境界を越える少女
おどろくほど静かな夜、ではなかった。闇を恐れるように煌々と瞬く人口的な明かりの下で、異形の何かが不快な音で騒ぎ立てている。あれは悪魔というらしい。そんなもの、聖書の中の御伽話だと思っていたのに。彼らは、あたかも“夜”という時間は自分たちのものだと言わんばかりに我が物顔で、あちこち闊歩している。
少女は学校の屋上から、その様子を眺めていた。漆黒の中に浮かぶ弦月はとても美しかったけれど、地上から漏れ出る白々はどうにも無粋だ。
少女の長い黒髪が微かな腐臭を孕んだ風に揺れる。鼻を突くそれに、切れ長の大きな瞳が不快そうに歪められた。
「せっかくの夜なのに……ねぇ、律?」
死とは静寂と漆黒に満たされたものだと少女は思っていたが、現実はそう上手くはいかないらしい。
残念だわ、と少女は優雅な動作で視線を後ろで立ち尽くしている少女に向けた。
「そうだね」
律と呼ばれた少女は曖昧に笑い、そっと俯いた。大きなアーモンドアイが戸惑うような色を宿している。
「あんまり乗り気じゃないのね」
「だって、優莉……」
優莉、と呼ばれ少女は蠱惑的な笑みを浮かべた。まるで日本人形のように凛として整った顔が鮮やかに微笑む様は、清艶さを湛えて律は一瞬息を飲んだ。
「優莉、本当に行くの?」
「行くわ、もちろん」
優莉の背後には黒々として、一点の光もない闇が広がっている。闇と優莉と、その境界線は頼りなげな鉄作だけで超えようと思えばいとも容易く境界線はその意味を失うだろう。
「そんな顔しないで?」
優莉の白く細い指先が律の柔らかな巻き髪に優しく零れた。音もなく滑る指先がそっと頬の輪郭をなぞる。驚くほど冷たい指先だった。まるでもう魂の半分はどこか遠いところへ行ってしまったような。
そう思ったら、背筋がぞっとした。慌てて首を振る。
「大丈夫よ、律。心配することなんて何もないよ。だって律は私のこと好きでしょ?」
諭すような問いかけに、律はおずおずと頷いた。優莉の口元を彩る笑みが一層濃くなる。煌々と光る月が、優莉の背中から漏れていた。
「だって、このままじゃ全部終わっちゃう。永遠も見れなくなる」
優莉の顔には、先刻までの微笑は欠片もない。その美しい顔に深い悲しみを乗せて、遠くを見ている。その横顔があまりに綺麗で儚くて、律は喉まで出かけた言葉を失ってしまった。
永遠などいらないと、口には出来なかった。本当は優莉さえいればいいのだと、言えたらどんなに良かっただろう。けれど律の口を突いたのは、
「永遠ってなに?」
いつからだろう。美しく高潔で誰にも触れられぬ聖域であったはずの優莉が、永遠などという得体の知れぬものにとり憑かれはじめたのは。
密やかに律の口から零れた吐息は、いつの間には二人の間に横たわるようになった溝を思わせる。もちろん、優莉を嫌いになったわけではない。離れていったのは、優莉だ。永遠なんてものにとり憑かれて、優莉はどこか遠くへ行こうとしている。
「永遠はね、律。私が死ぬ瞬間、私の瞳に律が映っていればそれが永遠なのよ」
うっとりと優莉はどこか遠い場所を見つめたまま、陶酔感に浸っているようだった。その顔はもうどこか、生身の人間ではないような気がして律はきゅっと唇を噛み締めた。
下界から吹く風がなぜか冷たく感じて、そんな筈はないのにと思い直した瞬間に背筋を怖気が這い上がる。
だって今は夏だ。遠くで夏虫の鳴く音がする。
「律、私にはもうこうするしかないの。あんな所に行きたくなんかない」
薔薇のように紅く愛らしい唇から怨嗟が入り混じった声が漏れる。生々しいほどの毒を含んだそれは余りに優莉には不似合いで、律は何故か泣きたくなった。
「律、律。私、律が大好き。だから、ね」
頬を撫でていた指先が、投げ出されたままの律の指先に柔らかく絡みつく。まるで一枚絵のように二人の少女は見つめあった後、そっと何かを確かめるように唇を重ね合わせた。しっとりとして柔らかくて、感情のすべてが込められた口づけは長い一瞬だったように思う。
「バイバイ、律。また、明日」
別れの挨拶はいつもの夕暮れに交わすそれと何一つ変わることなく、軽やかに。最期に見た優莉の微笑みは天使と見紛うほど美しかった。
「ゆ……り……」
舞い上がる黒髪と宙に向かって伸ばされた白い腕は残像だけを焼き付けてすぐに消える。その直後、重い何かが激突したような音が夜闇に響いた。それは、優莉が望みどおりの永遠を手に入れた音だ。
「ゆーり……」
全身の力が抜けたのか、律は冷たい柵に縋るようにその場に崩れ落ちた。黒いアスファルトの上にパタパタと黒々とした染みが幾つも出来る。喉の奥から轢きつれたような声が漏れそうになるのを、律はきつく手で覆い隠した。
「やっぱ、ダメだよ……私、どうしたらいいのかな」
声は震えていた。胸の中にぽっかりと例えようもない大きな穴が開いている。その空洞をどうしたらいいのか、律にはまるで分からなかった。
「……あなた、寂しいの?」
どれぐらいの時間そうしていただろうか。不意に背後から掛けられた声に、律は驚きのあまり大仰に肩を揺らした。恐る恐る背後を振り返ると、そこには女性と思しき影が立っていた。逆光のせいで顔の細かな造作は分からないが、夜目にも鮮やかな金糸の髪が豪奢なカールを描き、唇は妖しく煌いている。
「あなた、だれ?」
「あなたの願いを叶えることの出来る人」
悪戯っぽく笑う声は落ち着いた中にどこか甘やかで、律は得体の知れない者に対する警戒と同時に奇妙な感覚を抱いていた。目の前にいるのは得体の知れない者だ。そんな人間の言うことなど聞かずに、さっさとこの場を立ち去ったらいい。けれど、律は動かなかった。
「……願いを叶えてくれるの?」
影は小さく、けれど確かに頷くとそっと律の耳元に唇を寄せた。瞬間、咲き誇る大輪の花を思わせる香りが律の鼻腔をついた。吹き抜ける風に交じって、純白の羽根が舞い上がる。
あぁ、これは現実ではないのだ。だから、言ってしまっても大丈夫。
「あなたの願いは、」
影が全てを告げる前に、律は。