。

私はそんな父を見るのが嫌だった。

年頃もあったのだろうが殆ど口も利かず避け続けた。

時折母は少しでもいいから酒を慎んで欲しいと懇願していたが、父は一切聞く耳を持たなかった。母は海運不況が全部悪いのよと泣いていた。

自分が乗り組んでいた本船を外国人クルー達が運行している様をわき目に、日々陸の仕事を続ける事は、誇り高い海の男として辛かったに違いない。

ずっと航海の日々に戻りたかったのだろう。父にとって船員は人生であり、船はもう一つの家だったと思う。

命がけの過酷な仕事によって作り上げられた小柄な引き締まった身体、日に焼けた顔と精悍な眼差しがまるでプロボクサーのように見えた父の印象は、いつしか少し背中を丸め革ジャンパーを羽織った灰色の鼠に変わっていた。

そして僅か三年で父は倒れた。

以前なら定期検診でさえも誇らしげに通っていた船員病院への入院を拒み、港湾労働者を対象にする臨港病院へ入院した。父はまだ船員手帳を持っていたが、甲板長まで務めた自分の今の惨めな有り様を、かつての姿を知る海の仲間には見せたくなかったのだろう。

病室のベッドに横たわり、猛烈な痛みを歯を食いしばって耐える父はじっと白い天井を睨み続けていた。

思えば、あの日の父と私の歳はもう殆ど変わらない。

病室に現れた私を横目でちらりと一瞥すると、父はいきなり怒声を張り上げた。

「しっかりしろ馬鹿野郎!」

こんなに厳しい父の声を聞いたのは初めてだった。

船乗りとして幾多の修羅場を潜り抜けてきた男の迫力は凄まじかった。思わずびくりと身を強張らせた私は周りの気温が二三度下がった様に感じだ。

「母さんが心配していたぞ。お前は部活を辞めたそうだな。勉強も全然しなくなって毎日遊んでいるそうじゃないか」

進学校への高校受験を失敗した私は、挫折感を持て余しふて腐れた。中学校から続けていた陸上部も辞めてしまった。そして、他の何かに打ち込むことなく毎日中途半端な気持ちのままにズルズルと時間を過ごしていた。

「父さんがお前の歳には本船に乗っていたぞ。楽な事をしていれば自分の中には何も残らない。どう生きるか選ぶのはお前の勝手だ。遊んで暮らしたいなら徹底して遊べ。それで野垂れ死する羽目になろうが絶対に後悔なんかするんじゃないぞ。そんな奴は情けない男って言うんだ」

既に病名を母から聞いていた私は、只々俯いて父が絞り出す言葉を噛みしめていた。

それは今でも一言一句はっきり覚えている。

この時、父は相当に苦しかったはずだ。病状を考えれば意識が混濁していても不思議ではない。しかし、海の男の精神は徹底して強かった。

「そこの封筒を持っていけ」

十分ほど切々と話し続けた父は、最後にポツリとつぶやいてベッド脇の引き出しを指差した。

そしてゆっくり息を吐き静かに目を閉じた。

促されるままに私は白い封筒を取り出すと、黙って病室から出て行った。

何も言えなかった。日々無気力に生きているだけの私は、父の叱責にたった一言さえも答えることが出来なかった。

気がつけば、港通りを南に向かって歩いていた。地下鉄の駅とは真逆の方向だ。右手のビルの隙間からまだJRが国鉄と呼ばれていた頃の大きな操車場が見え、ゆっくりと貨物車両が動いていた。今では港名物の一つになっている遊園地の大観覧車はまだ影も形もない。

そして辿り着いた先は、埠頭公園だった。

私はベンチに座り込み、公園の噴水から吹きあがる水しぶきをしばらく呆然と眺めていた。

見上げると、目の前には真新しいポートタワーが空に向かって大きく広がっていた。その姿はまるで純白のメインセールに風をはらんだ帆船のようだった。

この時何を思ったかはもう覚えていない。ただ惹かれるようにポートタワーに入った私は、入り口のホールで入館チケットを購入すると、ガラス張りのエレベーターに乗り込み展望室へ昇って行った。

地上五十七mの高さで南北に延びる展望室から見渡す景色は素晴らしかった。北は遠く山並みを背景にした市内のビル群が広がり、東は大きく海に突き出た半島、西には巨大な煙突が立ち並ぶ工業地帯が大パノラマとなって一望できた。

しかし私は南向きの一角に佇んだまま、ただぼんやりと曲面ガラス越しに春の柔らかな日差しに輝く鏡のような海を眺めていた。

埋立地に囲まれ、波一つない湖の様に静かな海面をオレンジ色のパイロットボートが白い航跡を曳いてゆっくりと進んで行く。

眺めているだけで眠気に誘われる程のどかな風景だった。

ふとその時、私はシャツのポケットにねじ込んだままの封筒を思い出した。その場で引っ張り出して封を開けると、中には几帳面に折りたたんだ一万円札が二枚入っていた。

それは如何にも父らしい武骨な愛情表現だった。

遠い水平線には巨大なVLCCタンカーがまるで一つの島のようにぼんやり霞んで浮かんでいた。もしかすると昔父が乗り込んでいた本船なのかもしれない。

不意に胸がぎゅっと締め付けられ、鼻の奥がツンと痛くなった。

途端に涙が溢れ出た。頬を伝う涙を拭う事が何故か無性に格好悪く思え、滲む海を見つめ私は只一人立ち尽くした。

昨年の夏開場したばかりのポートタワーの展望室には、春休みということもあり人影が多かった。彼等の目には封筒を握りしめ一人海に向かって号泣する若者の姿はさぞ奇妙に映ったことだろう。

すい臓炎と診断された父は二度と家に帰って来なかった。

父が亡くなった翌月、新聞の一面に「戦後最大の倒産!」と大きな見出しが載った。

それは父の勤めていた海運会社が巨額の負債を抱え会社更生法の適用を申請したと告げる記事だった。偶然とはいえ私には強烈なアイロニーに思えた。

その後、日本の海運業は急激に衰退し続けた。驚いたことに、父が第一線で活躍していた四十年前六万人居た日本商船の船員は、今や僅か二千人に減った。

父の死と同時に一つの時代が終った。


カフェから病室に戻ると、山本さんはもうベッドに戻っていた。

そして、私の顔をちらりと見上げると、いつも通りの柔和な表情で少し照れくさそうに会釈をした。

私は笑みを浮かべ静かに目礼するとゆっくりベッドに腰掛けた。

さあ、今度は私の番だ。同じ一人の父親として子供にどうしても伝えなくてはならないことがある。

子供は大人に向かって日々成長し、私は終焉に向かって確実に進んでいる事を自覚した今こそがそのタイミングだ。

きっとあの日の父とよく似た言葉になってしまうのだろう。だがそれで良い。それは私が父からもらった最後の大切な贈り物なのだから。

いそいそと売店で購入した封筒に紙幣を入れベッド脇の引き出しに仕舞いこむ。

何だか少し緊張してきた。私は真面目な表情を意識して作るとベッドに腰掛けたまま深呼吸を繰り返した。よし、これで準備は万端整った。

いつもならそろそろ来る頃だが、そう思った矢先パタパタと軽やかな足音を立て、ベッド脇のカーテンを押し開けて人影が飛び込んできた。

この騒々しさは毎度おなじみだ。

「あれ、お父さんもう起きても良くなったんだ。」

いきなり黄色い声が耳を打つ。若々しさが眩しいまだ十五歳の娘は、話す時も元気一杯跳ねるように声を出す。

「う、うむ。今日から院内は歩けるようになった。」

父親らしく威厳をもって頷いたつもりだったが、どうも調子が狂う。

「よかったー!もう退院してもよくない!」

えっ?よくない!って退院しちゃ駄目なのか?いや、いいのか?あれ、どっちだ?

駄目だ。ここでデレデレとにやける訳にはいかない。厳しい顔、厳しい顔と何度も心の中で唱える。

「すっかり顔色も良くなってるしー!」

あっ、いきなり手を握るな。まあこれは嬉しいけど。「なってるしー」なんて変な言葉は使ってはいけないと思うが、娘が喜んでいるからまあいいか。

「お前、その髪型は・・・」

さあ、ここは山本さんを見習ってビシッと決めるぞ。

「えー嬉しい、お父さん分かるー!昨日切ったの。似合ってる?」

「うん、よく似合っているぞ」

茶髪でもないし、可愛らしいボブカットだからお父さんは文句なく許す。どっちかといえばそれは好きだ。いや、大好きだ。髪型云々は完全に失敗だな。

「お前も今年は高校受験だからな。勉強はちゃんとしているのか」

「もちろん大丈夫よ。志望校は試験でもA判定だし。もう余裕。お父さんマジ心配ないって」

そうか、良かった。自信ありげな君の笑顔はいつ見ても素敵だ。

「うむ、偉いぞ。よく頑張っているな」

いや、でもここは父としては少し位心配して、何か薀蓄があるような事を言いたいところなのだが。

ええい、こうなったら仕方ない、最後にこれだけは決めよう。

「今日はそこの引き出しにある封筒を持って帰りなさい」

そうだ。これで私は親父の不器用な愛情に号泣したのだ。よし、ちょっと武骨な感じで上手く言えたな。

「うっそー!駄目だよ。こんなにお金貰っちゃ。戻しとくね」

いや、嘘じゃないぞ。えっ!ここで封筒開けちゃうの。しかもすぐ引き出しに戻しちゃったぞ。

妻がちゃんと教育してくれたおかげでしっかりした娘に育ったなあ。

お父さんは嬉しいぞ。年頃の一人娘はやっぱり可愛いものだ。器量だって中々なものだ。私に似なくて本当に良かった。

弱った、私は何を言いたかったのかすっかり分からなくなってしまった。

もう親父らしく助言する事なんか無に一つ残って無いじゃないか。それはそれで凄く良い事なのだが、私の事情からすれば少し困る。

これでは喜劇だ。

ベッドの上で新聞を広げている山本さんは聞こえないふりをしてくれている。きっと紙面の裏で笑っているに違いない。

私は、山本さんがちょっぴり羨ましくなった。でも、山本さんだってちょっぴり私を羨ましがっているに違いない。

父親という奴は相手が息子なら言うべき事なんて腐るほど湧いてくる。自分の長い人生経験から得た言葉がいくらでもある。でも相手が娘ではもうお手上げだ。まして、私よりしっかりしているから文句のつけようがない。これではつまらない。いや、自分の滑稽さにバツが悪くなってきた。

「くっくっくっく」

案の定、向かい側のベッドから忍び笑いが聞こえてきた。

人間慣れない事はするものではない。まして、山本さんの二番煎じでは尚更だ。

自分の顔がみるみる赤くなってきたのが分かった。もちろん病気のせいでも何でもない、もうそのまま布団をかぶってふて寝したくなる位恥ずかしくなった。

そんな私の顔を娘は不思議そうに覗き込んでいた。

それから二週間後、さっぱりと髪を切った若者に付き添われて山本さんが退院された。

私もあと一週間で退院になる。これでまだまだ生きる事が出来る。

多分、退院の日にはあれこれやかましく世話を焼きながら娘は付き添ってくれるのだろう。

もしあの時、親父なら娘に何と言っただろうか。私程だらしなくは無かろうが、でもきっと最後まで只嬉しそうに「うんうん」と頷いていたに違いない。

あの日、父の厳しい言葉を神妙に聞いていたのが、私の最後の親孝行だったと思っている。それはいつか娘にも伝える事が出来るだろう。

今日も病院の九階から見える港の海だけは三十年前と何も変わらない。

                     

                             


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