第4話 When I show off in front of you
数研部の部員が4人(そのうち3人は幽霊部員だが)から5人となり、廃部の危機をとりあえず乗り越えた次の日。俺は早くも後悔していた。
「おはようございます。今日もいい天気ですね」
「………いつから来てたんだ?」
俺はいつもと同じように部室に向かっていると昇降口で相良と出くわした。というか、相良は俺が来るのを待ち構えていたようだ。俺は朝から頭を抱えたくなった。部員として相良を迎える覚悟は出来上がったものの、もともと一人で活動していたこともあり、このように待ち合わせ的なことをすることに慣れていなかった。それも相良のような美人と。
(待ち合わせも何も、相良と何か部活動のやり取りなんかしてないけどな)
昨日のやり取りを思い出し、俺はそう思った。昨日の後半に関しては、俺が家に帰ってきてから悶々とさせてきたが、それを抜きにすれば、特に何か実のある話はなかった。
「いつから部活動が始まるのかわからなかったので、30分ほど前から待ってました」
「そうか……。職員室に行けば、部室のカギをもらえたと思うけど」
「カギは一ノ瀬君が管理してますよね?」
相良は首をかしげながら言った。とぼけているわけではなく、自然体で言っている辺り相良は天然なのかもしれない。
「昨日、俺は二乗にカギを預けて帰っているから、カギは持ってないぞ」
「そ、そうでしたね。あ!それと、一ノ瀬君!二乗先生を呼び捨てしてはダメですよ。お友達ではないんですから」
「………」
「ちょ、無視しないでください」
昇降口にはぽつぽつと生徒たちの出入りがあり、そんな場所に相良がいることで少し目立ってきている。さらに、相良が学校一変人と目される俺にすり寄っているのを目撃して、立ち尽くす生徒まで出てきている。俺はさっさと靴を履き替え、職員室へと向かった。その間、相良はブーブー不満を垂れ流していた。
◇
「なんだ、二人で一緒に来たのか。大変結構なことで」
「·········」
「部室のカギをいただけますか?」
「一ノ瀬、手を黙って出すんじゃなくて、相良みたいに愛想良くできないのか?」
「愛想良くの〝定義〟が不確定なので俺にはできないっすね」
「また、わけのわらんことを」
二乗は俺をにらみつけ、しかし、相良には笑みを返した。二乗は机に置いてあった部室のカギを俺ではなく相良に手渡した。俺は差し出していた手を見つめて体を固めた。そんな俺とは対照的に相良は満面の笑みを浮かべて二乗にお辞儀まで返している。
「………相良と俺とでは対応がずいぶん違うっすね。差別ですか?」
「差別じゃない、区別だ。一ノ瀬はかわいくないが、相良はかわいい」
「あ、ありがとうございます‼」
「礼なんか言わんでいい」
職員室を出た後、相良は律義に俺に部室のカギを差し出した。俺は仏頂面でそれを受け取る。ただただ、納得がいっていなかった。今まで何も言わずともカギを受け取れていたのに相良が来た途端これだ。俺は腹立ち紛れに足音を立てて階段を上がる。相良は恐る恐る俺の後をついてくる。
部室にたどり着くと俺はリュックを机の上に置き、黒板消しを持って黒板をきれいにしていく。いらだっているときは単純な作業に限る。何も考えずにただ作業に没頭できるから。
「あ、あの一ノ瀬君。私はなにをすればいいですか?」
「………窓を開けてもらえるか。換気が昨日はあんまりできなかったからな」
「わかりました‼」
窓を開けるだけに大げさだ。そこまで力を入れてやることでもないはずなのに。やはり俺は相良がわからない。わからないから俺と相良の二人で部活の時間をどう過ごせばよいのかが分からない。俺は黒板を消し終えるとリュックから一冊の本を取り出した。『増補改訂版 チャート式基礎からの数学ⅠA』と書かれていた。いわゆる『青チャート』だ。
「一ノ瀬君、今日はそれをやるんですか?」
「相良がどれだけ数学ができるのか、わからないからな。なるだけ簡単なもの選んでみた」
簡単といっても人それぞれだが。問題の難易度を5段階に分けたとき、俺にとっては難易度1の問題でも他人からは難易度5の鬼ムズ問題として認識されることもある。相良がどれだけの実力を持っているのか全く分からない現状では、どの難易度でやるべきか判断できない。だから、簡単なものから難しめの問題までそろっている青チャートを持ってきた。見た目は鈍器みたいだが、表紙がシンプルで気に入っている。表紙なら*プラチカと良い勝負だ(* 理系数学の良問プラチカのこと)。
とりあえず、俺はぱらぱらとページをめくって目についた問題を黒板に書いた。
(1) |x-2|<4
(2) |x+3|≥5
(青チャートの実際の問題より引用:p70)
「相良、解いてみてくれ」
「わ、わかりました」
相良はごくりと唾を飲み込むとチョークを手にして問題を解き始める。俺は相良の背中を見つめながらに思った。少し簡単すぎたか、と。高校1年のわりと序盤でやる内容で‶絶対値〟が分かれば即答できる問題だ。
(このレベルならやり方さえ教えれば小学生でもできる人はいるだろう)
しかし、現実はそうはならない。
「わ、わかりません」
肩を落として俺を涙目で見てくる相良。そして天井を見上げた俺。
「そ、そうか」
それしか言いようがなかった。
◇
俺は相良の代わりに黒板に立ち、さっさと答えを書いていく。
(1) -2<x<6
(2) x≤-8、2≤x
「わ、すごい‼一ノ瀬君、こんなに早く解けるなんて」
「こんなのゲームでいうところのスライムみたいなもんだろ」
「す、スライムですか」
相良は顔を青ざめてそう言った。俺はため息をこぼしながら、解説を始めていく。
「おそらく、相良は‶絶対値〟という概念を知らないと思う」
「いえ、知ってますよ。名前くらい」
「名前知ってるだけじゃ問題解けないだろ」
分かった気になることが一番危険だ。名前は知ってる、でも深くは知らない。これは何もわかっていないと同義だと俺は捉えている。
「まずは絶対値の定義からさらって行く」
「な、なんか授業みたいですね」
「授業みたいに50分も話さねぇよ。簡潔に話すつもりだから。絶対値はシンプルだ。《《数直線上で、0からどれだけ離れているか》》、以上」
「え?それだけ?」
「シンプルって言っただろ。正確なことを言い出したら長くなるし、わかりづらい。むしろこれくらいなら相良でも理解できるだろ?」
「すごい馬鹿にされてる」
「されたくないなら、勉強するしかないな。続けるぞ。絶対値を表すために『| |』という記号を使う。例えば――――」
|2|
俺は黒板にそう書くと相良に向き直った。チョークで問題をちょんちょんと叩きながら言う。
「この問題を日本語で表せるか?」
「え、ええっと………絶対値2?」
「そういうことだ。ちなみに答えはいくつになるかわかるか?」
「それはわかりますよ。0からどれだけ離れているか、ですよね?2だったら0から‶2〟だけはなれているんだから、答えは2です」
「That's right(その通り)」
「な、なんで英語………?」
問題を解けたことで満面の笑みを俺に向けた相良に思わずカッコつけたくなった、なんて言えるわけもなく、俺はわざとらしく咳払いをして、話を続けた。相良は俺に不審な目を向けてくるが無視だ。
「それじゃ、本題に戻るぞ」
(1) |x-2|<4
「この問題を日本語に置き換えるなら、『x-2の絶対値は4より小さい』となる。x-2じゃわかりづらいならこうすればいい」
x-2=A
「大文字のAとおけばかなり見やすくなる。|A|<4。これはつまりこういうことだ」
-4< A <4
相良は『やっとわかった‼』と声を上げた。俺はその後、何も言わずにチョークだけを差し出した。相良は待ってましたと言わんばかりに黒板にこの続きを書きだした。
-4<x-2<4
-4+2<x<4+2
-2<x<6
「こういうことですよね‼」
「そうだ。絶対値の定義が分かれば答えは導ける」
「私、今日頭良くなったかもです」
「それは気のせい」
『そんなことないです』と相良は言っていたが、俺は無視して、時計をみた。どうやら部活の時間が終わりに近づいているようだ。ひとりでただ黙々とやるのもいいが、
「こういうのも悪くない」
「なにか言いましたか?」
「なんでもない」
俺と相良は片づけをささっとやり、教室へと向かった。
今日の一問
大問4 次の絶対値を求めてください
1.|-2|
2.|2x+3|≤3
3.|x-1|+2|x-3|≤11
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