専属使用人
それは、とても清々しい朝だった。やはり自分の家が一番ということか、レオハルトはここ最近の中で一番気持ちよく目覚める事が出来た。普段は不快でしかない寝起き特有のやけに眩しい日差しすらも心地好く感じられる。
手の甲で目を擦ってから、起き上がり、大きく伸びをする。ぐるっ、と左右に腰を回してからベッドから両足を下ろして立ち上がり、窓の外から空を見上げる。雲一つない、とまではいかないが見事に晴れ渡った青空が広がっている。ここまで寝起きが良かったのはいつ以来か、思い出すことも出来ない。
「さて…、どうするか」
清々しい朝を迎えたのは良いが、この後どうしたらいいのか。さすがにまだ朝食には早いだろう。いや、今日はセレーナは合宿で早く出なければならない。ならば朝食も比例して早くなるか?しばらく部屋を出るべきではないか?部屋の外でセレーナと出くわして、セレーナの機嫌を損ね、この後の合宿に支障をきたしたらいけない。
こんなレオハルトの考えすぎる性質がヘタレと呼ばれる所以なのだと、この男はまだしばらく気付く事はない。
「?」
ふと、扉がノックされる音がした。レオハルトは振り返り、誰だろうと一瞬頭の中に疑問が浮かぶ。アルフレッドか、マリアベルか、はたまた他の使用人の誰かか。父は今頃すでに執務を始めているだろうから除外。
「レオハルト様、お目覚めでしょうか」
外から聞こえてきたのは女性の声だった。マリアベルの声ではない。セレーナでもない。というより二人はレオハルトをレオハルト様とは呼ばない。ならば、メイドの誰かか。
「あぁ。どうかしたか?」
扉を向き、扉の向こうに聞こえるように大きめのボリュームで返事を返す。
「失礼致します」
再び女性の声がした直後、扉が開く。扉の向こうに姿を現したのは、レオハルトの予想通り、屋敷に勤めるメイドだった。制服を身に着け、畏まる少女が立っている。
肩の辺りで切られた金髪に、身に着けたメイド服は見事に着こなされている。リオノーラと同じくらいの背丈で、均整のとれた体型をしている。両手を体の前で重ね、顔を上げた少女の碧の瞳が露になる。
「御朝食の準備が整っておりますが、如何されますか?」
「え?朝食?」
誰が来たのかと同時に、何の用で来たのかも考えていたレオハルト。何か父に言い漏らしていた事があったのか、母が何かの用で自分を呼んだのか。もしや合宿に出掛けるセレーナの見送りでは?とも。
一番最後はないな、と考え直したのだが、それでもまさか朝食に呼ばれるとはこれっぽっちも思っていなかった。先日、食事は外でとると言ったばかりなのだから。
セレーナが合宿で家を空けたからか。しかし、それではセレーナを欺いているようではないか。何故、父と母はそんな事を。
「はい。奥方様が、レオハルト様も是非と」
「…いや、それは」
何度も言うが、セレーナはレオハルトが帰ってきた事を良く思ってない。もし今日、セレーナが屋敷にいたとして、レオハルトと一緒に食事をとりたいなどとは言わないだろう。それはコーネリウスもマリアベルも分かっているはずだ。それなのに、何故。
「レオハルト様?」
黙り込み、返事をしないレオハルトを不思議に思ったのか、メイドの少女が首を傾げる。
いけない。これではまるで、家族で食事をとる事を嫌がっている様ではないか。そうじゃない、そうじゃない。
「…今、父上と母上はどこに?」
「御主人様は執務室に。ですがすぐに食堂にいらっしゃられると思います。奥方様はすでに食堂にいらっしゃられております」
「…そうか」
セレーナの事だけを考えるなら、両親の提案を断るべきだ。だが、脳裏を過るのは、自身を抱き締めた時のマリアベルの顔。嬉しそうに涙を浮かべ、安堵の笑みを浮かべた母の顔。
セレーナとの不仲が続けば、そんな母の笑顔は悲しみに暮れるだろう。とはいえ早く何とかしなければと急いでもそれは逆効果にしかならない。
少し話がずれたが、やはり食事の提案は断るべきか。メイドの少女に伝言を頼もうかと口を開きかけてーーーーーー閉じた。
何をしようとしているのだ、自分は。母の悲しむ顔を見たくなくて、他人に押し付けようとした。
「…解った。一度食堂に行って母上と話してくる」
「かしこまりました」
礼をするメイドは頭を上げると、扉を開けてその場で立ち尽くす。
「…」
「…」
「…」
「…?」
流れる沈黙。メイドを見つめるレオハルト。レオハルトを見返し、首を傾げるメイド。もしかして、部屋を出るよう促しているのだろうか。しかし、レオハルトの格好はまだ寝巻き姿なのだ。そんな格好で行くわけにもいかない。
「どうなさいましたか?」
「いや…、着替えたいんだけど」
再び薙がれる沈黙。するとメイドは、僅かに両目を瞑目すると、ポン、と拳で掌を叩きながら頷く。
「失礼致しました。私目ごときに着替え姿を見せたくないと、そういう事ですね?」
「は?あ、いや、着替えを見せたくないのはその通りなんだけど、何かその言い方は…」
事実、メイドの言う通りなのだが、私目ごときに、なんて言い方だったり少々引っ掛かるものがある。苦笑を浮かべるレオハルトだが、一方の少女は首を傾げている。先程から思っていたのだが、この子、表情が乏しすぎやしないだろうか。ほとんど表情筋が仕事していない。
「あー、うん。取り敢えず着替えたいから一旦出てくれないかな?」
「かしこまりました。では、部屋の前でお待ちしています」
そう言って、少女は部屋を出ると優しく扉を閉めていく。かなり個性的というべきか、そんな性格をしているが、一使用人としてはかなり優秀なようだ。仕草の一つ一つが徹底されている印象を受けた。
「…着替えるか」
あまりゆっくりしていられない。外で待ってる少女もそうだし、今頃食堂ではマリアベルが、もしかしたらすでにコーネリウスもレオハルトを待っているかもしれない。
レオハルトは寝間着として使っていた服を脱いで着替えるのだった。
アルフレッドから聞いていた話の通りの人だと、その少年と話していて思った。
アルフィナ・メビウス、それが彼女の名前だ。二年前にリトンベルク家に、マリアベルに拾われてこの屋敷にメイドとして働き始めた。
アルフィナはこの家が好きだ。初めは自分なんかがやっていけるのかという大きな不安があったが、ここで働いている人は皆優しく、当初アルフィナが貴族やそれに連なる人達に対して抱いていた傲慢だというイメージは塗り潰された。
勿論、この屋敷で働いている内に他の貴族達と会ってきた。話した事もある。アルフィナがこの屋敷に来る前に抱いていたイメージ通りの貴族もいた。しかし、それだけではないのだと、この屋敷で働き初めてから知ったのだ。
そんな人の良い主人達が雇った使用人達もまた、良い人ばかりだった。思い返せば、屋敷に来たばかりの頃は皆に迷惑かけてばかりだったのに、嫌な顔一つせずにフォローしてくれた。
その優しい先輩達が、口を揃えて言うのだ。レオハルト様は、素晴らしい方だと。
アルフィナがレオハルトについて知っている事は少ない。リトンベルク家にセレーナの他に一人、息子がいるという事は知っていた。その息子は、多くの貴族から落ちこぼれ、出来損ない、リトンベルク家の恥等と言われている事も知っていた。
しかし、この屋敷内でそんなレオハルトの悪口を聞いた事はまるで無かった。勿論、そんな事を口にできるような立場ではないのは間違いないのだが、それにしても陰口一つ聞こえてこないのは、周囲の貴族の評判を考えると少々妙ではあった。
特に先程言ったようにアルフレッド、そして彼を筆頭にレオハルトがまだ屋敷にいた当時から働いている使用人達は言うのだ。『レオハルト様は素晴らしいお方だった』と。在りし日を懐かしむ、そんな表情をしながら。
アルフィナはレオハルトという人物に興味を持っていた。身内とその周囲と、ここまで評価が掛け離れた、レオハルトという人物に。だから、コーネリウスから出された提案を迷う事なく飲んだ。
今、レオハルトは自分の斜め前を歩いている。昨日ちらりと見たローブ姿とは違い、きらびやかなスーツを着たレオハルトは昨日の格好よりもしっくり来ているように見えた。
「そういえば、さ」
「?」
部屋を出てからここまで会話が無かったが、不意にレオハルトが歩きながら口を開いた。歩く速度を落として、アルフィナの隣まで下がってから、アルフィナの顔を見下ろしながらレオハルトは問いかける。
「今更だけど、名前を聞いてなかったな」
「あ…」
ここでアルフィナもまた、そういえばと思い出す。コーネリウスからレオハルトを食堂に連れて来るよう言われ、その言伝てを守る事ばかり考え自己紹介するのを忘れていた。
アルフィナは足を止め、直後に続いて足を止めたレオハルトにお辞儀をしてから、これから自分の主人となる少年を見上げて口を開いた。
「自己紹介が遅くなってしまい、申し訳ございません。コーネリウス様の命を受け、本日よりレオハルト様の専属となりましたアルフィナ・メビウスと申します」
「…へ?」
「よろしくお願い致します」
言い切ってからもう一度深々とお辞儀。数秒頭を下げ続けてから姿勢を正し、レオハルトの顔を見上げる。
レオハルトの両目が点になっていた。
何故?首を傾げるアルフィナ。硬直したまま動かないレオハルト。こういう時はどうすれば良いのだろうか。アルフィナは既にレオハルトの専属の身である。何よりもレオハルトを優先しなければならないのだが、これは無理やり食堂に引っ張っていっても良いパターンなのでは?
「…専属?俺の?君が?」
「はい。その通りでございます」
「何で?」
「何故、と申されましても」
さっきから何を戸惑っているのだろうか。いや、いきなり専属の使用人が付くなんて前触れもなく聞いたら戸惑うかもしれないが、それにしたって戸惑い過ぎな気がする。
「…すまない。とりあえず、母上の所へ行こうか」
「承知しました」
軽く頭を振り、大きく息を吐いてからレオハルトはそう言って歩き出した。先程まで頭に浮かんでいた疑問は口に出さず、アルフィナもその後に続く。
特に平時と変わらないアルフィナに対し、レオハルトはかなり混乱していた。何の報せもなく自身に専属使用人が付く事もそうだが、レオハルトの混乱の原因はもっと深い所にあった。
すでに何度も言っているが、レオハルトは一度家を出ている。それは即ち、家を捨てたという事だ。今、こうして屋敷を自由に歩き回っている事すら前代未聞だというのに、更に専属使用人を付けるという事がどういう事か。解らない筈がない。
「父上!」
食堂の扉の前まで辿り着くと、体裁も何も気にする事なく、レオハルトは扉を開け放ち、すでに来ているであろう父に話し掛ける。
レオハルトの予想通りすでに席に着いていたコーネリウスと、その隣の席に着いていたマリアベルがノックもなく入ってきたレオハルトの姿に目を見開く。
「レオハルト…。驚かすな、せめてノックを…」
「どういうおつもりですか」
「なに?」
「どういうおつもりかと聞いているんです」
食堂に入り、数歩コーネリウスへと近付き、レオハルトは問いかける。レオハルトの視線とコーネリウスの視線は真っ直ぐに互いの視線と交わる。
「…アルフィナの事か」
「私に専属を付ける事がどういう事か、解らない筈がない。父上、お答えください」
「お前は私の大事な息子だ。その息子に専属使用人を付ける事は至って自然だと思うが?」
「俺が聞きたいのはそういう事じゃない」
レオハルトの視線が鋭く、コーネリウスを射抜く。コーネリウスは表情を変えず、レオハルトの視線を迎え撃つ。
「俺はこの家を、国を出た身です。後継者候補としての義務を投げ出した、所謂売国奴だ」
「その言い方は止めろ。お前は…」
「もし俺が帰ってきた事を知られれば、端から見れば売国奴としか見えない。これが現実でしょう」
レオハルトは自身の失踪についてどういう結論を出されたか、まだ知らない。だが、こうして万事無事に帰ってきた事を周囲が知ればどう思うか。
無事に帰ってきて良かったと思うか。いや、違う。何故、帰ってこれたのかと疑念を覚えるだろう。レオハルト・フォン・リトンベルクは属性を持たない落ちこぼれなのだから。何かしらの事件に巻き込まれて拐われたか、或いは周囲の声に耐えきれず家を捨てたと考えている者もいるかもしれない。
どちらにしても、帰ってきたレオハルトを好意的に受け入れる者は少ない。そんなレオハルトの帰還を受け入れ、その上専属使用人まで付ける。そんな事を国の宰相がしたと知られればどうなるか。
「レオ」
コーネリウスの返事を待っていたその時、彼とは違う声がレオハルトを呼んだ。低い男の声じゃなく、綺麗で澄んだ女性の声。
「貴方が言う事も最もです。国を守る貴族として、私達がしている事は最低なのでしょう」
「母上…?」
「しかし、私達は貴方に親として何かをしてあげたい」
決意に満ちた母の瞳が、レオハルトを映している。何を言われても退くつもりはない、と、そう語っているように見えた。
「マリアの言う通りだ」
「父上…」
「少しは親らしい事をさせてくれ」
「…親らしい事がしたいなら、他にたくさんあると思いますが」
掌を額に当てて息を吐く。決して貴族主義ではないが、やはり料金は根っからの貴族なのだと思い知る。
レオハルトは長い旅の中でたくさんの人達と出会ってきた。その中には勿論、貴族でない者もたくさんいた。そうした人達と触れ合う中で、たくさんの家族を見てきた。明るく賑やかな家族もいれば、仲が冷えきった家族も見てきた。
そういった経験があって初めて、レオハルトは両親が貴族であるのだと思い知った。
子供に親らしい事をしたい、それは親にとってほぼ当たり前の事かもしれない。ただ、その親らしい事が何故子供に専属使用人を付ける事になるのか。もう少し、こう、何かないものか。
と、考えても全く何も浮かばなかった。別段欲しいものなんてないし、レオハルトももう十七だ。あまり、べったり親にくっつかれるのも嫌だ。それに他に何かないかと考えている内にどうでも良くなってきてしまった。
最悪、周囲にバレさえしなければいいのだ。外出する時等はついてくるなと念を押しておけば大丈夫なはずだ。
「…解りました。もうそれで良いです」
「レオ、お前少しマリアに弱すぎやしないか?」
苦笑いするコーネリウスが何か言っているが、別にマリアベルが言ったから納得したのではない。自分で考え、これならばと自分で納得した結果だ。まあ、レオハルトを納得させた要素としてマリアベルが言ったからという事や、そもそも両親と二対一で勝てる筈がないというのもあるが。
「それじゃあ、話も纏まった事ですし、御飯にしましょう?」
「あ…」
ここでレオハルトはようやく思い出す。元々何故、自身がここに呼ばれたのかを。そう、三人で朝食をとろうと提案されたからだ。そして、その提案をレオハルトは断ろうと思っていた事も思い出した。
「あの、俺は…」
「レオ。これは、セレーナが提案した事なのです」
「え?」
誘いを断ろうと口を開いた瞬間、マリアベルがそれを遮って口を開いた。
「セレーナが…?何を…」
「あの子は、レオを嫌ったり、憎んだりしている訳ではない。その事は、お前に解ってほしい」
「父上…」
そういえば、とこの場にセレーナの姿がない事にようやく気が付く。もしや、もうすでに屋敷を発ったのか。いやそれよりも、レオハルトが朝食の誘いを断ろうとしたのは、セレーナが嫌がると考えたからだ。なら、セレーナが許可を出したというのなら、レオハルトが断る理由は無くなる。
「何で…。あいつは、俺を…」
「…好きだからこそ、許せない事もある」
続いたコーネリウスの言葉の意味を、レオハルトは理解できなかった。視線を伏せるレオハルトを見たコーネリウスとマリアベルはその事を悟ったのか、小さく苦笑を漏らしてから一度目を見合せ、そしてレオハルトを見る。
「さあ、いい加減に席に着くんだ。料理が冷める」
「レオはこうして手料理をゆっくり食べるのは久しぶりでしょう?味わって食べてね?」
コーネリウスの声に思考を切られる。マリアベルの笑顔が、レオハルトの中で燻る焦燥を消していく。
そうだ。時間はある。セレーナが何を想って、自分を許せないでいるか、その要因を考える時間はある。ゆっくり考えれば良い。父と母の何気ない態度を見て、言葉を聞いて、レオハルトはそう余裕を持てた。
レオハルトはマリアベルが座る席の正面の椅子を引き、そこに腰を下ろす。
「そうですね。外食じゃなく、ゆっくり家で食事をするのは結構久しぶりになりますね」
この屋敷のどこに行っても、何をしても、レオハルトにとってはそこに四年ぶりとつく。今この瞬間も同じだ。
まだ足りない人がいるが、 今、レオハルトは四年ぶりに、両親と食事を共にしたのだった。