波動岩
(位置関係)
北 子の方
↑
根本郷 崖
岩田追分 間中宿(下間中。元締・田安屋惣兵衛)
馬沢郷(甲州屋) 崖
酉の方← 中間中 崖 東 卯の方(海側)
倉見川 崖
上間中 崖
俣本山(またほんやま。急峻な山。俣本峠は難所)
崖
大湊の漁村
↓
南 午の方
修行の旅の途上にある行者・玄黄が北に向かって海岸線に沿った三尊街道を歩いていた時だった。その日は大シケで、空は暗く、波は高かった。漁村の民たちは、船を流されては大変と、浜の深いところに船を上げて、嵐が去るのを待っていた。うねった水平線が徐々に盛り上がり、それが少しずつ浜に近づく。近づくにつれて高さが増す。迫り来る波は、浜から引いて沖に向かう波とぶつかって逆巻く。大きな口を開けた波がますます高い水しぶきをあげてこちらに向かってくる。各地をまわって数十年の玄黄には珍しくない光景であったが、自然の猛威というものは偉大なものであった。高さ五間に近い崖の上にいながら、岩間にぶつかった波のしぶきが、玄黄の頬にかかるようであった。玄黄が自然の見せるダイナミズムに見とれていると、いつの間にか現れた一人の漁師が声をかけた。
「修行のお方、これ以上ここにいては危険です」
玄黄ははっと我に返って、漁師を見た。漁師は親切そうな初老の男で、手ぬぐいをかぶっていて、袖口からは、細いが贅肉のない引き締まった腕を見ることができた。嵐の中の大波に我を忘れていた行者は、
「ご心配をおかけ申してすまぬ。この高波では、村の方々の生活もご苦労なことと存じます」と返答した。
「行者様。失礼ながら私どもがお見受けしたところ、行者様はお若い身空で修行の途中にて、慣れないこの村の悪天候の下、宿の心配がございましょう。こうして声をおかけしたのも何かのご縁。何もございませんが、よろしければ、嵐が去るまでの間、私のところでお過ごしくださいませんか」
意外な申し出に行者は嬉しかった。
「これはありがたい。では厄介になろうかの」
こうして旅の疲れを全く見せない行者は、一人暮らしの初老の漁師の元に厄介になることになった。
玄黄は漁師とともに囲炉裏を前にして土地の食材で腹ごしらえをした後、塩をまぶして炙った魚をつまみ、ときおり酒を交えながらお互いの身の上を話をしている。玄黄が諸邦の興味深い話をすると、漁師は感心して首を大きく縦に振ったり、時には声を出して笑ったりしていた。玄黄もまた漁師が話すこの地域の名産、風俗、昔からの言い伝え、生活の知恵、直近の出来事に大いに目を輝かせ、深く頷いていた。漁師は玄黄のことを自分の息子か孫に話しかけるかのように優しく接していた。外見はまだ二十代の青年にしか見えない玄黄はにこにこしていた。水の上に浮かぶ浮き草のように、流れるままに。この浮世を渡るのも修行の一つであった。こうして玄黄は二晩この漁師の好意にあずかった。その二晩目のことだった。
玄黄とすっかり打ち解けた漁師は昨夜の通り、話しても尽きることのない村の話をしていたところ、この大波を打ち消すことができる岩のことが話題に上った。
「波を打ち消す岩とは、ただ沖に沈める波消し岩のことではないのか」
「波に向かって波を出す区域があるのです」
「波に向かって波を出して相殺するということか」
「はい」
「この村にか」
「ここから少し離れたところですが」
「もし本当なら、その岩を村の浜に並べれば、大波がきても村は安全ではないか」
「昔の人にはそう考えた者もあったようですが、結局は現状が続いております」
「なにゆえだ」
「おそらく古人は実行したこともあったのでしょうが、この岩は、波がこないときは自ら波を出す変わった岩でございます。そのために普段は村に波の被害が発生するのではないでしょうか」
「波がない時に自ら波を出す岩か」
「はい。なので嵐が来ている時でないとその岩の周辺は静かにならないのです。岩を持ち出すのならその時しかありません」
「それは面白い。浜が大波に洗われている時、ひとり静かにしている岩か。明日、お主が案内してもらえんか」
「それは構いませんが、その岩を何にお使いで」
「はっはっはっ。それは考えていなかった。ともかく私は各地の奇妙なものに興味があってな」
こうして玄黄は、意気投合した漁師の案内で、自ら波を起こす「波動岩」のある場所へ向かった。所在はこの漁村から半里ほど子の方角に向かい、そこから半町ほどの沖であった。
嵐が去りかけているとはいえ、海は荒れていた。白い水しぶきをあげながらうねる波が浜を一気に駆け上り、壊れた船や朽ちかけた大きな流木をものともせず押し上げていった。大きな流木のうちあるものは、大波に引きずられて海面で再び波に翻弄されると、いきなり頭上高く舞いあげられ、踊りながら海面に落ちていった。
二人は断崖のへりに沿った街道を歩きながら、ときおり行く手を洗うように現れる白い波に驚きながら、下り坂の街道を降りていった。漁師は降りる途中で、この辺りからその波動岩が見えると言った。
「行者様、あの辺りでございます」
漁師が指で指した沖へ数町離れた先に、少し突き出た岩があり、その周辺が丸く静かな海面を形成していた。
「なるほど、確かにあの岩の周囲だけ波がないな」
「はい、私どもは子どもの頃から珍しがって、嵐が来るとその岩に泳いでいって遊んだことがあり、大人たちに叱られたものです」
「すると、波のない普段は、あそこから大波が生まれているというわけか」
「あの岩から出る波は私どもの村までやって来るほど大きなものでございます。この波の強さは驚異的で、この地はこの街道の北から南までもともと一つの断崖でございました。それをあの波動を出す岩が年月をかけて崩し、平らにしてしまったと伝えられています。この辺りでは波浜と呼んでおります」
「この浜に来るときは、崖が崩れて下り坂になったということは、この先は登りということか」
「はい、その通りで」
「今歩いてきた崖から下る坂、この浜、そしてこれから先の上り坂は、すべてあの『波動岩』がこしらえたということじゃな」
「はい、村ではそう言い伝えられております」
「ふむ」と行者は考え込んだような様子だった。
「この波なら泳げそうじゃな」
「何をおっしゃるのですか」
「泳いでみようというのだ。お主の子どもの頃のように」
「ですが行者様、もしものことがあったら、私はどうしたら良いかわかりません。おやめください」
「心配は無用だ」
玄黄は自信満々であった。心配する漁師をよそに、玄黄は持ち物を漁師に持たせ、行李の上に脱いだ服を置いて、この場所だけ静かな海に入って行った。
「行者様、ご無理をなさらずに……」と言う刹那、玄黄ははっと声をあげて戻ってきた。
「そうだ。お守りを持たにゃいかん」と笑って、漁師に持たせてあった杖を取り上げた。
「はて、それが何かのお役に立つのでしょうか」と漁師は心配と不審の混じった顔をした。
「これなくしては自信の生まれようがない」と笑みを浮かべた。そういって海に入ると、横にした杖を口に咥えて海面に体を預け、手を波動岩の方に伸ばした。すると、海に浮いた玄黄の体が勝手に波動岩の方に動き出した。漁師は玄黄が何もせずにみるみるうちに不動岩に近づいていく様子を見て口をあんぐりと開けていた。
玄黄が岩に着いて、その岩を登った。三角になった頂きの部分を行者があの杖で叩いていた。木の杖で岩が砕けるとは思えないが、遠くにいる漁師からは、玄黄が岩の一部を手にしたように見えた。それが済んでから、玄黄はまた元の通り、杖を口に咥えて海面に浮かぶと、そのまま浜に戻ってきた。
「行者様、その杖は一体なんでございますか」
「もらいものだ」
「どなたから」
「いつの頃か覚えていないが、青龍様からいただいたお守りでな」
「それはたいそうな品でございますね」
「うむ、便利なものだ」と玄黄は爽やかに笑った
あっけらかんとした玄黄の姿にますます目をみはる漁師は、目の前で玄黄が服を着終えたのに気がつかなかった。
「お主には大変世話になった。土地の面白い話を聞かせてもらって、楽しかったぞ。礼を申す」
行者は頭をさげてから、行李を開けて手のひらに収まるくらいの小さな瓢箪を出した。
「これは『酒産みの瓢箪』と言って、一日経つとこの瓢箪いっぱいに酒がたまる。もっとも半合にも満たない少量のため、酒屋を開くどころか飲兵衛を満足させることもできない。だが、お供えをするには十分であろう。この酒をお主が大切にしている神仏に毎日供えて願い事をすれば、たいていのことは成就するだろう。ただし欲張るな。その酒の量と同じでほどほどだ」と笑った。
不思議なことを言う玄黄の言葉を、漁師はすっかり信用していた。この若い男は、見た目とは裏腹に、とても徳の高い優れた修行の僧であろうと敬服しきりであった。顔に喜びを浮かべながら、「ありがたき幸せにございます」と瓢箪を受け取って、漁師は深々と頭をさげた。そして瓢箪振ってみると確かに液体の音がした。
微笑む玄黄は行李の中から油紙を出して丁寧に波動岩のかけらを包み、行李の蓋をして肩に背負った。
「ここで別れようぞ。さらば」と言って、玄黄は子の方角に向かって坂を登り、断崖に沿った街道を進んだ。すらりと伸びた玄黄の足元から高下駄がからからと鳴る音がした。
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玄黄は海辺を沿う三尊街道を進んだ。再び雨に降られ、神社の本殿のひさしの下で止むのを待つ。土はぬかるみ、雷の音に驚いて滑りそうになったこともあった。日が射して、汗は塩となる。そうして幾日かが過ぎた。
長い旅の間に何度か見てきた黒潮の流れに近い漁村に来た。この大湊の漁村は、山と山に囲まれた天然の大きな湊を持っていて、この辺りではそう呼ばれる。黒潮のもたらす豊かな魚介は漁師の船に入りきらない。海の幸は取っても取りきれず、食っても食いきれなかった。その地で消費できない魚、あるいは特産品として他国に出荷する場合は、保存を可能にするために、開いた魚に塩をまぶして干した。その干物はこの漁村の名産品であり、南北を通る街道を通じて各地に運ばれた。しかし、天日干しをしたこの村の魚の評判が上がれが上がるほど、やはり新鮮な魚を生で食べたいと所望する声は強くなった。
この漁村は、黒潮によって洗われたため断崖絶壁が数十里ほど続く場所にありながら、ここだけ崖がえぐれて深い谷が作られていた。古来そこに人が集まり、湊を整え、船を作り、市場を建て、道を通して海産物を各地に運んだ。
この村の繁栄を羨ましがる民がいた。海沿いの街道で一つ峠をこえた先の間中の宿の住人であった。街道で八里離れているが、途中の急峻な峰を越すのに難儀して、安定した物流は困難であった。山の先に住む間中の宿からは酉の方角に別の街道が延びている。その街道はさらに五里先の岩瀬追分で南北二手に分かれ、両方ともその先に大きな集落があった。この南側の馬沢郷のさる商家のオヤジがどうしても新鮮な魚が食べたいとわがままを言っている。
「しょっぱい魚では満足ならぬ。去年、あの大湊の漁村で食べた生の魚が忘れられない。金ならいくらでもある。わしだけではない。家族の者、いつも汗水流して働いてくれている奉公人たちにも、たらふく食べさせてあげたいのだ。なんとかならんか」
「大旦那様、そればっかりは海の村にご自身で向かわなければなりません。生の魚を運ぶにしても、道が平坦であれば馬と車を使って新鮮なまま運べるでしょうが、海に沿った街道のあの険しい俣本山を越えなければなりません。この三尊街道の最大の難所でございます。それがあるため通行に時間がかかり、どうしても魚が傷んでしまいます。あの峠さえ楽に越えられれば、たとえ生魚でも旦那様にお召し上がりいただけると存じます」
「なんとか良い方法はないものか」
「大旦那様もご存知の通り、地は人智を超えた天の造形物にござります。こればっかりは人の技と力で自在にできるものではございません」
海の町と陸の町が平坦な道で結ばれれば物流が容易になる。誰にとっても利益になることだ。大湊の漁村から海沿いの街道に沿って北上し、俣本の急峻な山道を上り下りして、分岐の町まで出るのに相当な時間がかかる。たった十数里の距離であるが、人馬共に極めて大きな負担を強いたのであった。
馬沢郷の甲州屋の主人のわがままは、八里離れた三尊街道の間中宿でも話題になっていた。特に間中宿で物流を手がける商家では、大湊の村で水揚げされる魚介に関心が集まっていた。間中宿で顔役で産物の受け渡しをやっている田安屋惣兵衛は、難儀する海産物の扱いに悩んでいた。腕組みをした惣兵衛は商人向きの柔和な顔立ちを一転させて渋い顔をしている。
「うちの宿場は山と里で取れる物産を扱っている。今は俣本山の難所のせいで海産物の取扱量は少ないが、これが増えれば、他地域への物品の流通も活発になるだろう。しかも馬沢の商家の甲州屋が資金援助してくれて金銭面では困らないという。うまい策はないものか」
「俣本山を崩すっていうのはいかがでしょう」と茶を飲んでいる番頭が答える。
「あれだけの急峻で高い山をどうやって崩す」
「穴を掘って道を通すのは」
「掘れば水が出て、道を維持するどころか工事さえできない」
「湊を作って、大湊の船を直接こっちに停泊させるのは」
「間中は湊に適した土地ではない。砂浜でもあれば別だが、切り立った崖と岩だらけの間中に湊を作ることはできない」
「崖を崩して掘り込みを入れて湊を作ったらどうだ」
「崖を崩すのはたとえ人夫を大量に入れたところで容易なことではない。ここの崖は三尊街道の名前になった三つの山の真ん中の釈迦山の火山でできている。ただ柔らかい粘土が重なったのと違って、このあたりを掘ってぶつかるのは墓石とか石垣を築くために使われるほど硬い石だ。崖を崩して湊を作るというのは、これまで多くの古人が考えてきたことだろう。しかし湊はできなかった」
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三尊街道を北へ向かう行者・玄黄は、夜になってようやく間中宿の旅籠に着いた。簡単な投薬処方や医療行為をも行う玄黄は、宿場の顔役である田安屋惣兵衛のところへ向かった。
「前回こちらに伺ってからもう五年も経ってしまいました。此度もご厄介になります」
玄黄が挨拶をすると、惣兵衛は酒肴の準備ができるから、また各地の話を聞かせてほしいと懇願した。玄黄は笑みを浮かべながら頷いた。
二人とも程よく酔いが回ってきたところで、惣兵衛はかねてから考えていた三尊街道の難所となっている俣本山の解決策について尋ねた。
「先生、今この宿場と他の集落では、俣本峠の難所をどのように解決するかで持ちきりになっております。世間の広い先生を見込んで、何か良い知恵をお授けいただけないでしょうか」
「今越えてきた俣本峠はいつも難儀しております。これは難しいでしょう」
「見聞の広い先生でも無理と思われますか」
「ただ、俣本峠だけにとらわれていたら解決できないのではないでしょうか」
「俣本峠の問題の解決策は俣本峠にあるのではないと仰るのでしょうか。私どもにとっては難解な話ですが」
「この話は、海産物を新鮮なうちに酉の方角の集落に運ぶことに主眼が置かれるべきでしょう。それを解決するのが本質ではないかと存じます」
「先生の仰ることは、こういうことですか。この間中宿の近くに新たな湊を作れと」
「いかにもその通りで」
「ですが先生、ご存知の通り、火山岩で覆われたこの土地のことでございます。湊を作るというには、その分の石を切り出すのも同じことでございます。それこそ実現可能には思われませんが」
「そこで思い当たる考えがある。この私の浅はかな思いつきですが、もしかしたら有効な解決策かもしれません。しばらく時間を下され」
「お一人で大丈夫ですか。必要があれば何なりと申し付けてください」
「その時は頼むぞ」
翌日、惣兵衛から付け人を与えられた玄黄は、近くを流れる倉見川に向かった。玄黄は行李から油紙に包んだ波動岩のかけらを三つ取り出し、手のひらに乗せて川の浅瀬に沈めた。するとその石からはさざ波が生まれ出てきて、徐々に大きくなっていった。海ではわからないが、水量の少ないこの河原では、波動石から大量の水が生まれているように見えた。上流から流れてくる川の水を寄せ付けない波動石は、水と大量の波を出してとうとう川の流路を変えてしまった。
「この大きさでは使い勝手が悪い」と呟いた玄黄は、川の上流から下流に向かって石を転がした。川の浅瀬においた石を大きな波がたたないうちに手のひらで転がし、下流に向かって歩いた。その子どもの遊びのようなことを一日中やっていた。川遊びをして暇つぶしをしている付き人が、勝手に下の方に行ってしまう玄黄に困ったような顔をして、何をしているのか訝しがった。
「先生、こんなに川の下流まで来て、いったい何をなさっているのですか」
「うむ、石を大きくしておるのじゃ」と玄黄はあっさりと答えた。そして、
「小石は川の上流から下流に向かって転がると、河口付近ではついには大きな岩になるという言い伝えがある。さざれ石の巌となりての話は誰でも知っておろう。さざれとはさざ波のさざのことであり、小さなという意味だ。それが川の上流から下流に向かって転がっていくと、ついには大きな岩に成長するということだ。それを実際にやっているところだ」
付き人は玄黄の言葉が理解できない様子だった。
「先生、子どもには面白い話かもしれないが、俺ら大人の常識は、上流から落ちてきた大きな岩は徐々に砕けて下流に行くにつれて粒子が細かくなり、最後は真砂になる。先生は逆だとおっしゃる。その言い伝えの通りに石が成長するんですか」
昔話のようなことが本当に起きるはずがないと思っている付き人であったが、実際、玄黄はあの波動岩から砕いて持ってきた小石を転がして、子どもじみたことを真面目にやっている。
「まあ、見ていろって」
呆れかけている付き人は、玄黄の様子を見ながら、まだしばらく一人で川遊びをしていた。しかし玄黄はまたしても下流の方に勝手に行ってしまう。
「先生、待ってくださいよ」と急いで玄黄の方に向かう付き人であった。
このやりとりが何度続いただろうか。先生とは言っているが内心小馬鹿にしている付き人は、玄黄のお供にいい加減飽きてきた。それどころかばかばかしくなってきた。そしてつい調子に乗って、
「先生、石は大きくなりましたか」と言ってしまった。
それに対して玄黄は嬉しそうに「大きくなっているぞ」と大声で言った。やる気を失っている付き人はそれを戯言と思って「それはようござんした」と言いながら、呆れて笑いを隠さなかった。そして日が暮れる前に玄黄より先に宿場へ帰ってしまった。その翌日から、その付き人が玄黄についてくることはなかった。
それから数日経って、玄黄は握りこぶしほどになった石を三つ持ってきて田安屋惣兵衛に見せた。これを使って、間中宿の南にある中間中の崖を大きく削るという。
「本当でございますか。失礼ですが、こんなもので」惣兵衛は驚いた。
「これで中間中に大湊のような湊を作る」と玄黄は言い張っている。そうすれば、水産物が手に入れられ、山道を通じ西の山里へも北にも運搬できると言った。
「これは大普請であって、中間中の村人には、崖崩が安定するまで安全なところに避難していただきたい。これによって街道が寸断され、上間中が孤立します。今の街道とは別に陸側に迂回路を作ってください」
それに対して惣兵衛は改まって言った。
「村の民百姓の生活の基盤を変える重大なことですよ。思いつきでこんなことを仰らないでください」宿場の会合に集まった人たちの顔には玄黄は信用できないと書いてあった。
「私は本気で言っているのです。きっと湊を造ってご覧に入れます。私のいう通りに準備を始めてください」
玄黄は細い体でありながら荒唐無稽な大工事を執行すると強い意志を表明した。その態度に対して集まった旦那衆は気色ばむんだ。
「まあまあ、皆さん。玄黄先生にはこれまでも宿場の難題を解決していただいた。私たちはそれに甘えて、無理を承知の上で先生にお願いしている。どうかこの件は私の責任でやらせていただけないでしょうか」
宿場の元締めがこう言って頭を下げている。会合の場は微妙な雰囲気が流れた。元締めがこれほどいうのなら任せてみようという気持ちと、やはり行者・玄黄のほら話は信用できないという気持ちであった。その空気を察して、玄黄が口を開いた。
「明日、早速取り掛かりましょう。私の準備は私一人で行うため大変ではありません。ここにお集まりの皆さんがご覧になって、実際に断崖が掘り崩せるのかどうかを判断なさってくだされ。それをご覧になってから急いで上間中の人々の生活保障と街道の迂回路を造ってください。それではこれにて」と言って、玄黄は立ち上がって座を下りてしまった。あっけにとられる旦那たちは黙ってしまった。
「まあ、先生がああおっしゃるのだから、明日この目で確かめてからでも決めてもいいのではないか」
田安屋惣兵衛の最後の一言で集まりは散会した。
「私の浅はかな思いつきで」
惣兵衛の胸には玄黄の言ったこの言葉が去来していた。
「旦那衆のことは心配ありません。先生は相変わらず大変お若く見えるが、実はわしより少なくとも数十歳はお年を召していらっしゃるのはわしがよく知っております。何も知らない宿や村の民たちに代わってお願い申し上げます」と惣兵衛の心は玄黄に頼りきりだった。
————————————
翌日、玄黄は下着姿になり、三つの波動石を入れた魚籠を腰に巻いて、紐を伝って崖を降りた。十間近い高さの崖をするすると降りて行く玄黄の様子は身軽であった。降ろしてもらって、玄黄は大きな岩の上をひょいひょいと飛び跳ねて移動し、時折海に潜ったりした。惣兵衛を始め、その様子を見ているものにとっては危なっかしいという感想しか出なかった。
「何をやってる、若造」と冷やかす連中もいた。その声をよそに、玄黄は大きな岩が多めのところに沈みそうになりながら移動していき、岩の周囲を確認するとそのまま潜った。深さを確認した玄黄は、そこに三つの波動石を一つずつ潜って配置した。石を置いてくると、玄黄は紐のところに戻って来て、降りて来たときのように紐を伝ってするすると登ってしまった。長年各地を放浪してきたといいながらも真っ白で華奢な体を晒した玄黄は服を着ると、「まあ見てなされ」と言って宿場の者とともに物見に入った。
「何も起きねえじゃねえか」と相変わらず冷やかす連中がいる中、玄黄が潜った海面の様子が変わってきた。
見ていると、大きな岩の後ろに配置した三つの岩を沈めたあたりからは他と違った波が出てくるように見えた。それは勘違いではなかった。小さな波が少しずつ出てきたと思うと、だんだん大きな波が出て来た。沈めた石の前にある大きな岩の後ろには規則的に大きな水しぶきが立った。そしてその岩がごろっと動き出いた。岩を押し出した波はますます大きくなる。その周辺の、はじめは波をかぶっていただけの岩が動き出すだけでなく、波に持ち上げられて岸壁に打ち付けられる音がした。叩かれたところからは岩が剥がれた。物見をしている宿場の関係者は打ち付ける白い波濤と大きな音に命の危険さえ感じた。
「逃げろ、波に飲まれるぞ」と誰かが大声をあげた。
玄黄は周囲に説明した。波を出して岩を動かし、岸壁に打ち付けて壊す一連の動きをしばらくの間続けさせようと。
まるでふいごに煽られた炎が硬い鋼を柔らかくするように、海から押し出された波は、勢いよく崖をめがけてぶつかり、不可能と思われる岩肌を確実に破壊するのであった。玄黄は遠く離れた安全な場所を見つけると、その場で寝てしまった。田安屋惣兵衛が真剣になって言った。
「先生、おやすみにならずに、よく見張っていてください」
「一朝一夕に湊ができあがるはずもなかろう。急かずに落ち着きなされ。ともかく今日はこのまま様子を見てみよう」
周囲の者はこの火山岩の断崖に湊を作るというのを玄黄のほら話と思っていたが、日に日に垂直に切り立った岸壁が「く」の字になって海の側がえぐれてきたのを目の当たりにした。そしてその日の晩、大きな音がした。「く」の字の上部の平坦なところが崩落した。見に来る度に様相を急激に変えるこの中間中の崖を見て、この様子ならひょっとして本当にここに湊を作れるかもしれないと思うようになった。
一度目の崩落が起きてから、波によって削れる部分が拡大した。崩落した岩や土砂が波に巻き上げられさらに破壊力が増したからだ。三つの岩から発生した巨大な波は、一日中地面を削っている。波によって崩れた岩は、波によって巻き上げられ、さらに破壊力を増して岸壁を跡形もなく消し去ってしまう。今、中間中の崖だったところは陸の方に削られて、薬研堀のようにVの字にえぐれている。両側の崖を崩しながら、海から吹き出す波は、これまで街道の走っていた大地を直接波の力で破壊している。陸側の木はなぎ倒され、強引に海に持って行かれた。そのようにして平地だった土地が、少しずつ波動岩によって侵食されていったのであった。
「大変な威力ですな、波というのは」と惣兵衛が玄黄に話しかけた。
「うむ。私もこれほどとは思わなかった。自然を変えるには自然の力に頼るほかないな」
これは玄黄の長い修行の末に出た結論の一つでもあった。私たちは自然の中で自然に働きかけて生きていかなければならないが、同時に自然の力に逆らわずに生きていかなければならないものでもある。自然をおろそかにするなという実感のある言葉だった。
このまま波による大規模な侵食活動が続いたら、確かに大きな湊ができるかもしれないが、既存の街道まで削られてしまう。惣兵衛は不安を口にした。
「以前から話している通り、街道は寸断されるが、もう少し辛抱すれば湊に適した地形が作れる。急いで道を整備すべきだろう」と玄黄は波動石による破壊を止めようとしなかった。間中の地は、南は俣本山まで続いていた。その麓から上間中、現在波動岩で土地を崩しているところが中間中、宿のあるところが下間中であった。この三尊街道が通れなくなると、上間中が孤立してしまい、そこに住む民の生活の道が使えなくなってしまう。
「まさかこれほど短期間のうちに大規模な普請になるとは想定外だった。早急に新しい街道の迂回路を作ろうじゃないか」
いつの間にか馬沢郷からやってきた甲州屋の主人も見ていた。
「惣兵衛どん、モノと人とがこれまで以上に行き交うようになる。物流を支えてきたわしらは資金を惜しまない。新しい時代のために役立ってもらいましょう。この調子なら本当にうまい魚も食える。楽しみだ」惣兵衛と甲州屋は互いに笑った。
「上間中の人たちにも生活がある。土地は人の命の次に大事なものだ。彼らの生活を守るには、一刻も早く安全な街道を築かねばならないだろうな。そのための人と資金だ」
近いうちに、ここに新しい湊と新しい街道ができるようになる。間中宿はこれまで以上に物流の拠点になるだろうという確信が、波動岩によって生み出される波の高さに重なった。
それから一ヶ月。ついに湊が造れる大きさの湾ができた。関係者で相談した通りこの辺りで玄黄が波を止めることになった。玄黄は石を包んだ油紙を一つ懐に入れて、相変わらず石や木を巻き上げて荒れ狂っている波の中に入ろうとした。
「危ないですよ先生、どうなさるのですか」
「石を引き揚げるのですよ。そうすれば波は収まる」
「でも先生のお身体が」
「私は大丈夫。細工がしてある」
玄黄は波の中に進んで行った。他の人では荒れ狂う波の中へ入るどころか近づくこともできなかった。外から波の中のことは見えないが、玄黄は波に翻弄されることなく、波濤の中を進んでいったようだ。しばらくすると恐ろしい勢いで土地を削っていた波は急に収まった。玄黄が海の中から石を持ち上げたからだった。
静まった浜辺は岩と山から剥がれた木で敷き詰められていた。これを湊に整備するには大勢の人の力が必要だ。岩の間から戻ってくる玄黄の姿が見えた。
「大きな仕事はこれで終わった。あとは惣兵衛殿にお任せしよう」
それから人夫たちが大きな岩をどけて、船が入れるように湾の形を整える作業に入った。街道の完成には遠かったが、人の流れと物流を途切らせないように新たな道が開拓された。建設資金と人は間中宿と馬沢郷とその北の根本郷から出た。
まず波の力でえぐれてしまった三尊街道が大きく陸へ迂回して完成した。続いて湊が出来上がった。そして漁船の建設が済み、沖へ出て魚を取ってくることができるようになった。市場が立つようになってからは、これまで俣本山を越えなければ手に入れられなかったような海産物が、この周辺の人たちの身近になった。水揚げ量は大湊の村にかなわないが、北に向かうのと西へ向かう二つの方向で、海産物は新設の間中の湊が独占するようになった。しかし、この完成によって、俣本山を境界として南北を行き来する人も物もめっきり減ってしまった。それからしばらくして、だれかが言ったという。
「あの俣本山もきれいになくならねえかな」
ある映画監督も撮影中に同じようなことを言ったといい、またあるTV番組の撮影では継続的に爆破されて形が変わってしまったため、現場責任者がお上にこっぴどく叱られたともいうが、今でも山は残っている。
行李を掛けた玄黄にだれかが言った。
「先生、その石はどうするんで」
玄黄は静かに言った。
「これは先ほど私が力を封じた。お主らが再び水につけても何も起こらん。どうだ、試してみるか」と堂々と波動石を差し出す玄黄に圧倒されて、誰も受け取ろうとしなかった。
「では私がしかるべきところで処分しよう」
そういって玄黄は間中宿から三尊街道を北へ向かった。田安屋惣兵衛をはじめ旅籠屋の旦那衆、人夫たち、女将たちが口々に別れの挨拶をした。三尊街道の往来を邪魔するかのようにそそり立つ俣本山を背にして、玄黄は北を目指した。まだ修行の旅の途中であった。