貴族街へ
瞼越しに眩しい光を感じて目を開ける。途端、窓から射し込む日差しが目に入って思わず腕で目を覆う。覚めたばかりの重い瞼が、まだ閉じていたいと悲鳴をあげるが構わずレオハルトは上半身を起こして大きく伸びをする。
はぁー、と大きく息を吐きながら脱力した時には、ある程度眠気は収まり、寝起き特有のいつも以上に眩しく感じる日差しもいつも通りに見れる様になった。レオハルトは布団から出て床へと降りると、窓から王都の街並みを見下ろす。
まだ朝早いからか、街並みをゆく人はそう多くない。昨日、暗くなった頃に王都に着き、事情聴取を終えてから御者の男と宿へ向かった時の往来と比べてまだ賑わいは激しくなかった。
「…帰ってきたんだな。ここに」
四年前と、街の姿は殆ど変わっていなかった。まあ、王都に住んでた当時はこのエリアにはあまり足を踏み入れた事がなかったため、変化に気付かなかったというのもあり得るが。
それでも、懐かしいという郷愁の気持ちは断じて嘘ではないと言える。
さて、この心地よい感情にもう少し浸っていたいが、チェックアウトの時間もあるためゆっくりはしていられない。早いとこ朝食を済ませ、身支度をして宿を出なければ。
レオハルトは宿の主人が貸してくれた部屋着から、旅装束へと着替える。ラフな部屋着のまま、他の宿泊客達の前に出る勇気はレオハルトにはない。昨日身に着けていたローブはいったん部屋に置いたまま、剣が収まった鞘を肩から掛けて部屋を出る。
扉に鍵を掛け、ちゃんと鍵が掛かった事を確認してから木造の廊下を歩き、階段を降りて一階へと降りる。
他の宿泊客もまた、レオハルトと同じ様に朝食をとるために食堂へと向かっている。もしやと思い、客達の集団に視線を向けて御者の男の姿を探すが、いない。まだ起きていないのか、それとも既に食堂に来ているか。恐らく前者だろう。昨日は山賊に襲われ、結果無傷で助かったものの、その一件でかなり疲労が溜まっているだろう。
御者の男がいないとわかったレオハルトは、食堂へ入ると壁際にある二人用のテーブルを見つけ、片方の椅子を引いて腰を下ろす。そしてさあ何を食べようかとテーブルに置かれたメニュー表に目を向ける。
「…よし。すみません」
「はーい!少々お待ちください!」
手を上げながら、近くのテーブルに着いている四人組の客の注文を聞いていた店員の少女に声を掛ける。少女は一度レオハルトに視線を向け、そう言ってから四人組の注文に再び耳を傾ける。そして注文を聞き終え、厨房の方へと行き、シェフの男に四人組の注文をメモしたと思われる紙を一枚渡してから、笑顔でレオハルトの座る席の方へやって来た。
「お待たせしました!ご注文は如何致しますか?」
ハキハキと明るい声で問いかける少女に、レオハルトはメニュー表の文字列を指差しながら口を開く。
「この、日替わり朝定食を」
「はい!日替わり朝定食をお一つですね?他にご注文はありませんか?」
「いえ、以上で」
「かしこまりました!」
レオハルトの注文を聞き終えた少女はパタパタと先程と同じ様に厨房へと向かい、シェフの男に注文をメモした紙を手渡す。そして、また他の客に呼ばれ、注文をとりに行く。その際、ずっと笑顔を絶やさない。
ふと周りを見渡すと、食堂にいる男性客の殆どが食堂内を回る少女を目で追っていた。少女に注文を伝える男性客がやけに緩んだ笑顔をしている。なるほど、あの少女は所謂この宿の看板娘といったところか。
男性だけじゃなく、女性も少女に注文をする際に微笑みを浮かべている所を見ると、男女問わずあの少女の評判は良いらしい。…まあ、実際のところそれが全て本当なのかは解らないが。これはただの予想だし、実は裏ではーーーーーーなんて事があったりするのかもしれないが。
いや、もう止めておこう。怖くなってきた。実際にそういう場面を見た事があるから尚更。きっとこの娘は大丈夫だ。皆大好き看板娘だ。
根拠はないが。
「お待たせしました!日替わり朝定食でございます!ご注文された品物は以上でございますか?」
お盆に載った料理をテーブルに置いてから、レオハルトの注文はこれだけかを問いかける。レオハルトが問いに頷いて答えたのを見てから、最後に笑顔を残して少女は去っていった。
ーーーーーー狙ってやってる様に見えないのが凄いよなぁ…。
これまで旅の途中、何度もここの様な宿に、店に行った。その中で何人も看板娘として働く少女を見てきた。だがここまで純粋に笑顔を浮かべる看板娘を見たのは初めてだった。勿論、笑顔を絶やさない看板娘はいたにはいたのだが、大抵また客として来てほしいという裏の顔が見え隠れしていた。別にそこに不快感を抱いたりはしない。その宿で、店で働く一人の従業員として当然の感情だ。
だが、この少女にはそれがない。いや、宿が繁盛してほしいと思ってはいるんだろうが、その欲望が全く少女から感じられない。きっと、それは客にも伝わっているんだろう。
「いただきます」
両手を合わせ、小声で呟く。いつまでもここで座ったままでいられない。まだ少ないが、これから食堂は混んでくる。その前に食事を済ませて席を空けなければ。
両手を離し、箸と味噌汁が入ったお椀をそれぞれの手に取る。
お椀に口を付け、少量味噌汁を入れる。アッサリとした優しい味が口の中に広がっていく。旨い。
次に、焼き魚の切り身に箸を付ける。旨い。
ホカホカの白米も旨い。ただ盛り付けられただけのサラダも旨い。
何もかもが旨すぎる。さすが定食。
ただ、日替わりという事は明日は違ったメニューが出てくるのだろうか。…ここは宿泊限定なのだろうか、それとも食事だけでも許してもらえるのだろうか。
そんな事を考えてる討ちにあっという間に食器は空になる。食べ終えてから、空のコップにそれぞれのテーブルに置かれたポットで水を注ぐ。ぐっ、と一口で水を飲み干してから席を立って食器を載せたお盆を持って厨房の方へと向かう。カウンターに並んだ、同じ空になった食器を載せたお盆の隣にレオハルトのお盆を置き、食堂を出る。
「ありがとうございました~!」
食堂を直前、背後から少女の声。少女の最後まで客への献身な姿勢に、少し気を良くしながらレオハルトは自室へと戻るのだった。
サヴェルトス王国
それがこの国の名称だ。現在残っている四つの国家の内の一つであり、五十年前に終結した戦争から最も早く立ち直った国である。そして、ここ王都は世界で最も人口が多い。だが実際にこの街に住んでいる人だけでなく、街の外から旅行や仕事等で来ている人も多くおり、朝から商店通りはかなりの賑わいを見せていた。
食堂を出て自室へと戻ったレオハルトは、早々に荷造りを終えて宿をチェックアウトした。その途中で、食堂へ向かうあの御者の男とバッタリ会い、最後に挨拶を交わしてから宿を出た。あと勿論、あの食堂は宿泊客でなくとも利用できるのかの確認も忘れていない。答は、利用できるだった。レオハルトは近い内にまた行こうと心に決めていた。
そして、宿を出たレオハルトは大通り沿いを真っ直ぐ北へと向かっていた。この街は明確にそう区切られている訳ではないが、基本五つのエリアに別れている。まず、今レオハルトがいる商店エリアは王都の西側に位置している。ここではその呼び名通り多くの商店が点在し、その店主やその家族が多く住んでいる。
その反対側には、国立魔法学院が建てられていて、そこでは約千人の生徒と教職員がいる。更に学院だけではなく、王立図書館や多くの魔法の研究施設もそのエリアにはあり、東側はそういった学者や生徒達が多くいるエリアになっている。
そして、残るは三つのエリアだが、単刀直入に言おう。
中央に城、北に貴族街、南に貧民街だ。
王都の中央に城が聳えているのはそのまま。北には貴族街だが、何もこの国の貴族全員がそこに住んでいる訳ではない。王都以外の場所で領地を持つ貴族もいれば、王都内で貴族街以外の場所で居を構えている者もいる。
南にある貧民街は、今となってはもうその名で呼ぶ者は殆どいない。かつては戦争によって難民となっていた人達が多く住んでいたエリアだったが、今ではその影はあまり見られない。まだ全ての難民が救われた訳ではないが、戦争終結当時と比べれば改善されたといっていいだろう。今となっては、南のエリアを貧民街と呼ぶ者はかつての貴族主義の名残を強く受け、今でもそうあるべきだと盲信する一部の貴族だけとなっている。
レオハルトが向かっているのは北、つまり貴族街があるエリアである。昔はよく通っていた、変わらない路。どこに行っても、四年ぶりに見る景色がレオハルトの視界一杯に広がる。王都周辺の草原も、街並みも変わっていない。レオハルトが知っている景色。
足を進めるごとに、周りの人達の外観が変わっていく。質素な服装の人が多かったのが、貴族街へと近づくごとに豪華な刺繍が入った服装をした人がたまに目に入る。
「…来ちまった」
そして今、レオハルトが立っているのは貴族街の境界線ギリギリの場所。特にここからが貴族街、という風に定められてはいないが、この先から明らかに先程まで歩いた通りとは雰囲気が違う。
今のレオハルトの格好は旅装束の上に黒いローブを纏った、昨日と同じもの。こんな格好で貴族街を歩けば間違いなく周りから浮く。奇異の視線に晒されること請け合いだろう。
それでも、人には行かねばならない時があるのだ。
「ふぅーーーーーー」
意を決する。息を吐き、前を見据えてレオハルトは貴族街へと足を踏み入れる。
周囲には華やかな格好をした男女達。その中で歩く、黒づくめの男。道を歩く人の殆どが、レオハルトとすれ違い様に好奇の視線を向ける。その度に、レオハルトの神経はガリガリと削られていく。
記憶を遡り、道順を思い出しながら貴族街の奥へと更に進んでいく。
あぁ、もう走ってとっとと行ってしまおうか。いやでもただでさえ怪しい格好なのにその上走り出したらもっと怪しまれそうな気がする。
「おやぁ?随分とみすぼらしい格好をした平民がいるな。ここは君のような平民が来る場所じゃないんだよ」
「?」
どうしようと頭を悩ませるレオハルトの背後から蔑みの籠った声が耳朶をうった。振り返って見ると、そこにはニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべた三者三様の体型をした男達が。
一人は上から下まででっぷりとした体格をしたレオハルトよりも背が小さい男。一人は逆にかなり痩せた、頼りなさそうな体格をしたレオハルトよりも背が高い男。そしてその二人に挟まれて立つ男は、レオハルトと同じ様な体格をした銀髪の男。
こういう輩は何度も見てきた。貴族が絶対と、高貴な存在と考え、貴族でない者全てを見下す。真ん中にいる男がこの三人の中でリーダー格なのだろう。他の二人はただの取り巻き。典型的な貴族主義の連中である。
無視して行っても良いが、恐らく放してはくれない。強引に振り切れば後が面倒臭い。今の自分はただの怪しげな格好をした旅人なのだから。
ーーーーーー一旦商店街に戻って出直すか?
それが一番無難だろう。後はどうやってこの三人の気分を害さずここから離れるかだがーーーーーー。
「あなた達、また騒ぎを起こしているの?」
「っ…!」
心臓が高鳴った。
背後からこつ、こつ、と靴の音が近付いてくる。
目の前の三人がレオハルトではなく、その背後を見て、目を見開いている。
『また明日ね!レオ!』
脳裏で、屈託のない可憐な笑顔が浮かぶ。真っ赤な髪を揺らし、駆ける少女の姿が過る。
「あなた、大丈…ぶ…」
「…」
レオハルトの隣で立ち止まり、顔を覗き込んできた少女は、レオハルトの顔を見て表情を固まらせた。
レオハルトは何も言えない。あまりに突然の、大切な思い出との再会。
レオハルトと、真っ赤な髪の美しい少女は、見つめ合ったまま動けないでいた。