005話 姉とお風呂
夕食が終わると同時に、遥が横から話しかけてくる。
「そうだ、流斗。あなた、お風呂に入ってきなさい。何日入っていないのか知らないけど、随分と体が汚れているわ。それに……少し臭うわよ」
遥が自分の鼻を軽くつまんで、手を払う動作をする。
流斗は遥たちに治療をしてもらったときに体を拭かれ、服も病院にあるような白い患者服に変えられていた。それでも、流斗は《スラム街》に流れ着いてからは川で三日に一度の割合で体を洗っていただけなので、その体はお世辞にも綺麗とは言えない状態だ。
「香織さん、お風呂は沸いているかしら?」
「はい。いつでも入れますよ」
遥が問うと、香織から肯定が返ってきた。
「というわけで、お風呂に行くわよ。レッツゴー♪」
流斗のほうを見て、遥がもう一度言った。
「悪いけど、そうさせてもらえると助かるかな」
流斗のその言葉が言い終わらないうちに、遥は流斗の腕を引っ張って、食事の終わった部屋から出ていこうとする。
「じゃあ、香織さん後片付けお願いね~」
「ちょ、え? 片付けなら俺も手伝いますよ」
「いいから、あなたはさっさと風呂に入りなさい! 臭いし汚いっ!」
「……ひどい」
遥が流斗の言葉を無視し、強引に部屋から連れ出す。
「本当にいいんですか?」
「何が?」
流斗の問いかけに、遥が歩みを緩めずに聞き返してくる。
「俺も後片付けを手伝わなくて」
「いいのよ。あなたは私の弟になるのだから」
「そう……ですか」
「また敬語になってる!」
「すみません、まだ慣れなくて」
「早く私の『弟』になった自覚を持ちなさいよね」
遥はぷりぷりと怒りながら、歩みを速めた。
「……うん」
流斗は遥と話しながら長い廊下を進み、やがて扉の前にたどり着いた。
「ここが浴場よ。私は流斗の着替えを持ってくるから、その間にお風呂へ入ってなさい」
遥はそう言い残し、流斗から離れてどこか別の部屋に向かった。
◇ ◇ ◇
一人になった流斗は目の前にある扉を開く。
「うおっ!」
眼前には、流斗が小さいときに父に何度か連れていかれたことのある、銭湯のような広い脱衣所があった。
「自宅の風呂がこれか……」
ゴクリと音を立てて唾を飲み込む。
流斗は自分の家にあった申し訳程度の風呂を思い出し、改めてこの家の凄さを理解した。
「じゃあ、とりあえず入るか」
白い患者服を脱ぎ、まだ少し血の滲んでいる包帯を解く。
「そういや、これはどうするかな」
流斗ひびの入ったあばらと右腕は、骨が痛まないように添え木で固定されていた。
「つけたままじゃ、入れないよな」
あばらと右腕の骨を固定していた添え木を外す。
そして、風呂の入り口にあったタオルを持ち、浴場へと続く扉を横に引いた。
「おおおっ!」
流斗の視界に大きい浴場が広がる。体を洗うところが四つもあり、浴槽は人が十人くらいは軽く入れそうであった。脱衣所があれだけ広い時点で想像はついていたが、それでもなお、この浴場の広さには驚かざるをおえない。
浴槽の隣にある桶で汗を流してから浴槽に浸かる。
温かい湯船に浸かることで、今までの疲れが取れていくような気がした。
「そういえば、俺の体は結構汚れていたし、汗を流すだけじゃなくてちゃんと体を洗ってから入ったほうが良かったかな?」
と湯船に少し浸かってから気づいたが、
「……まぁ、もう遅いか」
そう思い直して、しばらくそのまま湯船に浸かる。
夏だというのに、久しぶりに温かい湯に浸かっているからか、いくらでも入っていられるような気がする。しかし、そういうわけにもいかない。それではさすがにのぼせてしまう。
「そろそろ体を洗うか」
そう呟いて、浴槽から上がったところで、脱衣所から遥の声がした。
「流斗~、着替え、ここに置いておくわよ~」
「はい、ありがとうござ……ありがとう」
流斗はシャワーのあるところに行き、プラスチックでできた椅子に腰を下ろす。
体を洗おうとするが、利き手である右腕は骨にひびが入っていて、無理には動かせない。
「仕方ない、左手を使うか」
流斗は本来右利きではあるが、戦闘の際に多種多様な小道具を扱うので、自然と左腕も右腕と同じくらい細かい作業ができるようになっていた。
「流斗~、入るわよ~」
唐突に遥の朗らかな声が聞こえてきた。
流斗は驚いて入り口のほうを振り向く。
すると、扉のところに女性らしい、肉付きのいい輪郭が浮かんでいた。
「――えっ? え? ちょ、ちょっとま――」
流斗は慌てて持っていた白いタオルを腰に巻き、制止の声を上げたものの間に合わず、浴場のドアが引かれて遥が姿を現す。
流斗の腐海のように濁った目に映ったのは、雪のように白い肌。バスタオルからは引き締まった太股が覗き、柔らかそうな胸の谷間がはみ出していた。バスタオルをその豊満な胸に巻きつけた遥が、動転している流斗に近づき、笑顔を浮かべて言う。
「流斗、あなた怪我をしていて体が洗いにくいでしょう。私が背中流してあげるわ」
「え、あ、いや、いいです。けっ、結構です。謹んで遠慮いたします」
高鳴る胸の音を誤魔化しながら、赤くなっている顔を必死に逸らす。
流斗は女性の裸に近いものを、こんなにも間近で見たのは初めてだった。
ダークな世界で生きてきたので、精神的には同年代の子供より成長しているつもりだが、こういう経験はしたことがない。バスチェアから立ち上がり、浴場から急いで出ようとした。
しかし、遥の手が伸びてきてその肩を掴み、無理やりバスチェアに座らせようとする。
「まぁまぁ、そんなに遠慮することはないのよ。ほらっ、いいからここに座りなさい」
「は、はい……」
謎の圧力に負けて体が動かない。
(これ、もしかして重力操作の魔術を使ってる?)
そんな疑問が脳裏をよぎる。しかし、もう逃げ出すことはできそうにないので、流斗は遥に言われた通り、大人しくバスチェアに腰を下ろした。
遥が流斗の横に膝をつき、スポンジにボディーソープをつけている。流斗の位置からだと、バスタオル越しに盛り上がった、遥の豊かな胸の膨らみが見えてしまう。
やっぱり、この人は綺麗だなと思ったとき、彼女の澄んだ瞳と視線が絡んだ。
「ん? どうかした?」
「い、いや、別になんでもない……です……」
優しく笑う遥から目を逸らすと、遥が流斗の背中に回って軽く肩に手を乗せた。
「んんっ……!」
こんな風に、誰かに背後を取られて肩を触られることなんて、今まで生きてきて一度もなかった。でも、遥には触られても不思議と嫌な気はしない。
「それじゃあ、洗うわよ~」
遥が柔らかいスポンジで背中を洗ってくれる。
「どう? 流斗、気持ちいいかしら?」
「う、うん」
流斗は未だに動揺を隠しきれず、ろくに受け答えができない。
「流斗は、私が想像していた以上に筋肉がついているわね。それに体のあちこちに無数の傷跡があるわ。一体、あなたの人生で何があったの?」
遥がこちらの古い傷跡を指で丁寧になぞりながら尋ねてくる。
「父に稽古のときにつけられた傷や、依頼の遂行時に負った傷だ」
「そう。あなたも苦労したのね」
突然、遥がこちらの背中を後ろから抱きしめてきた。背中に遥の豊かな胸が押しつけられ、薄いバスタオル越しに伝わる柔らかい膨らみに、流斗は背筋が痺れるような感覚を覚えた。
頭に血が上り、思考力が落ちる。
「流斗、前も洗いましょうか?」
遥が悪戯っぽい顔で尋ねてくる。その瞳はどこか蠱惑的だ。
「い、いや、それはさすがに、自分で洗います」
流斗は慌てて左手で器用に自分の体を洗い始めた。
「そう、なら私は頭を洗ってあげるわ」
遥がシャンプーを手に出し、流斗の頭を泡立てていく。髪の毛の隙間を通って、遥の指が地肌に吸いつく。流斗が拒否する暇さえ与えてくれない。
「どう? 痒いところはない?」
「うん……」
しばらくの間、流斗は自分の体を、遥は流斗の頭を無言で洗い続けた。
流斗は自分で体についている泡を最後に流し、体と頭を洗い終えた。
「じゃあ、俺はこれで……」
隅々まで体を洗い終えた流斗は、素早く風呂場の扉に向かおうとする。
しかし、またしてもそれは叶わず、遥にガシッと力強く左手を掴まれた。
「ちゃんと湯船に浸かっていきなさい」
「もう充分浸かったよ」
「少しでいいの。私が体を洗っている間、浸かっていて……」
遥の潤んだ目でそう言われると、
「……わかった」
そう答えるしかなかった。流斗は遥に逆らうことはできない。
遥に背を向けるようにして湯船に浸かる。
「流斗~、しっかり肩まで浸かるのよ~」
遥が洗い場から間延びした声をかけてくる。
まったく、夏だっていうのに、そんなに浸かっていたらのぼせてしまうと、少しだけ文句を言おうとして振り向いた途端、流斗の目には肌色の世界が広がった。
体を洗うためだろう。遥はバスタオルを解いていて、一糸纏わぬ姿となっていた。
抜けるように白い肌。存在を激しく主張する大きな胸。キュッと締まった腰のくびれに、すらっとした脚線美が見え、慌てて目を逸らして湯船に口まで浸かる。
(この人、無防備にも程があるだろ! なんで出会ったばかりの俺に、ここまで心を許せるんだ!?)
遥の裸が頭から離れず、流斗が一人悶々としていると、遥が自分の体を洗いながら話しかけてくる。
「ねぇ、なんで私があなたを家族に、弟にするって言ったのか、まだ疑問に思っているのでしょう?」
「それは……」
「いいのよ。あのときの話だけじゃ、理解できなくても仕方ないわ」
遥の真剣な声を聞き、流斗は静かに話の続きを待つ。
「私は、私のことを愛してくれる人が欲しかったの……」
その言葉を皮切りに、遥がポツポツと語り始めた。
「私の母さんは、私が八歳のときに事故で亡くなったそうよ。私はその現場に居合わせなかったから詳しくは知らないのだけどね。そして、軍人だった私の父さんは、母が死んでしまったことを思い出さないように、なんとかしてその悲しみを忘れようと、仕事にのめりこむようになったわ」
そこで遥が一度言葉を切る。シャワーで体の泡を流す音が聞こえた。
「そのうち、父さんは私にどう接すればいいのかわからなくなり、香織さんを雇った。そしてその後、少しばかり成長した私は父さんに武術を学んだ。母さんが死ぬ前からお遊び程度に、父さんに武術を教えてもらっていたことがあったの。私と父さんが繋がっていられるものは、武術しかなかった。父さんは武術を教えているときだけは、私と自然に話せていたわ。歳をとって成長した今では、もう普通に話せるのだけどね」
遥の声は会話の内容に伴わず、淡々としていた。
「そして、中学生になった私の《魔力神経》は無事に開通した。私は初めて魔術を使ったとき、すぐに実感したわ。私の《魔力神経》は常人とは異なるものだと。その後、私は日々武術の鍛錬を続けながら、己一人で魔術の修練を行い、どんどん力を身につけていった」
「たった一人で……俺と一緒だ……」
流斗が漏らした呟きを聞き流し、遥は話を続ける。
「十四歳になった私は、父さんの仕事を手伝いたいと言って、無理やりついて行ったわ。その初陣で、私はそのとき持っていた私の力のすべてをぶちまけた。その力は軍の目にも留まり、私は軍にスカウトされたの。……父さんは反対したけどね」
遥が頭をシャワーで流しながら続ける。
「でも、いくら力を手に入れても、私の世界は何も変わらなかった。それからも私はずっと一人だったわ。どこで聞きつけたのかは知らないけれど、学校でも私が軍に所属しているという噂が広まった。私に羨望の目や嫉妬の類を向ける者もいれば、私のことを恐れたり、怯える者もいた。でも、私のことをただ純粋に愛してくれる人はいなかったわ。そして、強くなった私を甘やかしてくれる人は益々いなくなった」
「それでも、あなたには香織さんがいるじゃないか」
「もちろん彼女には感謝しているわ。私が小さいときからずっと育ててくれて、面倒を見てくれて。でも所詮、彼女はお金で雇われている人間よ。……別に、香織さんのことを信用していないわけじゃないの。ただ、彼女は父さんが私のために用意してくれた人で、いついなくなってしまうかわからないから」
「それは……」
流斗にもつい最近まで、自分によくしてくれた使用人がいた。
彼女は流斗のことを、本当はどう思っていたのだろうか。
「だから、私はあなたを資料で見たときに、この子ならもしかして、と思ったわ」
「……え? 俺?」
「そう。あなたは今、私のことを好きとまでは思っていなくても、嫌いではないでしょう?」
その突然の問いに、流斗は風呂の中で動揺する。確かに、流斗は遥のことをすでに他人とは思えず、むしろ遥が思っている以上に、彼女のことを好きになっていた。
「あんなふうに一度助けられれば……もう、私のことを嫌いになることはできないわ」
その言葉に、流斗は何も言わなかった。
「私はあなたに好意を向けてもらうために、あなたのことを助けたのよ。何もかも失ったあなたになら、私の気持ちがわかるかもしれない。ただ単純に、私のことを好きになってくれるかもしれないと思ったから。そして、私はあなたに自分の姿を重ねていた。私が愛に飢えているように、あなたも愛に飢えている、そう思っていた」
遥の言葉を縫って、シャワーの流れる音だけが聞こえてくる。
「だから、私はあなたに愛を与えた。そうすれば、私も愛してもらえると思って。でも結局、私には誰かに愛される資格はなかったみたいね。あなたを救いたいと思ったのは嘘じゃない。でも、私はあなたのことを……」
遥の声が詰まる。彼女は今、一体どんな顔をして、流斗にこの話をしているのだろう。
(俺は……あのときこの人に救われて、一度死んだはずの命をもう一度貰った。何も迷うことなんてない。俺は、この人のために……)
流斗は浴槽の中で、遥のほうを振り向かずに答える。
「あなたが何を思って俺を助けたのかなんて知らない。そんなことは俺の知ったことじゃない。でも、あのとき俺は確かにあなたに救われたんだ。そして身寄りのない俺に、家族になってくれると、弟にしてくれると言ってくれた。私のために生きればいいと、俺に生きる理由をくれた。俺は嬉しくて涙が出た。あのときにはもう、俺はあなたのことが好きになっていた」
流斗の言葉が、シャワーの止まった静かな浴場に響き渡る。
「それに、あなたが言うように、いまさら嫌いになるなんてできないよ。俺の……姉さんになってくれるんだろ? なら、姉さんのことは俺が愛す。この世界で誰よりも、あなたのことを好きになる。俺はあなたのために生きているのだから」
流斗がそう言い終えると、遥がシャワーノズルを床に落とした音が浴場に響いた。
「……姉さん? どうかし――」
「流斗ぉお~~~~~!」
流斗が遥に訊き終える前に、遥が流斗の名を叫ぶ声でかき消される。
「えっ、ちょ、な……ッ!」
なんと、遥が裸のまま、流斗の背中に抱きついてきたのだ。むっちりとした感触の柔らかい胸、それが一切の遠慮もなく背中に押しつけられ、シャンプーの香りと遥自身の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。流斗はその突然の出来事に、ただ目を白黒させていた。
「やっぱり、あなたは特別よ! あなたは私に愛を与えてくれた! 流斗は私の家族に、弟になるのよ。私が本当に愛するのは流斗だけ。だから、流斗も私だけを愛して!」
遥がそう言って顔をほころばせながら、さらに強く流斗に抱きついてくる。
遥はまったく気にした様子もなく嬉しそうにしているが、流斗の胸は高鳴る一方で心臓が止まりそうだった。
「――あなたは私のものよ。絶対に誰にも渡さないわぁ♪」
とてつもない独占欲を遥から感じる。でも悪い気はしない。流斗は今までの人生で、こんなにも誰かに必要とされたことはなかったから。
「うん、俺は姉さんだけのものだ。だから、ずっと側にいさせてください」
遥が流斗の背中から離れ、二人はしばらくの間、背中合わせで互いの存在を確かめ合うように座っていた。