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呑み処東雲  作者: 青虫
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第4話

 給料日の後に飲み屋が繁盛するというのは、もはやジンクスなのだろうか。あるいは、この店以外は全て繁盛しているのかもしれない。一般的な給料日後の週に当たる今週だったが、今日も特に変わりはなかった。不景気の波というやつは、丈の身の回りからは去ったことがない。もっとも、崇の収入は不定期、エディは月末日らしく、今夜の話では朝倉の給料日だけが二十五日ということだった。

 居残っていた最後の客を見送り、そのまま暖簾を下ろす。どのみち食材もほとんど底をついてしまい、電気を点けているだけ無駄な夜だ。

 勝手の許される自分の店を閉めて、年中無休二十四時間営業のコンビニへ立ち寄る。深夜でも明るく、暖かく、食糧や飲料が買える。煙草もだ。この特殊な体験は日本でしかできない。毎日のように少額ながらも買い物をしている自分は、果たして多少なりとも売り上げに貢献しているのだろうか。深夜営業そのものがコンビニにとって利益を生む行為でないとわかっていても、今ではほとんど仕事帰りの習慣に組み込まれている。

 がらんとした店内に、チャイムの音が小さく響く。

 ホットドリンクの棚から缶コーヒーを抜き取り、戻す。紅茶のほうがいい。レモンかミルクかで迷い、両方手に取る。そのままレジへ直行し、お決まりの注文を告げる。

「マルボロ、ボックス一つ」

 見知った顔の店員が、心得た反応速度でレジを離れる。煙草のついでにコーヒーや雑誌の一つも買うのが常だったが、今夜はたまたま、夜ごと増す冷え込みに誘われたのかもしれない、右側の保温ケースに目がいく。

「あ――それと、肉まんとピザまん一つずつ」




 集合ポストからダイレクトメールを取り出し、階段を上る。

 ドアを開けると、暖かい空気と、ふわりと出汁のにおいが流れてくる。テレビの青白い光に照らされて、小さな影が動いた。

「いるな」

「……あ、早い、んですね」

「早じまいしたんだよ」

 痛いところを突かれて苦笑しただけのことだったが、彼へ伝わったのはそのうちの苦々しさだけだったようだ。わずかに顔をこわばらせたのが、こちらからは見える。丈はもう一度、今度は努めて明るく笑った。

「不景気でね」

 彼のことが心配で、仕事を切り上げたわけではない。その点を誤解されるのは、不本意というよりも罪悪感を感じる。弁解の言葉を探して焦っているような表情を見ればなおさらだ。二人分の軽食を一人で食べずに済んだなどと、考えているのはせいぜいその程度のことなのだから。

「食うか?」

 ビニール袋をテーブルに置く。

「好きなほう食っていいぞ」

「あ、はい……」

 猫のような、というにはぎこちない四足歩行で、日夏がそろりと近づいてくる。丈は買ったばかりの煙草のフィルムを開け、一本を咥えた。

「あの、丈……さん」

「俺、名乗ったっけ?」

「昨日」

「ああ、そうだった」

「てか苗字、すいません、読めなくて」

 煙の向こうの日夏が指先でそっと触れたのは、クレジット会社からの決済通知だ。そうだ、開け忘れたままだった。丈は封筒を摘み上げ、東雲丈、の文字を弾いた。

「だよなぁ。これで、しののめって読む」

「しののめさん」

「丈でいい」

 封を開けたところで紙が一枚入っているだけだが、先月の引き落とし額を見ないわけにもいかない。

「日夏」

「あ、はい」

「って呼んでもいいか?」

「うん、あの、もちろん」

「じゃ、日夏」

「はい」

「無理にとは言わないが、食うなら食ってくれ。そう見つめられても困る」

「すいません……」

 通知の内容は、とても見せびらかすようものではない。よくよく促してやっと、日夏は袋に手をつけた。しばらく中身を見比べて迷っていたが、丈が一本目の煙草をもみ消す衝動に駆られるよりは早く、心を決めたようだ。選んだのは、ミルクティーとピザまんだった。

「いただきます」

「……その様子じゃ、病院へは行ってねーな」

 日夏の顔は変わらずに、絆創膏まみれのままだ。ガーゼの部分は血が乾いて、すっかり赤黒く変色している。

「だいじょぶです、手当もしてもらったし」

「俺は医者じゃないぞ」

「だいじょぶ、これくらいなら」

 ピザまんをかじりながら、日夏は淡々と言った。

「……まあ、お前さんがそう言うんなら」

 自分は医者ではないが、騒ぎ立てるほどの怪我ではないだろうとは確かに思う。ただ、そのことについて日夏が大して動揺していないのが、少し意外ではある。もちろん泣きわめかれるより、こうして落ち着いてくれているほうがずっといい。怪我や病気に対して他人と価値観がずれていると――楽観的あるいは冷たすぎると指摘されることが多いのだが、本人が大丈夫だと言っているのに柄にもなく食い下がっても仕方ない。

 丈は灰皿に煙草を押し付け、立ち上がった。

「大根の皮でも剥いといてくれとは言ったが……これ、お前さんが?」

 コンロの片側では、鍋がとろ火にかけられている。ドアを開けた瞬間から漂うにおいの正体は、これしかない。

「あの、余計なことしてすいません」

「ん?」

「おでんって言ってたんで、味付けたほうがいいと思って……」

 振り返ると、ミルクティーのボトルを握りしめたまま日夏が不安そうにこちらを見ていた。

「いや。助かるよ」

 よかった、と、唇だけで呟いたようだ。

 ふたを開けると、白い湯気が立つ。鍋の中で煮えているのは、夕方まで新聞紙に包まれていた大根だろう。

「うまそうだな」

 ただし、同じ大根を使ったとしても、丈が作ればこうはならない。

「もう食えるのか?」

「うん……だいぶ染みてると思います」

 一つ一つが、機械で剥いたようにきれいな丸みを帯びており、薄いオレンジ色に染まっている。十字の切り込みは、隠し包丁というやつだろう。名前は知っているが、自分ではやったことがない。小皿に取り、箸を入れると、驚くほど簡単に割れる。これで味つけだけが失敗しているならそれはそれで才能かもしれないと思いながら、熱い大根を頬張った。

「うまいな」

「……ほんとですか?」

「ああ」

 濃いめの出汁と塩気は、さぞや酒に合うだろう。まさに居酒屋向きの味だったが、いまだかつて、呑み処東雲ではこれほどうまい大根おでんが出たことはない。

「うちにあるもんで味付けしたのか?」

「これだけ揃ってれば、じゅうぶんですよ」

 自宅で仕込む時もあるので、和風だしの素とだし昆布、それに醤油や酒など一通りの調味料はある。彼は笑うが、丈にとってはむしろ深刻な出来事だった。

「俺が作るともっと不味いんだがな……」

「えと、それは……」

「どうやって作ったんだ?」

「えっと……」

「なるべく細かく説明してくれ」

「大根の皮を剥いて……あの、ちょっと厚めに」

「具体的には?」

「輪切りにすると、外側……ていうか皮の内側に繊維が走ってるのがわかると思うんですけど、その部分は全部剥いたほうが」

「うん、それで?」

「えと……面取りして」

「面取りって?」

「角を取るんです、こう」

 ペットボトルを大根に見立て、日夏はジェスチャーを始めた。

「こうやって。煮崩れしにくくなるって言われてるんですけど、どっちかっていうと見栄えの問題かなって。それで、下茹でして」

「どれくらい?」

「真ん中までやわらかくなるまで、しっかり」

「へえ……それで?」

「それで、昆布で出汁を取って、だしの素入れて。その鍋だと四袋」

「そんなにか」

「うん、あの、濃いほうがうまいと思うんで。あとは、醤油と酒とみりんを適当に」

「適当に、か」

「量ってるわけじゃないんで、俺もよくわからなくて……」

「なるほど、ありがとう」

 最終的には裁量次第ということ、そしておそらく自分はその裁量を正しく行えないだろうことがわかり、丈は残りの大根を味わうことにした。うまい。

「料理は得意なのか?」

「得意っていうか、仕事、なんで」

 想像の範疇の答えだった。

「調理師ってやつか」

「まあ……一応、免許は持ってます」

「そう言や、職場に連絡は?」

「や、もう辞めたんで」

「そうか。長く働いてた店なのか?」

「ううん……俺、一つの店に落ち着けなくて。昔から、色んなとこ転々としてて」

 さて、一回り以上年下の彼が「昔から」などと言うと、妙な気分になるものだ。十年一昔という言葉があるが、十年前の自分より、今の彼のほうがまだ若い。

「俺もずいぶん転々としたよ、色んなとこ」

 日夏は小首を傾げて曖昧に笑い、ふと口元を引き締めた。

「……あ。あの、丈さん」

「なんだ?」

「俺、勝手に米使わせてもらったんですけど……そこにあったやつ」

「ああ、構わねーよ。つーか、よく見つけたなあ」

「すいません、いろいろ漁っちゃって」

「そういう意味じゃない。好きに使ってくれって言っただろ」

 肩を縮めて頷いた彼は、もじもじと、丈に向かって人差し指を向けた。

「さっき言い忘れたんですけど、大根の下茹でに、とぎ汁使って」

「ああ、そういえば聞くな」

「米も炊いたんで、いらないかなと思ったんだけど、そこに……」

 指しているのは丈ではなく、その奥だったらしい。

「そこに、お握り作ったんで、よかったら……」

 よく見ると、インスタントコーヒーの瓶に隠れて、ラップの包みが二つあった。

「そういうことは早く言え」

「うん……」



 コンビニお握りはあまり買わないし、生米も五キロ買えばなかなか減らない。主食とはいえ、久しぶりに家で白米を食べているような気がする。シンプルな塩むすびだったが、却って味わいがある。

 気が利くというか気を遣うというか、丈の周りには、日夏のような人間はあまり、いやほとんどいない。

 日夏は今、シャワーを浴びている。これも言い出せないでいたらしい。

 彼は当然着替えなど持っておらず、いくら貸し出してもまったく構わない丈の服はあまりにサイズが大きい。タンスを探して見つけ出したのは女物のTシャツで、これがどう見ても彼に最適なサイズだった。ビビッドなピンクの生地、ファニーなキャラクターがプリントされたTシャツに、特別な思い入れはない。整理整頓を怠る自分の性格が、まさか役に立つことがあるとは思わなかった。

 道端で拾ったわけありそうな怪我人は、思いもよらず遠慮深い性格で、男にしては奥ゆかしいくらいだ。料理が得意で、握り飯を作って待っていてくれるような気遣いまで見せる。

 これで、シャワーから出た日夏が実は女だったら、ストーリーとしては完璧なのだが――などと、長くあいつらの話を聞かされたせいで、すっかり思考が汚染されている。

 ここにはいないエディと朝倉に毒づきながら、丈は塩むすびをかじった。

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