愛情と憤怒
リトンベルク家次期当主、セレーナ・フォン・リトンベルクには、一人の兄がいる。いや、いたというのが正確か。名前はレオハルト。何をしてもレオハルトには勝てず、まだセレーナは小さいのだから勝てなくて当たり前なのだと何度も言われたが、負けず嫌いなセレーナにとって兄はライバルであり、同時に憧れでもあった。今でこそセレーナが次期当主だと指名されてはいるが、かつては兄が次期当主と指名されていた。
兄妹仲は良好であったとセレーナは自負している。全く喧嘩などをしなかった訳ではないが、険悪ではなかったと断言できる。
しかしある日、状況は一変した。それは兄の魔法属性を検査する日。率直に言えば、兄の適正属性が無かったのだ。
別に珍しい訳ではない。それが多い訳でもないが、世界には魔力を持ちつつ適正属性を持たない人は珍しくないと言えるほどにはいる。問題は、リトンベルク家の次期当主に適正属性がないという事だった。特に、属性検査の前に行った魔力量の検査で、建国史上最も多くの魔力量が計測された事もあり、属性検査の結果は大いに落胆を呼んだという。周囲の兄に対する評価と態度はガラッと変わり、変わらなかったのはセレーナ達家族と兄と親しかった幼馴染み三人。そして三人の両親だけだった。
それから、明るかった兄の性格は鳴りを潜め、以前は活発に行動していたのが部屋に引き籠りがちになり、兄妹のやり取りは一気に減った。
必ず二人で行ってきた剣術の稽古も兄は休むようになり、何時しか兄と顔を合わせるのは家族全員が集まる食事の時だけとなってしまった。
そんな状況でも変わらず時は流れる。そしてセレーナが十歳の時だった。
兄は家を出て、国からも姿を消した。
当初は大騒ぎだった。宰相の息子が姿を消したという報せは貴族の誰もに知れ渡り、一部の国民にまで情報が漏れた程に。
誘拐、暗殺、様々な可能性が考えられた。だが、セレーナが考えていた可能性はそのどれでもなかった。
兄は逃げたのだ。周囲の蔑みから耐えきれず、家を捨て、国を捨て、そして家族を捨てた。父を、母を、自分を、捨てた。全てを放り出して、逃げた。
そうしなくてはならない程、兄は追い込まれていたのだ。全部背負い込んで、一人で悩んで、他人に悩みを打ち明けず、兄は消えた。
兄にとって、家族とは何だったのだろうか。友人とは何だったんだろうか。そんなにも、自分達が信用できなかったのだろうか。
まるで裏切られたような気持ちだった。兄が家を出た事じゃない。そこまで追い込まれていたのに、自分達に何も話さなかった事がだ。兄は何も話さないまま、家族を、友を捨てたのだ。
兄の幼馴染みであり、今は学院の先輩であるリオノーラは、兄の失踪に何かあると睨んでいるらしいが、セレーナにとって理由などはどうでもよかった。周囲の蔑みに耐え切れなかったというセレーナが考えている理由が間違っていたとしても構わない。セレーナにとっては、兄が何も言わずに立ち去ったという事実が最も重要で、許せない事だったのだ。
「…何だろ。騒がしいな」
読んでいた本を閉じ、部屋の扉に目を向ける。扉の向こうから、慌ただしく廊下を走る大勢の足音と、使用人達のざわめき。こんな風に屋敷が騒がしくなるのはいつ以来だろうか。
「あぁ、そうだ…。兄さんがいなくなった日だ」
そして、思い出す。兄がいなくなった日は、こうして屋敷中が騒がしくなり、使用人達は立ち止まる事なく屋敷を探し回った。
ーーーーーーあぁ、嫌な事を思い出した。
頭を振って嫌な記憶を振り払う。いつまで立っても兄の姿が見えず、もしかしたら…という不安。溢れそうになる涙。これまで生きてきた十四年の人生の中で最悪の日だと断言できる。
「お嬢様!」
「騒がしいですよ、シャルロット。何ですか、一体」
突然鳴り響く大きな扉の開閉音。驚いて振り替えると、そこに立っているのは息を切らした若い女性。真っ黒のワンピースは膝下までスカート丈は伸び、ワンピースの上には白いエプロン。頭にはカチューシャというこの屋敷で働くメイド全員に与えられる制服を着たこの女性はセレーナのお付きのメイド、シャルロット。
シャルロットは切らした呼吸を整えてから、大きく声を張り上げて言った。
「レオハルト様が…、レオハルト様が御帰宅されたと!」
「っ!」
シャルロットは満面の笑みで告げ、セレーナは息を呑む。
「兄さんが…帰ってきた…?」
呆然と呟く。
頭が真っ白になり、硬直して数秒。我に返ってから、思考する暇もなく体は動いていた。
「どこ!?」
「え、えぇ…?」
「兄さんは今どこ!どこにいるの!?」
「だ、旦那様の執務室に…、あっ、御嬢様!?」
シャルロットが言い切る前にセレーナは走り出していた。部屋を飛び出て、廊下にいる使用人達をどかし、執務室へと急ぐ。
そこに今、兄がいる。四年の間、姿を眩ませていた、もしかしたら何処かで死んでいるのではないかと、そう思っていた。
兄が、帰ってきた。
大きな両扉の前で立ち止まり、乱れた呼吸を整える。
「はぁ…ふぅ~…」
胸に手を当てて、深呼吸をしてから扉に手をつける。ゆっくりと手に力を込めて、扉を開く。扉の奥に見えるのは、殺風景な一室。部屋にあるのはたくさんの資料が収納された棚と、窓の傍に置かれた木造の机と椅子。の、はずだった。
部屋の中央には四人の人間が立っていた。その内の二人はセレーナの両親であるコーネリウスとマリアベル。残る二人の内の一人は、セレーナの憧れであるリオノーラ。そして、もう一人は部屋に入ってきたセレーナを見て目を大きく見開いた一人の青年。
「にい…さん…」
コーネリウスと同じ黒みがかったブロンドの髪と真っ黒な瞳。黒いローブに全身を包むという、この場にいる他の四人と一緒にいるには釣り合わない格好。だがその顔を、瞳を、見間違えるはずはない。
「セレーナ…」
一瞬で、全身が発火したと錯覚するほど熱かった。名前を呼ばれた直後、セレーナは硬直していた足を動かし、青年に歩み寄る。そして青年の目の前で立ち止まると、セレーナは力一杯利き腕を振り抜いた。
パァン、と高い音が鳴り響く。静かな部屋に自棄に響き渡った。青年を叩いた掌がじんじんと痛みを発する。
青年は叩かれた頬を押さえながら、驚いたようにセレーナを見る。
「よくもまあ、帰ってこれたね。どの面下げて…」
「…」
振り抜いた腕を引き戻し、敵意に満ちた瞳で青年を睨み付ける。青年は僅かな間、セレーナと目を合わせていたがすぐに視線を逸らす。その姿が、セレーナの怒りを更に激しくさせた。
もう一発ビンタを喰らわせてやろうと、腕を振り上げたその時だった。
「セレーナ。止めなさい」
「っ、お父様!でも…!」
コーネリウスの低い声がした瞬間、セレーナの動きが止まる。すぐに振り向き食って掛かるも、何も言わずに頭を振る父の姿に引き下がるしかない。
「…」
ならばとセレーナは母へと視線を移すが、母は視線を伏せる。
母の目の回りは真っ赤になっていた。帰ってきた兄を見て怒りのあまり涙を流したーーーーーー訳ではあるまい。勝手に家を出た兄を、毎日毎日心配し続けてきた母を見てきたのだ。兄を抱き締め、涙を流す母の姿が目に浮かぶ。
「もう、いいです」
「あ…、セレーナ!」
踵を返し、部屋を出る。背後からセレーナを呼ぶ母の声と、セレーナを追う足音がするが、無視して歩みを進める、どこへ向かうかなど考えていない。ただ、執務室から、兄から離れたかった。
アルフレッドとリオノーラと共に屋敷に入ったレオハルトは、真っ赤なカーペットが敷かれた廊下を歩き、父がいるという執務室へと向かっていた。
見事な外観とは逆に、内部はあまり装飾はされておらずシンプルな作りになっている。レオハルトの父、コーネリウスは大貴族にも関わらず、宰相という役職にいるせいなのか、浪費や豪遊というものが好きじゃない。そのため、他の貴族の屋敷よりも質素な印象を受ける。
だが、この家がレオハルトは好きだった。派手に飾った屋敷をいくつも見てきたが、地味と言っていいこの家が一番好きだった。
レオハルト達三人は、屋敷三階の廊下の奥にある両開きの扉の前に辿り着く。これが父の執務室へ繋がる扉だ。扉の前で立ち止まり、アルフレッドがレオハルトとリオノーラの前で扉をノックする。
「旦那様、アルフレッドです。お客様をお連れしました」
「あぁ、入れ」
部屋の中から聞こえてくる低い男の声。ゆっくりと扉を開いて半身になるアルフレッドの横から見えるは部屋の中。奥の窓の手前には大きめの木造の机と椅子。そして椅子に座る、レオハルトと同じ黒みがかったブロンドの髪の男。
「どうしたアルフレッド。今日は来客の予定はなかったはず…」
男の台詞が止まる。机の上の紙に下ろしていた視線を上げ、アルフレッドの隣に立つレオハルトを見て、表情を固まらせた。
レオハルトもまた、その場から動けないでいた。何をすれば良いのか解らないのだ。父が何か言うのを待てば良いのか、それとも自分から何か言うべきなのか。何か言うべきなら、何と言えば良いのか。
「ってぇ…!」
対面したまま何もできずにいる二人。すると高い音と共にレオハルトの背中に鋭い痛みが奔る。戸惑いながら振り替えると、呆れたように苦笑しながらリオノーラがレオハルトの顔を見上げていた。
「挨拶くらいしなさいよ」
くすりと笑みと共に呟かれた声、同時にリオノーラに背中を押されるレオハルト。前に押し出され一歩、父へと近付く。
座ったままレオハルトを見上げる父。レオハルトは意を決したように息を吐いてから真っ直ぐ父の瞳を見据えて、口を開いた。
「ただいまもでょ…戻りました」
たった一言、それも途中で噛んで言葉を詰まらせるというレオハルトのあまりの緊張ぶりに、背後から小さく噴き出す声が聞こえた。今すぐにでも背後の女をぶん殴ってやりたいところだがここは我慢。
「ぶふぉっ」
「…」
しようとしたのだが、今度は前から、それも先程後ろから聞こえてきた声よりも大きな噴き出す声がした。ついつい半目で、目の前で俯いて肩を震わせる父を睨む。
「くくっ、ぶくくく…」
「…父上」
「あ、あぁ…。ひ、久し振りだなレオハルト。息災そうで何よりだ」
台無しだ。声には出さず、内心でそう一言呟いた。レオハルトこそが空気をぶち壊した張本人なのだが、未だに震えている父を見てると、ここまで笑うほどか?と、疑問に思ってしまうのも仕方のない事ではないだろうか。
「む?」
「?」
笑いがようやく収まり、父が椅子から立ち上がった時だった。扉の向こうから慌ただしい足音が聞こえてくる。
ふと気付くと、アルフレッドの姿がない。彼はどこへ、と考えた瞬間、バァン!と勢いよく扉が開かれる。
「はぁ…はぁ…、り、リオノーラさん…?レオが…レオが帰ってきたって…!」
「マリアベル様、落ち着いてください。ほら、あそこにレオは居ますよ」
入ってきたのは紺色のドレスを着た貴婦人。息を切らせ、それでも構わずすぐ傍に立っていたリオノーラに縋るように、両肩に手を乗せて顔を寄せる。
リオノーラは慌てる事なく貴婦人のここへ来た目的を察し、優しく声を掛けながらレオハルトへと視線を向ける。貴婦人も、リオノーラの視線を追って、その先にいるレオハルトを目にした。
「れ、レオ…?」
「母上…」
声を震わせながら、レオハルトを呼ぶ女性。知っている。忘れるはずもない。父と同じく、この人もまた、レオハルトにとって掛け替えのない家族なのだから。
「あぁ…レオ…。帰ってきて、くれたのですね…。レオ…!」
「はい、母上。ただいま戻りました」
今度は噛まずに帰りの挨拶を言えたレオハルトを、母、マリアベルは腕を広げて抱き締める。
「レオ!レオ!ずっと…、心配していました…!」
「…申し訳ありませんでした、母上」
声を震わせるマリアベルの顔は見えない。それでも、マリアベルが涙を流している事だけはハッキリと解る。レオハルトが国を出てから四年、ずっとマリアベルは心を痛めていたのだ。
「謝らなければならないのは私達の方です…。私達は、私達が背負うべきものを貴方に押し付けて…」
「母上、それ以上は言わないでください。俺は気にしていませんから」
視界の端で、コーネリウスが一歩、こちらに足を進めたのが見えた。マリアベルがレオハルトとの再会をこれ以上なく喜んでいる。その事はレオハルトにとっても嬉しい事だ。ただそのせいだろうか、マリアベルの口が少々柔らかくなっている。
今の彼女には、マリアベルが言ったのは以前レオハルトに浴びせられた罵倒の事だと聞こえるだろう。しかし、もしかしたら引っ掛かりは覚えたかもしれない。
「っ…、ごめんなさい…」
「ですから、謝らないでください母上。…そういえば、セレーナは元気ですか?もう学院に入学したでしょう?」
今この場にいるのが自分とレオハルト、コーネリウスの三人だけではない事を思い出し、マリアベルはレオハルトから体を離して謝罪する。そう、これは決して広めてはならない話。特に、レオハルトにとっては、リオノーラにだけは知られたくないものなのだから。
レオハルトはここで話題を変える。明らかに不自然な話題転換だが、彼女には暗い空気をレオハルトが払拭させようとしたように見える筈だ。それに、妹であるセレーナの様子を知りたいのは紛れもない本音だ。
レオハルトに問われたマリアベルは、目尻に溜まった涙を指で拭ってから、問いに答えるべく口を開いた。
扉が開く音がした。
「にい…さん」
部屋の前に立っているのは一人の少女。マリアベルと良く似た美しく、それでいて年相応の可愛らしさが残った少女。
「セレーナ…」
彼女の名はセレーナ。コーネリウスとマリアベルの第二子であり、レオハルトの妹。レオハルトが捨てたリトンベルク家の相続権を受け継いだ少女だ。
レオハルトの姿を見て硬直していたセレーナだったが、レオハルトの口から漏れた自信の名を耳にした瞬間、目を鋭く、怒りを露にさせた。
セレーナは大股でレオハルトに歩み寄ると、何の容赦もなく腕を振り切り、平手を喰らわせる。
「よくもまあ、帰ってこれたね。どの面下げて…」
「…」
昔によく聞いた、明るく可愛らしい声とは似ても似つかない、冷たく凍えるような声でセレーナはレオハルトを責め立てる。それに対してレオハルトは何も言い返す事なく、セレーナの視線から逃げるように逸らす。この行為が更にセレーナの怒りを激しくさせる。
目の前でセレーナが再び腕を振り上げる。
何だっていい。セレーナにはその権利がある。そして、レオハルトにはやり返す事は出来ない。ただ、それだけ。
「セレーナ。止めなさい」
「っ、お父様!でも…!」
再び来るだろう痛みを待っていたレオハルトだが、その前にコーネリウスが制止の声をあげた。セレーナは動きを止め、腕を下ろすが納得できないようにコーネリウスに食い下がる。セレーナの視線を受けたコーネリウスはただ、何も言わずに頭を振るだけ。
セレーナは次にマリアベルへと視線を向ける。マリアベルもまた何も言わず、セレーナに悲しげな視線を送るだけだった。
「もう、いいです」
「あ…、セレーナ!」
失望の視線を残し、セレーナは踵を返して部屋を出ていく。その後を、マリアベルが追っていった。
「…レオ」
「リオ、お前も行ってやれ」
「でも…」
「良いから」
妹の怒りは当然だ。むしろ、あっさりと帰ってきたレオハルトを受け入れたリオノーラの方が優しすぎるのだ。自分は彼らに何も言わず、黙って国を出たというのに。それなのに、正しい反応をしているはずのセレーナがまるで異常という扱いを受けたのだ。
「…わかった」
一言そう言い残し、リオノーラもまた部屋から立ち去る。扉が閉まり、足音が遠ざかっていくのを聞きながら、レオハルトは自分ともう一人、部屋に残ったコーネリウスと向き直る。
「よく、帰ってきたな」
「…はい」
「世界を回ってどうだった。色んな物を見られたか?」
「はい。…色んな物を、見てきました」
「…そうか」
穏やかな空気が一変する。先程までとは打って変わり、部屋中を緊張感が満たす。
父と子の時間は一旦終わる。ここからは、レオハルトが国を出た本来の目的の話を始めなければならない。
「アルフレッド」
「ここに」
先程まで姿が見えなかったアルフレッドが、突然コーネリウスのすぐ隣に現れる。だというのにコーネリウスは勿論、レオハルトも全く驚きを見せない。
「部屋に誰も近づけるな。結界は私が張る」
「承知致しました」
アルフレッドは短くコーネリウスに返事を返すと、すぐに部屋から出ていく。そしてアルフレッドが部屋を去った直後、コーネリウスは目を瞑り、意識を集中させた後、すぐに目を開けると手を頭上に掲げて大きく円形に振るう。
魔力の気配が周囲から感じられる。コーネリウスの結界が張られたようだ。
決壊には様々な種類があり、音を遮断するものや魔力を遮断するもの、第三者を拒むものとこの三つが代表的な例だ。今回コーネリウスが使ったのは恐らく音声遮断の結界、もしかしたら念のため、第三者を拒む効果も加えているかもしれない。
「さて、レオハルト。帰ってきてすぐ、疲れているところ悪いが…話してもらうぞ」
コーネリウスは背を向け、執務席へ向かい、椅子を引いて腰を下ろす。机に両肘を突き、組んだ両指で口元を隠す。
「お前が旅に出て、何を見てきたか…。その成果を」