リトンベルク邸の夜
家族との感動的でもあり、不穏でもあった再会を済ませたレオハルトはその後、かつて屋敷に住んでいた頃に使っていた元自室へと向かっていた。レオハルトがいない間に大規模な模様替えを行った等という事はなく、レオハルトの中に残った記憶のままの内観が続いていた。お陰で迷うこともなく、元自室に辿り着いたレオハルトは扉を開けて部屋の中へと入った。
中に入った瞬間、何とも言えないむず痒い感覚がレオハルトの中で奔った。
四年前、最後に見たものと同じ。レオハルトが自室として使っていた当時のまま部屋は保たれていた。掃除も欠かしていなかったようで、誇り一つない徹底ぶりだった。いつ帰ってくるとも知れぬ、レオハルトのために。
目に込み上げる何かを堪えながら、腰に差していた剣とベルトに紐を結んであった白い袋を机の上に置き、ベッドに腰を下ろして大きく息を吐いた。
何にしても、とりあえずこれで一段落した。またすぐに、という事もあり得なくはないが、まあないと考えても良いだろう。さすがに。多分。メイビー。
しかし、これからどうするか。昼食を食べに行くにしても正直まだ食欲はない。というより、帰ってきた事で気が緩んでしまったか、目蓋が重い。
それにしてもこのベッド、ここまで柔らかかっただろうか。こんな高級ベッドを毎日使ってたのか、四年前までは。何て贅沢な事か。しかしこれからしばらくはまた、このベッドを毎日使える。あぁ、そう考えると帰ってきて良かったと思えてきた。旅の途中は野宿がざらで、ろくな環境で眠れなかった。稀に街の宿や村の民家に泊めてもらった事もあったが、やはりこのベッドの心地よさと比べる事すら烏滸がましいと思えてしまう。泊めてくれた人達にはかなり申し訳ないが。
――――――あー、ヤバイ。本格的に、ねむく…。
そんな事を考えている内に、眠気が強く押し寄せてきた。抗おうとして、それでも重くなった目蓋はレオハルトの意志に反して容赦なく閉じようとする。
一瞬過る、このまま眠ってしまおうか、という考え。一瞬だが、抗う事を止めた時点でレオハルトの負けは決まっていた。レオハルトの意識は一瞬にして黒く塗り潰され、落ちていった。
その後、夕方まで眠りこけていたレオハルトはすぐに強烈な空腹感に襲われ、昼食兼夕食を食べに屋敷を出た。廊下を歩いている途中、四年前から屋敷で働いており、レオハルトと知り合っていた使用人と数度すれ違った。その際の使用人の悲しげな表情がレオハルトの心を痛めたが、やはりセレーナに許してもらえるまでは家族の輪に加わる事は出来ない。
屋敷を出て、貴族街から商店エリアへ移り、そこで良さげな店を探し、中が空いてすぐに座れそうな店に決めてそこで食事を済ませた。
食事を済ませてすぐに屋敷に戻ったレオハルトは再び自室へと戻り、夜までおとなしく休んでいた。
そして現在、すでに窓の外は夜の帳に包まれ、見える灯りは街灯と他の家の窓の光だけ。ここからでは見えない商店エリアではまだまだ歩く人も多く賑わっているのだろうが、ここ貴族街ではもう通りを歩く人は殆どおらず、静けさが広がっていた。
夜遅くに外を出歩く貴族は殆どいない。貴族、特に女子供を狙う人拐いを警戒して、辺りが暗くなると家に籠るのである。そのため、まだまだ盛り上がる商店エリアに反して貴族街は静寂に包まれている。
「さて…」
暇だ。レオハルトの今の心境を表すにはその一言で事足りる。暇なのだ。猛烈にする事がないのだ。野宿ならば辺りを警戒しなければならない。宿や民家に泊めてもらっているならば、他の人と一緒に酒で飲み交わしている時間帯だ。昼間はしっかり寝てしまったため、眠気は一切ない。
「…庭で素振りでもするか」
ポツリと呟いてから、レオハルトは壁に立て掛けていた鞘に収まった剣を持って部屋を出た。
廊下にはまだ多く使用人が行き交っており、その忙しさが見てとれる。レオハルトの姿を見た瞬間、全員が廊下の両脇に退避して道を開けている所を見ると、レオハルトが帰ってきたと本当に知れ渡っているのが解る。レオハルトがまだ屋敷にいた当時はまだいなかったはずの使用人までが自身の顔を知っている所を見ると、アルフレッドがレオハルトの似顔絵を描いて見せて回ったのだろう。あの人ホントに何者だ、万能過ぎる。
屋敷の裏口から外へ出て、庭へ。石畳の道が続くその両脇に、見事に手入れされた花畑が広がっている。その先に見えるのは、石畳の道が円形に広がり、中心で水を噴き上げる噴水。
噴水の前で立ち止まると、レオハルトは鞘から剣を抜いて眼前に構える。両目を瞑り、イメージするのは、レオハルトが出会ってきた人達の中で、最も剣技に於いて優れた剣士。細身の鋭い刀身を持った、刀と呼ばれる剣を手に、イメージの中の剣士はレオハルトに刃を向ける。
柄を両手で握り、レオハルトは剣で一文字に振るう。すぐに軌道を切り返し、更に足を踏み込ませながら左薙ぎ。
イメージの中で、相手と幾合も剣戟を交わす。
相手の死角から袈裟斬り、避けられる。振り返り様に放たれる、首目掛けての右薙ぎ。刃を割り込ませて防ぐ。間髪置かずに連撃に襲われる。防ぎ、かわし、距離をとり、隙を見て反撃を試みる。
そうしてイメージの中での相手と攻防を続ける。しかし、次第に相手の猛攻に防御が追い付かなくなっていく。尚も剣を振るい、切り返し、凌ぎ続けるもーーーーーー
「…ダメか」
正直、解り切った結果だ。剣技のみで勝てるはずがない。レオハルトはバッサリ言えば片手間で剣の修行を行っていたが、相手は全てを賭けて、全身全霊で剣の道を突き進んでいるのだ。むしろ数分保った自分を誉めてあげたい位だ。
「誰と戦っていた?」
「っ!」
突如背後から聞こえてきた声。レオハルトは振り返り、警戒の姿勢を構えながら声の主を見やる。
「おっと、すまないな。驚かせた」
「父上…」
振り返ったその先に立っていたのは、肘を曲げて軽く両手を上げているコーネリウス。コーネリウスは苦笑を浮かべながらレオハルトを驚かせた事を謝罪する。
「随分、気合いの入った訓練だったな」
「…剣で一度も勝てなかった相手でした」
先程の父の問いに答えながら、頭の中で思い返す。旅の途中、ふと寄った街で出会った男だった。その男はレオハルトの師と知り合いで、時々話を聞いていたらしい。それでレオハルトに興味を持ち、試合をする事になったのだがーーーーーーボッコボコに伸されてしまった。手も足も出なかった。少し自惚れ気味だったレオハルトが完全に目を覚まされた。
それから何度か試合をする機会があったのだが、全て負けた。
―――――――というか、剣だけなら師匠より強いだろあの人。
そう思わせるほど、あの男の技量は圧倒的だった。魔法ありならもう少しまともな勝負ができる自信はあるが、勝てるかと聞かれたら自信はない。何しろ、あの男は剣技のみで龍の首を落としたという伝説を持っているのだから。
「そうか…、ヤスクニ殿に会ったのか。また物凄い人と試合したな」
男の名は、ヤスクニ・トウゴウ。戦争で滅んだ国々の一つ、東和国と呼ばれていた国で力を持っていた家系の末裔であり、現在は世界最強の剣士と謳われる男である。
今頃、どうしているだろうか。今この時も、世界を放蕩しているのだろうか。トウゴウ家の人も大変だ。ヤスクニが気ままに放蕩しているお陰でいつまで経っても家長の座を引き継げないのだから。
まあ、家に苦労を掛けているのはレオハルトも同じなのだが。
「レオハルト」
「?」
コーネリウスに声を掛けられて振り向くと、コーネリウスは腰に差してある剣が収まった鞘を握っていた。コーネリウスがこの場に来てから疑問に思ってはいたが、どうやらその真意はこれらしい。
「…父上。最近剣を握られてないのでは?」
「舐めるなよ。まだまだお前にやられるほど衰えてるつもりはない」
挑発には挑発を。レオハルトの笑みを以て掛けられた挑発を、コーネリウスもまた笑みと共に挑発を返す。
笑みを向け合いながら、父子はそれぞれの得物を手に取る。レオハルトは背の丈ほどの剣を腰だめに。コーネリウスは見事な装飾が施された黄金の剣を両手に握り、体の正面に構える。
父子は少しの間睨み合い、そして、踏み込んだのは同時だった。
一瞬後、刃と刃がぶつかり合う金属音が辺りに鳴り響く。互いに刃に力を込め合い、鍔を重ねて押し合う。
力比べは数秒、二人は弾かれるように同時に離れる。今度は先に動いたのはレオハルトだった。左回りに弧を描き、コーネリウスの脇目掛けて回り込みながら剣を構える。コーネリウスは踏ん張った両足が後方に流れる体を止めてから、レオハルトの動きを視認して防御体勢をとる。
直後、再び鳴り響く金属音。そして再びの鍔迫り合い。
「しっ!」
「ぐっ!」
レオハルトの息遣いと、コーネリウスの苦悶の声。先程とは違い、レオハルトが押し切り、コーネリウスが後退する。レオハルトは更に距離を取ろうとするコーネリウスに詰め寄る。
一撃の重さではレオハルトが優っていた。そして、一撃の重さに加えて連撃の速度もレオハルトは優れていた。常人では目に留まらない連撃でコーネリウスを追い詰めていく。
しかしコーネリウスも然したるもの。正確にレオハルトの剣戟を捌いていく。だが徐々に、防御が追い付かなくなっていく。先程のレオハルトのイメージの中での戦闘と似ていた。常に一方が先手をとり続け、相手を追い詰めていく。一方は反撃の隙を模索するも、その内に追い詰められていく。
短い攻防だった。二人が戦闘を初めて五分ほど。コーネリウスの剣が、手から弾き飛ばされる。宙を舞った剣は音を立てながら石畳に落ち、レオハルトはコーネリウスの首元に刃の切っ先を突きつける。
「…強くなったな。レオハルト」
「いえ。父上がもう少し若ければ解りませんでした」
「御世辞はいいさ。本当に、お前に越えられてしまったな」
弾き飛ばされた剣を拾い、鞘に収めるコーネリウス。レオハルトもまた、剣を鞘に収めながらその姿を眺めていた。
実際、コーネリウスが全盛期だったなら、勝負は解らなかっただろう。文官としての才能を買われて宰相となったコーネリウスだが、学院時代は現在軍のトップであるハルシュタイン卿としのぎを削っていたという。
今でこそ、年齢による衰えや仕事過多による鍛練不足で当時ほどの力はないが、もしその頃の勘を取り戻せばどうなるか。
「すまないな。少し、お前と剣を交えてみたくなってな」
「いえ」
レオハルトの肩に手を乗せながら言うコーネリウスの表情は、どこかスッキリしたような、憑き物がとれたような顔をしていた。
「…最近、忙しかったようですね」
「…本当にすまん。私のストレス解消に付き合わせてしまった」
罰が悪そうに苦笑いしながら、コーネリウスはレオハルトに謝罪する。レオハルトもまた、コーネリウスの様子に苦笑を浮かべて返す。
今でも相当忙しそうだが、これから更に忙しくなるのだろう。明日から、学院生の合宿が始まるらしい。その護衛に着く兵達の配備と街を出た兵達の穴を埋めるための采配。そして、今日レオハルトがコーネリウスに伝えた情報の吟味と、少し考えるだけで忙しくなる要素がてんこ盛りだ。少し帰るタイミングを間違えたかもしれないとすら思えてしまう。
「私は戻るが、お前は?」
「もう少し外にいるつもりです」
「そうか。もう夜冷え込む時期だから、早めに屋敷に戻るんだぞ」
コーネリウスはそう言い残し、レオハルトに背を向けて屋敷へと戻っていった。本当に、息子と剣を交えるためだけに来たらしい。あまりの戦闘狂ぶりに苦笑が込み上げてくる。昔はこうじゃなかったはずなのだが…いや、表に見せなかっただけで本来の父はああなのだろうか?
「…星が綺麗だ」
考えるのを止める。父がバトルジャンキーだったのかもしれないという可能性から目を背け、綺麗な星空を見上げる。
こうしてじっくり星空を見上げるようになったのは、国を出てからだった。国を出る前は色々と余裕がなく、こうした身近な景色を楽しむ事すら出来ないでいた。だから、旅に出てから最初の夜、見上げるだけでこんな綺麗なものが見えるのだと知って驚いた。そして、こんな事にすら気付かなかった自身の視野の狭さにも。
何処に居ても、この景色だけは変わらない。
レオハルトは冷たい風に身を震わせ、冷え込んだ夜の寒さを自覚するまで、噴水の石垣に背を預けながら夜空を見上げ続けたのだった。