74話 雨に濡れる百合の花
火照っていた頬の熱はサッと引いて、鏡子は体を起こして、私と体を離す。お母さんはソファーの背もたれで私達が何をしていたのか直接は見えないものの、察しはつくのだろう。
心臓の鼓動と同期するように、羽をこすって音を鳴らし、今まで控えめだった蝉の声がうるさくなった。
何も言葉が出てこない。
視線を下にずらすと、床に落ちた黒のバッグ、中から飛び出したピンク色のポーチやスマホが広がっていた。
それから私たちはお母さんとテーブルに向かい合って座った。
「詠。鏡子ちゃん。なにしてたの?」
お母さんの口調は冷静だが、その瞳には困惑と怒りと悲しみが入り混じっているようだった。
なにしてたの。って言葉を聞いて、淡々とキスしてましたなんて言えない。恋人とキスすること自体悪いことじゃないのはお母さんもわかっているだろう。けど、私はどこか後ろめたい気持ちがあった。
私が口をつぐんでいると、鏡子は私の方をちらりと見た。大丈夫よ、安心してというような優しい瞳から決意の宿る目に変わる。鏡子は落ち着いた声でお母さんに語りかけた。
「お母様、実はわたし、詠ちゃんとお付き合いしてるんです。だからあのようなことをしました」
「……」
テーブルの下でつないでいた鏡子の指に力が入った。お母さんは何も言わず、私の方を見て重い溜息を吐いたあとにようやく口を開いた。
「わかったわ。今日はもう日も暮れるから、鏡子ちゃんは帰りなさい。紫さんが心配するわ」
「……はい。お邪魔しました」
鏡子を外まで送ると、からりと晴れていた空は鉛色の雲で包まれて、独特な雨の匂いがした。
眉を下げて、悲しそうに笑い、「じゃあね」と背を向けて歩き出した。鏡子の背中が見えなくなって、家の中に戻る。もうポツポツと雨が降り始めていた。
「詠、鏡子ちゃんとお友達だったんじゃないの?」
「……」
後ろで組んだ手を組み替えたり、指先を遊ばせる。
「鏡子ちゃんは、詠と付き合ってるって言ってたわ。それは本当なの?」
「本当だよ」
重々しい空気のなか言葉を発することはとても勇気が必要だった。私の返事を聞いたお母さんは、血が顔に集まったように赤くなり、息を荒くした。何か言いたげに唇を動かすが、息だけが漏れていた。
「女の子が……女の子と付き合うだなんて……」
お母さんの顔が元に戻ってゆく。長く細く息を吐き出すと、怒りに満ちていた瞳は、冷たくなっていた。軽蔑の眼差しを向けて、今まで聞いたこともないような低い声で言葉を乱暴に吐き出して、それは私の心を貫き、砕いた。
「気持ち悪い」
拒絶。
視界が真っ暗になって、真っ逆さまに落ちていく。頭の中で反響する。
――気持ち悪い。
私は、女の子が好き。というよりも鏡子が好き。もしかしたら男の子も恋愛対象かもしれない。でも今は鏡子が好きなんだ。お母さんは、同性愛を否定した。気持ち悪いと言い切った。
自分の娘が、愛情込めて育てた私が、女の子好きなのはお母さんにとってショックだったのかもしれない。だけど、気持ち悪いだなんて……。
足の裏がムズムズして、その場に立ち続ければどうにかなってしまいそうだった。
だから私は逃げた。外に。素足でスニーカーに足を突っ込み、ドアを押し開けて飛び出した。ドアが閉まる直前、お母さんの叫び声が耳を掠った。
ザーと音が聞こえるほど降る大雨。空に鳴り響く雷。足を踏み出す度地面を濡らしていた雨や泥が跳ね返り、足首を濡らした。
足は自然と鏡子のところに向かっていた。
頭皮を雨粒が滑り、額頬、首と流れていく。服はもうぐっしょりと濡れて、雫が滴り落ちていた。靴も、地面をふむ度、指の間に水が溢れた。体温が下がり、肌が寒さで粟立ってくる。
待ち合わせ場所の桜の木を左に曲がり、鏡子の家の方へと距離が近づく。
そんな時、街灯に照らされた二本の三つ編みが見えた。あれ? もしかして鏡子? まだ家についてなかったのか。ああ、傘持ってくればよかった。あの時追いかけてでも貸せばよかった。そんな後悔が右から左へ流れた。
「鏡子!」
雨音にかき消されないように、声を少し高くして、精一杯大声を出す。
私の声に反応して、三つ編みが跳ね上がる。車のライトに照らされた鏡子の影がはっきりと見え、顔がこちらを向いた。目が大きく見開かれ、そのあとにやわらかな笑みをうかべた。私は鏡子に体当りするようにおもいっきり抱きついた。
雨で冷えた細い体がぐらりと揺れる。
お互いの体温が伝わり合って、ぬくもりを感じる。鏡子の細く雨に濡れた腕を掴んだまま、懇願した。
「お願い……今日だけでいいからずっと一緒にいて」
「わたしの家に帰りましょ」
返ってきた言葉は優しく、あたたかかった。
ずぶ濡れの私達を見た紫さんは、一瞬焦りを見せたあと冷静に対応してくれた。バスタオルである程度体を拭いてから、私達にシャワーを浴びるようにいい、「夜ご飯作っておくから」と言い残してキッチンに消えた。
夕食後、紫さんはぐーっと背骨を伸ばしたあと、短く息を吐いて私と鏡子を交互に見つめた。
「それで、何があったの?」
紫さんは、受け入れてくれるだろうか。
鏡子とお風呂に入っている時、肩を寄せて話した。紫さんにも話そう。どうせいつかバレてしまうだろうし、紫さんは心が太平洋のように広いから大丈夫だと鏡子は言っていた。
私は、服の裾をぎゅっと掴み、恐る恐る打ち明けた。
「紫さんはどう思うかわからないけど……私と鏡子、付き合ってます」
リビングに私の声だけが静かに響いて、ああ、言ってしまったと下唇を噛んだ。恥ずかしさと不安のあまり体が縮んでしまって、そのまま消滅したかった。
紫さんは顔色ひとつ変えず、両腕を顎の下に置いて、顎を支えた。三つ編みで型のついたウェーブの黒髪が体から零れて、テーブルの上に落ちる。
たった数秒の沈黙が、何十分、何時間のように感じた。
そうして、紫さんの真剣な表情がくしゃりと崩れて、口角を上げて目を細める。
「二人でずぶ濡れになって、駆け落ちでもするつもりだった?」
「いや、そんなことは……」
「ふふ、冗談よ、分かってるわ」
「そっかー、鏡子と付き合ってるのかぁ……」
紫さんはゆっくりと目を閉じて、私の告白を反芻しているようだった。甘いものを食べているような幸せそうな顔をしている。
「鏡子は本と交際したり結婚したりするものだとばかり思ってたわ」
「本には恋愛感情は抱きません! すきの種類が違うのよ……」
失礼ねと鏡子は頬を膨らませる。
「で、どうして詠さんもずぶ濡れだったの? 鏡子を送る途中だったとか?」
「えーっと……鏡子と遊んだ後、お母さんにカミングアウトしたら、否定されてしまって……。で、ショックで……その、すみません」
「謝らなくてもいいわ。年頃の娘に恋人ができたって聞くと、驚きはするわよねぇ。否定されちゃったのね。きっとまだ混乱してるんじゃないかしら」
そうですよね、と言いかけた時、紫さんが言葉を続けた。
「鏡子のお母さんなら、すぐ受け入れて、喜ぶんだろうけど。あの人は、鏡子の幸せを一番に願うひとだから。もちろんお母さんだけじゃなくてお父さんもね」
「同性で付き合うこと、紫さんはどう思うますか? やっぱり気持ち悪いと思いますか」
「好きな相手が宇宙人でも、動物でも物でも、その人が好きならいいと思うわ。その人が幸せならね」
その言葉を聞いて、肩の力がすーっと抜ける。よかった、紫さんは受け入れてくれた。
そして紫さんは昔話をぽつりぽつりと始めた。
「わたし、学生の頃だけど、女の子を好きになったことがあったの」
「えっ!」
鏡子と私は視線を合わせ、目を丸くする。
「口は悪い子だったけど、長い髪を風になびかせてて、かっこよかった。昼休みはいつも図書室で、シェイクスピアとか武者小路実篤とか時にはその年に売れた詩集や小説を読んでたのよ。見た目とのギャップがたまらなかったわ。
でね、その子と仲良くなって、告白しようか迷ったこともあったけど告白しないまま卒業しちゃったわ。この思いは心に秘めておこうって」
紫さんは前を見据えて清らかな笑みを咲かせた。
「わたし、二人が羨ましい。同じ気持ちを持ってて、触れ合ったり語り合ったり、時間を共有できるなんて。素敵よ」
「わ、和都、お風呂入ってきたらどう? ほ、ほら、仕事で疲れてるだろうし」
鏡子が紫さんをお風呂に入るように促すと、紫さんは妖艶に頬を釣り上げて「はいはーい」と呑気に返事をした。




