73話 秘密の終わり
夏休み直前、『桜の本』が発売され、世間にまた私の名前が耳に届いた。
鏡子との出会いが、この作品を生み出してくれたと言っても過言ではない。鏡子と出会わなければきっと、二作目は書いていなかっただろう。発売された初日の夜、鏡子から電話がかかってきた。
『もしもし、詠ちゃん? 『桜の本』、もう読破しちゃったわよ』
「え、もう!? 早くない?」
『だって、詠ちゃんの作品ですもの。それに知っての通り、わたしは一度読んで終わりじゃなく、何度も読み返すわ』
「そ、そっか……」
と会話を交した。
私の街に本屋が無いわけじゃないが古本屋しかなく、もっと大きな街に出ないと本屋らしい本屋はなかった。
夏休みも終わりに近づき、また部活が始まった。夏休みに慣れた生活習慣を戻すため、朝から昼まで部活を行うらしい。いつも学校に行く時間に家を出て、お昼休みに家に帰る、そんな生活をもう二日も過ごした。夜更かし、遅起きが出来ないのは苦痛である。
「あーすずしいー」
エアコンの下で手を広げ、全身に思いっきり冷風を浴びるひなちゃん。午前八時、部室にはもうすでに全員登校していた。部活と行っても夏休みの宿題の消化をしたり、本来の部活動は二の次だ。近江くんはもう課題を終わらせているらしく、優雅に紅茶をすすりながら、ブックカバーのついた本を読んでいた。
「近江くん、何読んでるの?」
近江くんは集中しているのか、顔を本に向けたまま、独り言のようにぼそっと呟いた。
「少し前に発売された『桜の本』ですよ」
「近江くんも読んでるのね! わたしも実はもう読んじゃったのよー。近江くんはいまどのくらいまで読んでるのかしら」
日本史のプリントをしていた鏡子が手を止め、身を乗り出した。まったくもう……。この中で一番宿題が残ってるくせに……。
「僕はまだ二人が仲良くなり始めたあたりです。まだまだ最初の方ですよ」
「あー初々しい場面ね。ぎこちない感じってなんかいいわよね」
「遠野夏夜の作品、ずっと待ち望んでいたので、今こうして新しい物語を読めているのが嬉しいです」
「そうよね、あれ以来一切情報はでなかったものね」
鏡子が今どんな気持ちで近江くんと話しているのか、とても気になった。心の中を覗きたいぐらいに。最初から全てを知っていた鏡子だから。
「僕も何か一つでも才能があれば、良かったんですけどね。僕には誇れるものも、得意なものもないですから」
近江くんは時々自虐ネタを持ち出す。ネタと言っても、冗談で言っているわけではなく、本気で口にしているようだった。その度に鏡子や私、ひなちゃんがフォローを入れていた。
「近江くんに才能がないなんて、そんなことはないわ。写真、とっても上手に撮れてると思うし、勉強もできるじゃないの」
「写真は趣味ですよ。好きなだけで上手くはありません。好きと上手さは比例しないんです」
「えー、わたし結構近江くんの写真好きだよ。詳しいことはよくわからないけど、見てて心がぽかぽかするんだもん」
ひなちゃんが体をくるりとこちらに向けて、近江くんにほほ笑みかける。その純粋な優しい笑みが一瞬鏡子と重なって見えた。
髪型も髪色も、何もかも違うのに。
近江くんの目が一瞬見開かれ、そのあと視線が下に落ちて、下手くそな作り笑いを浮かべた。
「あ、ありがとう……ございます」
外からは蝉の鳴き声が聞こえてくる。涼しい部屋で聞く蝉の声はなんとも思わないけど、蒸し蒸しした暑さの中で聞く蝉の鳴き声ほどイライラするものはないだろう。けれど、ヒグラシの鳴き声は好きだ。明け方、空が淡い橙色に染ってくる頃、寂しげなヒグラシの鳴き声が静かな空気を震わせる。夕方、夜を迎えようとする空の下、ヒグラシの悲しげな鳴き声が山々にこだまする。
それが私は好きだった。
部活が終わり、まだ部活中の運動部の横を通り過ぎる。太陽が私たちの真上を陣取り、容赦なく陽射しを突き刺してくる。雲ひとつない空は絵の具を直接塗り付けたように青く、生ぬるい風が吹いた。吹き出す汗は止まらない。制服が汗を吸って、体に張り付いた。
「鏡子、明日のお昼からうちで遊ばない?」
「ええ、いいわよ」
鏡子の声に暑さは感じられない。涼し気な声が私の耳に届いた。
翌日の部活終わり。
「ただいまー」
「お邪魔します」
蒸し返すような熱気がこもるリビングで、私は部屋の電気をつけるより先にエアコンの電源を入れた。低い音を立ててエアコンが稼動する。生ぬるい空気が私の髪をなで上げた。ネクタイを外して、制服の中に風を通す。
「鏡子、好きなとこ座ってて」
鏡子を席につかせて、キッチンに向かった。冷蔵庫を開けてキンキンに冷えた麦茶を取り出す。水玉模様の柄のコップ二つに氷を入れ、麦茶を注いで、鏡子のところに戻った。
「はい、お茶。あとタオルも取ってくるからテレビ見たり好きなことしてて」
「そこまでしなくてもいいのに……。でも、ありがと」
ついでに服も着替えてくるか……。
一度自室に戻り、ラフな服装に着替えると脱衣所でタオルを手に取った。水で濡らして、雫が垂れないぐらいまで絞る。濡れタオルの完成だ。
リビングに戻るとさっきよりも部屋が涼しくなっていた。
「鏡子、これ使って。タオル」
鏡子がタオルを受け取り、頬に押し当てた。火照っていた頬の赤が引き、穏やかな表情に変わる。
「気持ちいい……ありがとう」
「いいよ、このくらい」
汗を拭き終えた鏡子。水滴のついたコップを細い指で掴み、水を一口飲む。水で濡れた桜色の唇に艶が出た。食べたい、その唇……。身を乗り出し、手を握った。頭にはてなを浮かべる鏡子を黙ってゆっくり押し倒して、澄んだ瞳を見つめる。
エアコンの低く唸る音と蝉の控えめな鳴き声が遠くで聞こえるようだ。
視線が絡み、熱を帯びて甘く溶けた。唇をゆっくりと重ね、その感触に浸った。
その時、何かが床に落ちる音が聞こえ、思わず顔を離した。
「な、なにしてるのあなたたち……」
時間が巻き戻ればいいと心底思った。




