賭け事から描き事へ
行者・玄黄
行者・玄黄が神社の縁の下で野宿をしていた夜、誰かがお百度を踏む音で目が覚めた。お百度は姿を見られても、声を出しても効き目がなくなると言われる。玄黄は本人に気づかれないようにじっとしていた。月が出ていた夜だったため、遠目ながらも顔を見ることができた。それは年齢五十歳くらいの女性だった。ご亭主かお子さんに何かあるのだろうと玄黄は想像した。
翌日、玄黄は托鉢をして近郷農家や宿場の店を回っていた。それが済んで町人の暮らす町家を回っていると、昨夜の女性を見つけた。夜のように暗い顔をしていた。玄黄はにこやかな顔をしながら、それとなく尋ねてみた。
「もし。お悩みのようですな」
「気を揉んでおりますのは娘の縁談のことでございます」
「ご結婚はめでたいことですが、何か支障でも」
「はい、実は……」
その女性によれば、二十歳を過ぎても嫁に行こうとしなかった娘が、ようやく結婚することになった。相手は幼馴染で、この宿場の米問屋の手代である。それも祝言を挙げる前に子供ができてしまったようだが、それはこの際問題ではない。今まで真面目だった手代の様子が変わってしまったことなのだ。近頃手を出し始めた博打のことが頭にあるらしく、仕事はしているのだが常時上の空で、これまでになかった勘定違いがあったり、あらかじめ決めた仕事の段取りがうまくいかなくなっているのだという。しかも薄給の手代のどこに博打資金があるのか怪しいのだという。もし店の金を横領でもしていたらとんでもないことだということもあって、娘の母親は気に病んでいるというのだ。
「若いうちは色々な経験も必要だ。ましてや真面目一本だったお人だ。あっさりと熱が冷めて、再び仕事に打ち込むようになるでしょう」と玄黄は慰めるが、我ながら嘘っぱちを言っているのが情けなかった。身を持ち崩しかけるほど博打にはまったら、自らの力でやめることなどありえない。博打で身上を潰した例は数え切れないほど聞いているのだった。
「そう言っていただいても、せっかく奉公させていただいているのに、旦那様や若い衆にご迷惑をおかけしてしまっては申し訳が立たなくて」
玄黄は気の毒になった。
「まだ結婚していないのに、未来の婿様のことを我が事のように心配してくださるご母堂がありながら、ご自身は何をしておるのやら」
そう言いながらも、玄黄もいつのまにか他人のことを自分の事のように心配をしているのだった。
「まあ、できてしまったもの、失ってしまったものはどうにもならないが、今後どうしていくのかについてなら、お力になれるかもしれません」とその女性を励ました。
「行者様、申し訳ございません」と頭を下げるだけでなく、その場で泣き出してしまう母親であった。
「困ったものだな、その手代……」
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その日の夕方、玄黄は宿場の顔役の屋敷に顔を出した。
「大間宿へは本日入りました。足立屋様のご尊顔を拝見するのは二年ぶりでございます」
「玄黄殿、今日も堅苦しいことは抜きにして、一杯いいのだろう」
「相変わらずのナマグサ坊主でございます。ご相伴にあずかります」と言うと、二人とも嬉しそうであった。
玄黄は諸国を修行で回る行者であった。各地で聞いた話をその土地の人に教える。一方でその土地の人からそこの事情について聞くのであった。玄黄のような旅の者は情報交換のために重宝がられた。
玄黄は足立屋又兵衛の体を揉みながら、近頃人気になっている江戸・深川の島に立つ浮世絵の市について話をした。
「場所は霊岸島の先の大催島といいます」
「『だいさいとう』というのか」
「霊岸島は夜を徹して買い物客が待ち構えております。明け六つを告げる霊巌寺の鐘が響くと大勢の客を乗せた大船が出ます。あまりに人気に霊岸島だけではさばき切れないため、品川と芝浦からも船が出ます。品川は品川寺の鐘、芝浦は増上寺の鐘が鳴りますが、過去には鐘楼守(しょうろう/しゅろう もり)を脅して早く鐘を鳴らすように急かす輩もいたと聞きます」
「これは物騒な」
「個人が小舟で行くこともあって、日本橋、本所、浅草どころか、千住や川口とか、さらに川越とかさらに熊谷からとか、さらにさらに秩父から一丁艪でやって来るツワモノもあるそうです」
「秩父は荒川の源流に近く、かなりの急流を竿を巧みに操って下るのが土地の名物になのではないか。それを一丁艪で河口の江戸まで来るとか……絶対にありえない」
「霊岸島から船で渡るよりも泳いだ方が速いとばかりに褌一丁で海に飛び込むのもおります」
「遠方から小舟で来るのはだいぶアレだが、なぜ急ぐのじゃ」
「到着が遅いとお目当の絵が売り切れてしまうのです」
「大量生産可能な印刷物なのだから、多めに用意してあるのではないのか」
「絵師たちが締め切りギリギリまで技を振るっていて、版下をいちどきに刷り師に渡すため刷り切れないのと、自ら刷っている絵師たちもつい印刷が遅れてしまい、その市が立つ日までに準備が整わず、並ぶ数が少ないことが多いのです」
「ほう。それほど職人たちは念入りなのか。よほど質の高い絵があるのだろう」
「はい。しかもこの市は作り手と売り手が同じなのが特色で、絵師と購入者が直接話ができるのが人気の秘密だと言います。」
「近頃では、農産物にどこそこの誰兵衛が栽培したと所在と名前をつけるとよく売れるらしいな」
「その市では絵師も人形劇の声役者も人気ゆえの商売になっていて、あたかも歌舞伎役者や相撲取と同じような扱いになっているようです。特に神絵師と呼ばれるほどになると、ほとんど崇拝の対象でもあります」
「そういえば行者も人気ではないか。お主がそうじゃ」
「恐れ入ります。が、それはそれとしまして、大催島に着船すると下船した者たちは一斉に市に向かって走り出して市の前に行列を作ります。半刻から一刻くらい待つのは当たり前で、お目当てのものを入手したら、次の行列に並んで半刻から一刻待ってまた買うといった具合でおります。徹夜の待機、乗船または泳ぎ、そして駆け足、さらに市の前の行列と続きます。こう考えますと、お目当の絵や本を手に入れるのはなかなか難しいと言います」
「凄まじい執念じゃな。それは定期的に市が立つのか」
「一年で一番暑い盂蘭盆会の頃と寒い冬至の前後に行われ、今や深川の名物になっているようです」
「新しい文化は江戸から始まるか」
「絵を売るだけではなく、有名な人形劇の扮装をしたり、南蛮人の装束を身にまとって見せびらかす者もあるそうです」
「わしの好きな浄瑠璃姫の扮装もありそうじゃな(*´Д`)。まあ年に二度の芸の花咲くお祭りか。わしも体がもう少し動ければ見に行きたいところじゃ」
「江戸へ参りましょう。私の施術で今まで通りに遠くまで歩けるようになりますから」
「いやいや、先生。もう年じゃて」
そうは言いながらも、話を聞いている又兵衛は楽しそうであった。そして酔った勢いで、つい言ってはいけないことを言ってしまった。
「まあ、あれだ。きっと新しい画風のが出ているのだろう。わしも昔は、江戸の帰りに四谷の大木戸を出て、内藤新宿の裏長屋で、薄くて透けそうなおなごの本を……」
「いえ、そういうのだけではございませんで……」
その時、障子が開いた。追加のお茶菓子を持って来た奥方様の目が鋭く光った。又兵衛も玄黄もビクッとした。
「お話は聞かせていただきました。江戸ではやりのご本の催し物ですか。旦那様は夜遅くまでだいぶ高尚なお話がはずんで、結構なことですわね」
奥方様は険のある話し方だった。
「いや、それで玄黄殿……な、何の話だったかな」
「米問屋の手代のお話で……、人助けの話でして……」
「稲敷屋の手代が博打にはまっていて、こりゃいかんという……」
奥方様はムッとして座っておられる。又兵衛は額に冷や汗をかいていた。
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足立屋又兵衛から手代の話を受けて、玄黄は件の米問屋に向かった。足立屋のご主人も奥方様も、稲敷屋で最もソロバン上手な手代はというと作造の名を出した。
今年の米は不作であった。常識的に言えば、コメの生産量が少なければ、米価は高いはずだが、この年はどういうわけか安かった。古米、古古米が一気に放出されたせいで米がだぶついて価格が下落したという話もあれば、ここから離れた南の地域では豊作で、その価格に押されてこちらも安くなったともいう噂もあるし、今年の米は長雨と病気のせいで味が悪いとも言われている。どれが真実であり、どれが米価安値の原因だかわからないが、事実問題として新米の価格は安かった。
「足立屋又兵衛殿からこちらを紹介されました行者の玄黄と言います。足立屋殿から米価を占って来いとの言いつけがございまして(笑)、こちらに参った次第でございます」
「これはこれは旅のお方。こちらにおあがりいただいて、ぜひお話を承りたいと存じます」と愛想のいい番頭に奥に通された。
障子が開いた。現れたのはひょうきんで気さくな六十に手が届いた大旦那だった。
「まあまあまあ、お楽になさってください。又さんからお噂を伺っておりますよ。先生には長旅でお疲れところ、手前どものことでご心配をおかけして申し訳ござらぬ。手前はのっぴきならねえ野暮用があって挨拶もそこそこで座を辞させていただきますが、もし気になることがあれば、何なりと番頭に言いつけてくだされ。ではごめん」
宿内の旦那衆の連絡は極めて迅速だった。玄黄はいつもながら驚いた。
部屋に残された番頭が改めて挨拶した。玄黄は稲敷屋で最近上の空で仕事をしているものはいないかと聞くと、確かに手代のなかに最近仕事に身が入っていないのがいるという。名は作造という年は二十五の男で、十数年前に近郷農家から奉公に来たという。作造は幼少の頃から読み書きソロバンがよくできて、手習い塾のある寺周辺では天賦の才能があると言われていたが、両親が相次いで流行病で亡くなる不幸に見舞われ、それを不憫に思った手習い寺の住持が身を預かることになった。その噂が大間宿にも伝わっていて、米問屋の稲敷屋がどうしても欲しいと言い、それが縁で今に至るという。
「そんなにできがいいのですか」
「はい、あまりにできるのでお寺の住持が何とか流の和算の大家に入門させていたことがあったようです。こちらに奉公に来てのことですが、ある時、用があって作造の部屋を訪れると、円の中に三角形をいくつも敷き詰めた絵を描いて、何やら細かな計算をしていたのが印象的でした。他に人物画をときおり描いていたように思いますが、定かなことはわかりません」
なぜ博打に手を出すようになったのかはわからないという。問題を起こせば稲敷屋を追放になって生活できなくなるということは本人もわかっているだろうし、そのため滅多なことで周囲に迷惑をかけるわけにはいかないからだ。ただ、本人自らが博打にはまっていると申したのではなく、作造の様子がおかしいと身内が言い始めたため、作造を調べた結果そうだったというわけだ。あまりに本人が青い顔をしておどおどびくびくして仕事に支障をきたす一歩手前まで来ているため、話すには忍びないと思って、このことをまだ誰も話していないのであった。
「人っていうのは、もろい生き物というか、博打というのは恐ろしいものですね。それほど優秀な頭を持っているのなら、博打は儲けにならないことなどわかりそうなものですが」
「ええ、全くです。ですが、手前どもでは、作造が大きく足を踏み外す前に気づいてくれて、しっかりと身を入れて仕事に励んでくれればいいのですが」
ため息をつく番頭に、玄黄は甘辛く味付けをした貝の干物を振る舞った。
「これは海の方から持って来た貝の干物でございます。店の皆さんで召し上がってください」
店の中の女たちが黄色い声をあげて集まって来た。玄黄はもらいに来るめいめいの顔を見ていた。顔から生気が抜けて青白い手代が来た。これが作造だなとあたりをつけた。
稲敷屋を出た玄黄は、お百度を踏んでいた母と娘のところに寄って改めて作造の話を聞き、夕暮れごろに宿場の中を歩き出し、偶然を装って作造に会った。
「もし、稲敷屋の手代さんですな」
「先ほどは、珍しいものをいただきましてありがとうございます」
「私は旅の行者で玄黄と申します。ところでお名前は」
「作造でございます」
「よろしければ一緒に食事でもいかがでしょう。この宿の名物などを教えてくださりませんか」
そうして二人は料理屋に出かけた。
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大間宿は川の多い地域だった。
「作造さんはいける口ですか」
「はい。飲み始めると止まらなくなるもので」
「そいつは困るな。仕事に差し障っちゃ」
「いえね、毎晩自分のところに帰ると、あれこれとしなくてはならないことがあって、普段は飲まないことにしているのです」
「何をおやりになっているので」
「行燈に向かって物書きをしているだけでして、これといってパッとしたことはやっていません」
「物書きですか。読本とかお書きになっているのですか」
「そっちの書くのではなく、描くの方でして」
「はぁん、言葉で言ったらわかりませんがテキストにするとわかりますね」
「何をおっしゃってるんでしょうか……」
「いえ、こちらのことで。それで何をお描きになっているので」
「算術の研究を続けています」
………………………………
玄黄は作蔵に飯を食わせてから博打の話を切り出した。
「今度お上が胴元になって大規模な博打場を作るらしいですね」
「博打なんてやるもんじゃないですよ。私たち庶民はどうせ負けるに決まっているのですから」
こんなことを言いながら、最初作造は博打に関心がないと言っていた。
「私も全国を歩いていると、驚くべき人に出会います。奥州道で、米相場であてて、ただの米を作る百姓から蔵をこしらえた御仁がいました。面白そうなので、懇意になって相場の秘訣について伺いました。すると……」
「すると……」
「その御仁は笑いながら、うちに毎年ツバメが巣を作る。ある年は二匹、ある年は三匹の雛がかえる。そしてたまたま米相場の話題が出た時、過去の上がり下がりを見てみると、二匹の年は夏から冬にかけて相場が上がり、三匹の年は逆に下がることがわかった。その年は二匹だった。水飲み百姓だから金なんてあるわけないし、相場なんて関わったことがなかった。それでも、なけなしの金をはたいて一枚買って見たところ、翌日から上がり始める。そして霜が降りる頃にはだいぶ儲けてしまったというのだ」
「ツバメの数と相場ですか」
玄黄は我ながら馬鹿馬鹿しい作り話と思ったが、この作造は真剣な顔をして聞いている。これは厄介なことになりそうだった。
「その次の年は四匹だった。これはわからないといって相場を休んだ。その年は下がったそうですが、その翌年は二匹だった。それで春先から上がって来たにも関わらず、強気で買ったのだそうです」
「そしたら上がった」
「その通り。上がりました。そんなことを何年かやって、ついに家に蔵を建ててやめてしまったといいます」
「どうしてですか、続けていればいいのに」
「その御仁は、ツバメが巣を作らなくなってしまったからだと言っていました」
「馬鹿馬鹿しい」と作造は呆れたように言った。
「相場をやめたから手の内を紹介したのでしょうね。もっとも相場のわからない私には縁がありませんが、作造さんは米問屋のかなりできる手代さんのようですね。いかが思われますか」
作造は嬉しそうな顔をした。
「実は私も毎日計算しながら考えているのですが、うまくいきそうな方法を見つけたんですよ」
「相場をおやりになっているのですか」
「ええ、実は店の皆さんにも、結婚予定の向こうの家族にも内緒なのですが、翌日の相場の寄り付きが前の日の終値に比べて上がるか下がるかに賭けるという合百にはまっていまして、これまで負け続けて、ようやく必勝法を編み出したんですよ」
「ええ」
「これがあれば働かなくても済むのです」
「そんな大事なことをここで話していいのですか」
「計算式を知っているのは僕だけですから」
「もしそれができれば、徳川様の武士の世の中をひっくり返しかねませんよ」
「ええ、我ながら怖いと思います。僕はついに米相場のカラクリを見つけてしまったただ一人の人間になってしまったのですから」
作造は握りこぶしを作りながらニヤついている。玄黄の策に作造が乗って来たのはいい。しかし、作造は想像以上に重症だった。
「一口乗ってみませんか、玄黄様」
玄黄は話に乗った。
「作造さんはどうされます」
「僕は『下げ』に賭けます。一緒に賭けましょう」
「私は『上げ』に賭けます。この旅ガラスにとってなけなしの全財産である一両をかけましょう」
「玄黄様、明日は下げですよ。このところ連日上がっていて、今日で八日連続の上げです。明日また上がるとは思えません」
「作造さんの計算の上ではいかがですか」
「余裕で下げです」
「では私は上げにします」
「僕のことが信用できないのですか」
「そうムキにならず、穏やかに。私は偏屈なアマノジャクですから」
「なんだか腹が立ちますね」
「そう仰らずに。この一両を作造さんに預けますから、これを上げに賭けてください。もし当たったら、儲けの二割を進呈しましょう」
「当たるわけないだろ」
「世の中は売る人がいれば買う人がいて商売が成立する。一方だけってことはないのですよ」
「あんた、商人の俺に説教しようっていうのか」
いきり立つ作造の姿に、玄黄の胸中は苦しかった。玄黄はその場で嫌がる作造に預かり証を作ってもらった。
「作造さん、必ず上げに賭けてくださいよ。掛け金を飲まないでくださいね」
「しつこいやつだな、どうせ当たるわけねえだろ。明日は下げだよ、下げ」
話に聞いていた真面目で実直なはずの作造は、目の前の作造からは全く見えなかった。
「とりあえず仕掛けてみたが、果たしてどうなるものやら……」と作造の将来を思う玄黄は気が重かった。
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その晩、玄黄は婚約女性であるおさよのところに泊まった。
「作造さんは重症ですが立ち直るきっかけがつかめるように仕掛けて見ました」
「おさよの母である私からもお願い申し上げます」
続けておさよもかしずいた。
「どうぞよろしくお願いします。以前の作造さんはそんな人ではなかったのですが……」と言って、作造のもう一つの側面を見せられた。おさよが箪笥の引き出しから何枚かの紙を出してきた。
「これは作造さんが以前描いてくださった私の似顔絵でございます」
玄黄は驚いた。これは足立屋又兵衛のところで話した大催島で売られる浮世絵そのものだった。
「私は各地を行脚して知っているのですが、この画風は最近の流行です。どうしてこれを作造さんがお描きになれるのですか」
おさよは少し恥ずかしそうに話した。
「はい、作造さんの算術の師匠が江戸に行くたびにこういう画風の絵を持ち帰っていて、それを見よう見まねで描いていたようです。こちらは私の全身の肖像画なんですって」
その絵は顔がおさよだが、髪型も服装もまるで違う。左右の髪を縛って垂らしたのに、服は腰のあたりに傘があり、それに黒いカッパを被せて腰に巻いたようなみたことのない服装をしている。
「この服装は、南蛮の茶汲み女の服装で、御漆調と呼ぶらしいのです。先生いかがですか、作造さんお描く絵はかわいいでしょう」と恥ずかしげもなくおさよが母親と玄黄の前で惚気ている。
なるほど、異国情緒溢れる服飾の女性の絵だった。玄黄は笑みを浮かべた。
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翌日、玄黄は昼に再び米問屋の稲敷屋に現れた。玄黄の顔を見た瞬間、作造はその座を立って奥座敷に逃げ込もうとした。
「作造、待て」と玄黄は大きな声を上げ、玄黄が錫杖を作造の方に振るった。するとそれが数間ほど伸びて、裾に引っかかり、作造は大きな音を立てて前のめりにすっ転んだ。店の中の者たちは玄黄の大きな声を聞き、錫杖が伸びるところも見ていて、唖然としていた。
玄黄は作造を捕まえると、合百の利益を求めた。
「さあ、合百の儲けを出してもらおう」
「今日は僕の言った通り下げでした」と弱々しい声で嘘を言った。
「私は今確かめてきた。今朝の寄り付きは上げだった。作造、なぜ嘘を言う」
玄黄は問い詰めた。この派手なやり取りで、店中に作造が合百をやっていることがわかってしまった。作造は謝った。
「すみません。実は買っていないのです」
「なら、金を返せ」と玄黄は迫ったが、さらに弱々しく、
「その金は下げに賭けてしまって、もう手元にありません」と作造は泣きながら答えた。
「やっぱり」と玄黄が思った通りだった。
「申し訳ありません。僕はそのことが気になっていて、今朝から仕事が手につかなかったのです」と作造は床に伏して泣いた。玄黄は作造を連れて番頭と大旦那とともに奥の座敷に入っていった。
「お主は米相場にも手を出したな」
玄黄は静かに問うたが作造は黙っていた。大旦那は不機嫌そうに尋ねた。
「作造、早く答えんか」
恩義のある大旦那に言われた作造は頷いた。
「合百なら掛け金の損害ですむが、米相場はそうはいかない。お主、大損をしたな」と玄黄は尋ねた。作造はしゃくりあげながらうなづいた。
「そして店の金にも手を出したな」というと、涙をこぼしながら頷いた。
番頭は言った。
「米相場は大金が動くところだ。米相場の敷金(保証金のこと)は庶民からすれば決して安くない。価格の変動は大きいため、儲けも大きいかもしれないが、損害は個人では背負いきれないほど甚大だ」
大旦那は自嘲気味に言った。
「相場なんて、うちのような田舎の米問屋が手を出せるようなところではない。うちのように小さいところは右から左に米を動かすだけの地道な商いを続けるのみなのだ。確かに凶作でも豊作でも一定の価格による米の供給は大切なことだ。そのために大坂の堂島では先物という新しい制度を扱っている。しかし、うちのように小さいところには額が大きすぎるのだ」
作造は少し考えた。自分のやったことは、一般に関わりを持たないほど危険なことだったのかと。
「この宿場なんて広いようで狭い。お前がどこで何をしているのかなんて、ちゃんと耳に入ってきている。実際にお前がくすねた金額も正確にわかっている」
作造は顔を上げて番頭を見た。そのまま大旦那を見れば二人とも作造を睨んでいる。
「作造、お前、帳場からいくらくすねた」と番頭が問うた。
「……合計で十両ほどです」
それを聞いて、大旦那と番頭は声を立てて笑った。それを聞いた作造は顔を上げてあっけにとられた。
「十両といえば大金だ。自分は大それた悪事を犯したのになぜ二人とも笑っていられるのだ」
笑い終わって大旦那が言った。
「作造。お主のやったことは店の金の横領だ。知っている通り、十両盗れば首が飛ぶと言って、奉行所に届け出れば直ちに打ち首ものだ。だがな、お主はこれまでこの稲敷屋に立派に奉公してきた。お主の評判は大変良くて、お主が手習いをしていた頃からお主の名前はこの宿場では知らない者がいないほどだった。そのお主が奉公しているところなら安心だというので、お主のことを知っている大口のお客様がうちとおつきあいしてくださる。気づいていないかもしれないが、お主はこの足立屋にとってなくてはならない人物なのだ。長い間奉公してくれて、わしは本当にありがたいと思っている。そのお主のこれまでの働きからすれば、十両ぽっちのはした金なんて惜しくもない。お主の働きはそれ以上なのだ」
作造は意外な言葉に耳を疑った。
「だがな、作造。悪いことは悪い。店の金をちょろまかしたことは別として、何が悪いかといえば、相場や博打に手を出したことだ」
「ですが、大旦那様。私は大旦那様のことを思って相場の研究をしておりました。それで自信があったものですから、相場に手を出して……結果的には穴を開けてしまったのです……」
大旦那は怒りをあらわにした。
「相場の極意が算術でつかめるというのか。それこそ思い上がりだ、馬鹿野郎」と大旦那さまは怒鳴った。
「相場というのは一言で言えば、人の作為の加わった自然現象だ。季節ごとに花が咲くとか実が実るといった大雑把に予想可能な現象ではない。それをさらに人がいじりはじめ、その人でもどうしようもなくなっているのが相場だ。相場はまさに天の理なのだ」
作造は顔を上げてしっかりとした口調で反論した。
「しかし大檀那様、これまでに誰も確立していない相場予想法を我が物にしたいというのは、算術を学んできた者としての純粋な動機でもあります」
「まだわからんのか。たとえ算術に長けたお主がどんなことを勘定しても、相場に影響を及ぼす様々な要因をまだ取りこぼしているのではないか。ちっぽけな人間が複雑怪奇な天の理を完璧に予測しようとするなど、思い上がりも甚だしい。遠い未来に、それができる日もくるであろう。しかし断言できるのは、せいぜいそろばんをはじくくらいの市井の町人ごときでできることではない。それよりも、今やるべきもっと大事なことがある」
番頭は続けていう。
「お前の算術への熱意はいいとしても、結局のところ、興奮のあまり店の金を使い込んで周囲に迷惑をかけてしまったではないか。相場や博打の恐ろしいところは、そのことにだけに頭がいってしまって、社会生活を送る上で最も大切な善悪の観念や世間の法度を守ろうという気持ちが薄れて、日常生活に支障をきたしてしまうことだ。仮にそうやって金銭が得られたとしても、それがお前が積んできた徳に比べて、どれほどの価値があるというのだ。私たちは商人だが、商人だからこそ知っていることがある。それは金そのものに何の価値もないということだ。お前がきちんと働くこと、そしてそれによって積む徳にこそ価値がある。それを履き違えるな」
玄黄は言った。
「作造。お主は幸せ者だぞ。十両盗っても、店の方々から庇ってもらっている。これに懲りて、これからは二度と相場や博打に手を出すな、良いな」
「それができるなら此度のことは許そう」
そう大旦那は言った。
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玄黄は作造を連れて外へ出た。
「作造さんにはいい人がいらっしゃると伺いましたが」
「ですが、このところ相場の穴のことばかり頭にあって、おさよをかまってあげられませんでした」
「では一緒に参りましょうか」
玄黄はおさよの家を知っている足取りであった。
「玄黄様、もしかしておさよのことをご存知なのですか」
作造は驚いて、背の高い玄黄の顔を見上げた。玄黄はただ微笑んでいるだけであった。ついにおさよの家に到着して、玄黄が挨拶すると、作蔵がさらに驚いた。
「どうして玄黄様が」
「私はこの家に宿泊しているのですよ」
そういうと、おさよと母親が玄関先に現れた。
玄黄は長かった今日の日についておさよと母親に話した。作造は神妙に聞いていて、徐々に涙ぐんでいた。母も娘も涙をこらえきれなかった。
「稲敷屋様にはなんとお礼を申し上げたらよろしいやら。本当にありがいことです」
その晩は、四人で色々な話をした。おさよのこと、作造のこと、母親が一人で娘を育てたこと、おさよの奉公先が同じ宿場だったためときおり道で顔を合わせていたこと、なかなか結婚に踏み切れなかったことなど、とりとめのない話や、二人とも初めて聞く話も出て、夜遅くまで小さな家から話し声が絶えなかった。
だいぶ夜が更けてから、玄黄は数日前にこの宿場にやってきて、神社の縁の下に寝ていたときのことを話した。母親はびっくりして、
「ではあのお百度は見られていたのですか」
「はい。見られたら叶わなくなるといいますが、この通り障害を乗り越えて叶ったでしょう」
「ああ」と母親は泣き出した。
「確かに叶いました。心配していたことが消え、新たな幸福がやって参りました」
「作造さん、新しいご母堂様も大切にな」
「はい」と作造も涙に震えていた。
翌朝、母親がお百度を踏んでいる神社にやってきた。
「ご母堂様は、お主のためにお百度を踏んでいた。そして奉公先に許された。これで二人の障害はなくなったはずだ。では」
そう言って玄黄は、行李の小箱から薬種のタネを出し境内を掘って埋めた。それに小さなひょうたんの水をかけるとその分だけ芽が伸びてきた。母娘と作造は驚いた。
「これは今日の記念だ、お主たちの新しい未来は今日を門出として始まる」
「玄黄様、これはどういうことで」
「これはエンジュである。古来からシナの国では帝室に使える官吏たちが好んでエンジュを植えた。幽玄という言葉がこれほど当てはまる樹木はない。このエンジュを見るたびに、これからも真面目に働き、生まれてくる子供のことも、新しい家庭のことも大切にするのだぞ」と諭した。
「さて、皆さんとはここでお別だが、作造さんにはもう少し話がある。もう少し付き合ってもらおう」
玄黄は笑みを浮かべているが、作造はまだ何かあるのかと気が気ではなかった。
「まあ心配するな。悪い話ではない」
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「しかし、近頃、容易に大金をかけられる博打場をお上が作るとか作らないとか言われていますが、真面目だった人物が転落していくのを後押しするようにならなければいいのですが」
玄黄は作造の住処に寄り、部屋の中に入った。なるほど、みかんの断面のような絵のそばに細かな字で計算らしき字が書いてある。ヘチマが横に切られたような図や細い短冊が並んでいる図もあった。
「お主の算術は私が見てもわからないが、もう一つ面白い話を聞いてきた」
「絵ですね」
「さよう。おさよ殿を描いたという絵は見事な出来栄えであった」
「算術の師匠のところで、江戸ではやりの絵を真似てみました」
「では深川の大催島に立つ浮世絵市を存じでおるな」
「はい、一生に一度は行って見たいと思っております」
「おさよどの装束は、想像か、それとも実物を見たことがあるのか」
「師匠の絵にあったのを描いてみました」
「実物は知らないのか。私は大催島で実物を見たことがあった。御漆調の黒装束は奇抜だが、これからはああいった服装を着る物が現れるだろう。ところで作造さん。その絵を描いて大催島の市に出品したらどうか」
「僕のこんな絵をですか」
「こういう画風は真似をしようとしてできるものではない。芸の道には時代性や地域性がどうしてもつきまとう。長崎の平戸で見たことがあったが、異国人の描く絵は私たちの絵とは全く違う。影の表し方、色の使い方、構図。どれも私たちが巷で見る絵と違うものだ。しかも現在大催島で見る絵は、それとは全く違う独自の世界を形成している。お主の絵は、その奥義をつかんだ絵だと思う」
「そんなにいいものでしょうか」
「作造さんの絵は、今はただの墨絵かもしれないが、たった一人でここまでの技術を持つようになったのは驚異だ。江戸には様々な絵師たちがいて、技を磨きあっている。どうだ、大催島の市に出して見たらどうだろうか」
「でも算術の道もあるし、何しろ親のいない僕を育ててくださっている大旦那さまへのご恩もありますし」
「さっきも言っただろう。人は、一つの仕事だけではなく、もう一つ世間様へご奉仕をしなくてはならない。これからは大変な時代がやってくる。武士が武士でなくなり、町人が町人でなくなる時代だ。どんなに商いの多い大店でさえ打ちこわしに遭ったり、経営破綻することが出て、社会が混乱することになるだろう。それだけでなく肌の色も話す言葉も装束も違う異人たちとともに暮らす日も近いだろう」
「はあ」
「私が諸国を訪問して、ある地域では米価の高値が続いたため、買占めをして米価を高く釣り上げていると疑われた店が怒った民衆たちに襲撃されたという噂もある。作造さんも米問屋の手代なら、そういう噂話はよくご存知だろう」
「確かに羽振りの良かった大店のご主人が突然夜逃げしたとか、給金を払えなかった棟梁が手下の職人たちから袋叩きにあったという話も聞きます」
「この浮世は経済的に徐々に行き詰まり、不穏な方向に向かっているように思う。しかし変化は必ずしも悪いことばかりではない。お主のように、せっかく芸の技があるなら、それを活用するのも悪くないだろう」
「うーん。ですが、この絵は上手くいくでしょうか」
「それはわからない。しかし私が見るところでは、なかなかの出来栄えである。試しにこの宿場の顔役である足立屋又兵衛殿にお見せして見たらどうだ」
「足立屋様といえば、本陣最大の旅籠のご主人で、僕なんかではお声さえかけられない身分の違うお方でございます」
「足立屋さまは新しものお好きでいらっしゃる。お主が書きためた絵を持って、今足立屋に行くぞ」
「ええ、そんな、急ぎすぎですよ」
「善は急げ。そのままの格好で良い。私が話をつける」
玄黄は渋る作造を足立屋に引っ立てた。
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足立屋は作造の絵を見て感心していた。
「作造といえば話に聞くそろばん上手な稲敷屋のとこの手代だな。こんな絵を描くのか。大したものだ」
「足立屋さん、この作造の画風が大催島の市ではやっている最先端のものです」
「これがそうか。どれどれ……おなごの髪型からして見たことがない。白い団子を頭に二つ乗せていて……広重や歌麿と全然違う……わしはこの作造の方が好みじゃ」
「あ、ありがとうございます」
「ところで作造、これだけの技量があるなら、わしの好みのを一つ描いてくれないか。そうさな、まだ奉公している娘でシナの茶くみ女の赤い装束をしたのが、こう太ももをチラつかせながら……」
玄黄が遮った。
「足立屋さん、そういう話ではなくて、作造さんの修行を後押しをするという話で」
足立屋は笑いながら、
「それは言わない約束じゃったな。作造、稲敷屋とはいつも寄り合いで一緒じゃ。稲敷屋にはわしから話をしておくから、絵をしっかりやったらどうだ。金の工面なら心配ない。稲敷屋にだけかっこいい真似はさせない(笑)。お主は技術を高めるだけで良いのじゃ」
玄黄が口を開いた。
「実は私が稲敷屋さんからお許しも賜っておる。やる気があるなら暇を出してもいいとおっしゃってくださる。思い切って絵を学んだらどうだ。城北十里と呼ばれるこの地だ。江戸は遠くない。幼少の頃から真面目で、これほどの技量を持つお主なら、江戸の最新の画風を学ぶことくらいわけないだろう。これからはこれまでの常識が通用しない時代に入る。新たな分野に挑み、新しい世界を切り開いてみたらどうだ」
「できるでしょうか」
作造はためらっていた。玄黄は自信たっぷりに言った。
「各地で世間を見てきた私から見れば、誰よりも高い技量を持っていると思う。やってみろ」
「今が良い機会ではないか。この大間宿の旅籠屋、足立屋又兵衛が面倒を見ると言っておるのだ」
「はい、ありがとうございます」作造は感激していた。
しかし足立屋は懲りずに、
「それで、太ももからちょいと……」
「足立屋殿、そういう下品な交換条件はなしというお話だったじゃないですか。でないと、稲敷屋殿にお伝えしますよ」
足立屋は手を振りながら後ずさった。
「稲敷屋は勘弁じゃ。あいつはこの宿場内で一番たちの悪いいじめっ子だったのじゃ。わしなど子どもの頃に何度いじめられたことか。年をとって、お互い足が悪くなったとは言っても、相変わらず暴力的で強引なところは、今も昔とちっとも変わらぬ。玄黄殿、それだけは勘弁じゃて」と足立屋は笑った。玄黄も笑った。作造もつられて笑ってしまった。