008話 夏は終わり、姉は登校する
西暦2072年9月某日。九月になっても、まだまだ夏の暑さは残っている。
そんな中、流斗は朝早くから神崎家の長い廊下を歩いていた。
服装はズボンが空手の道着で、上には黒いタンクトップを着ている。これらの服は遥に買ってもらったものだ。流斗は廊下をどんどん進んでいき、玄関から靴を履いて外に出た。
庭の方からは小鳥の囀りが聞こえる。手入れの行き届いた緑の美しい庭を抜け、普段から流斗や遥が鍛錬を行う場所である木造の武道場へと向かう。
その手には、汗を拭くためのタオルと、飲み物を入れた水筒を持っていた。
道場の前に着くと、静かに扉を横に引き、靴を脱いで中に入る。
そこには、真剣な表情をして何かの武術の《型》を行っている遥の姿があった。
白い道着に黒の袴姿は様になっていて、彼女の凛々しさを際立たせている。
長い睫毛に細い眉。大きな瞳に桜色の唇。腰まで伸びた艶やかな髪が、道場の窓の隙間から差し込む朝日を浴びて、黒檀のような輝きを放っていた。
もう一ヶ月以上も一緒にいるというのに、流斗はその姿に思わず見惚れてしまう。
遥からは何者も近寄らせない神々しさが溢れていた。空気さえ澄み渡るような気がする。しばらくその姿に見入っていると、遥の型の演武は終わった。
遥が息を整えて、ゆっくりと流斗のほうを向く。
「姉さん、お疲れ様。タオルと飲み物を持ってきたよ」
流斗の言葉に、遥の凛とした瞳が柔らかく流斗を見つめた。
「ありがとう、流斗」
遥は流斗からタオルを受け取り、体に流れた汗を拭う。
開け放ってある道場の窓からは、生暖かい風が流れていた。
「ふう~、疲れたわ~」
遥は床に座って一息つく。今の遥からは、先程の近寄りがたさは感じられず、その容貌にはむしろ子供のような愛嬌があった。
「もう九月だっていうのに、暑いわね~」
遥は道着の胸元をパタパタと開閉する。
道着の上からでもはっきりとわかる豊満な胸に汗が垂れた。必死に視線を逸らす。
「姉さん、そういうことは人前でしないでくれって言っただろ」
「そういうことって、どういうこと~?」
遥が艶やかに微笑みながら近づいてくる。
「別に、私は誰にでもこんな態度を取るわけじゃないわよ~」
遥の目は捕食者のそれに近い。流斗は床に座ったまま、後退りして言う。
「暑いんならさ、ほらっ、お茶飲みなよ。お茶」
流斗は素早く水筒のコップにお茶を注いで遥に手渡す。遥は大人しくコップを受け取ってくれた。それを見て流斗は安心する。どうやら、よっぽど喉が渇いていたようだ。
「ありがとう。いや~、鍛錬のあとのお茶は美味しいわね~」
そのまま遥がゆっくりとお茶を飲むのを、流斗は静かに眺めていた。
こうして二人でいる時間は幸せだ。この手が届く距離にいる遥に、少しでも優しさを伝えられたなら、それは流斗にとって最も嬉しいことだろう。
道場の外では風が吹き、木々を揺らす音が聞こえた。悠然と空を行く雲のように、また静かに流れる大河のように、ゆったりと時間が流れていく。
「姉さん。あのさ、今日から姉さんは……」
「うん。夏休みも昨日で終わりだからね。今日からまた学校に行かないといけないわ」
遥が面倒そうに言う。
「そうだよな。ほら姉さん。あんまりゆっくりしていると、学校に遅刻するんじゃない?」
「それもそうね。わざわざタオルとお茶を持ってきてくれてありがとう。じゃあ、私は着替えてくるから先に戻っていて」
遥はその場から立ち上がり、道場の扉の方に向かって出ていった。彼女が退出した後も、流斗は床に座ったままでいる。流斗は今、とても落ち着かない気分だった。
士道が定めた夏の間というのが厳密にいつまでなのかはわからなかったが、普通に考えて、遥の通う高校の夏休みも終わったのでそろそろ期日であろう。
本当なら、昨日の時点で士道から何か言われると思っていたのだが、結局昨日は何もなく、いつも通りの一日であった。
流斗は、いつ士道に結果を言い渡されるのか考えるだけで、緊張で食事が喉を通らなかったくらいだ。昨日から一睡もできていない。近くで見ると、流斗の目の下には濃い隈が刻まれているのがわかるだろう。
「やれるだけのことはやったつもりだ。でも、もし出て行けって言われたらどうしよう? それはまずいな……。最悪の場合、姉さんが暴れて家を壊しかねない」
流斗しかいない道場に、彼の不安が声になって漏れた。
◇ ◇ ◇
その後の朝食もいつも通り、士道、遥、香織、流斗の四人で食べ、特に変わったこともなく終わった。士道は仕事が休みなのか、すでに自室に戻っている。香織は食器の片付けをしているところだ。流斗は自分も手伝うと言ったが、やんわりと断られてしまった。
よって現在、流斗は特にすることもなく、手持ち無沙汰に朝食を取った広いリビングをぐるぐると歩き回っていた。今日から遥は学校に行くというのに、自分には何もすることがない。そもそも、流斗はまだ士道に認められていないのだ。そのことが流斗を焦らせる。
そうこうしているうちに、高校に行く支度ができたのか、制服を着た遥が二階から降りてきて、流斗と香織のいるリビングに顔を出した。その制服は黒を基調にしており、遥の透き通るような白い肌がより一層際立っている。
遥のその豊満な胸元には緑色のリボンが結ばれていた。
足にはニーソックスを履き、その上には段の入ったスカートが、さらにその上に着ているブレザーは長袖であったが、腕のところに大きなスリットが入っており、通気性は良さそうだ。
遥の制服姿を見たのは、あの《スラム街》での一件から、実に一ヵ月ぶりのことだった。
相変わらずの美しさに、流斗は遥から目が離せなかった。
「どうかしら? 私の制服姿は」
「うん。とても似合っているよ。綺麗だ。世界一可愛い」
「そう、ありがとう」
遥が満足そうな顔で微笑む。
「じゃあ、私はそろそろ学校に行くわね」
「では、お見送り致します。お嬢様」
いつの間にか、流斗の隣に香織が立っていた。
おそらくは、流斗が遥に見惚れているときに。
遥が玄関に向かう後ろに香織がついていく。
「俺も見送るよ」
流斗も二人の後を追った。
「たかが学校に行くだけで、わざわざ二人で見送ってくれなくてもいいのに」
遥はそう言って笑ったが、結局三人で玄関まで行った。遥が靴を履き終え、香織から鞄を受け取る。流斗は扉を開いて遥を外へと導く。二人は家の外に出た。日差しが強く眩しい。
背後から扉の閉まる音が聞こえた。
「じゃあ、行ってくるわね、流斗」
遥が荷物を持って学校へ向かおうとする。それを、
「――姉さん!」
流斗は自分でもなぜか分からなかったが、咄嗟に呼び止めた。
「そんなに悲しそうな顔をしなくても大丈夫よ。それに、明日からはあなたも……ふふっ、まぁ、それはまだいいか。流斗、とにかく留守は任せたわよ」
遥が流斗の頭に手を乗せて言う。遥はよくわからない言葉を残して学校に行ってしまった。仕方なく扉を開き、再び玄関へと戻る。すると、なぜかまだ香織が玄関に立っていた。
「流斗さん、旦那様が話したいことがあるそうです」
流斗は目を見張った。口内がひどく乾く。喉から変な音が漏れる。ついにこのときが来たと思うと同時に、いざ結果を告げられるとなると、途方もないほどの緊張が押し寄せた。
「旦那様は自室で待っているそうなので、これから向かってください。良い結果が出るよう私も祈っていますので」
「わかりました」
流斗はうなずくと、士道のいる部屋を目指し、廊下を一歩一歩踏みしめて進んだ。