71話 眼鏡の奥で光るもの
「詠ちゃん、近江くんと付き合ってるって本当かしら?」
後日、休日の部室にて私、近江くん、鏡子の三人は集まっていた。
穏やかで生ぬるい風が吹きこんでくる部室には、ピリピリとした緊張感が漂っていた。
――明人くんとよみ先輩がハグしてるところ見たんですけど、付き合ってたんですね!
この言葉が引き金となった。
あのあと鏡子は顔色一つ変えず、普段どおり部活を終え、普段どおり私と帰った。あの発言に対してその日は何一つ言及してこなかった。
そして今である。
浮気したわけじゃないのに、私は鏡子の顔を見ることができなかった。机のでこぼこの木目を見つめ、小さく首を振った。
「では、近江くん。詠ちゃんと付き合っているというのは本当?」
「はいっ!」
その返事に思わず顔を上げる。
「そう。二つ目の質問。詠ちゃん、近江くんと抱き合っていたそうなのだけど、それは説明できる?」
何もやましくないのに、鏡子が怖くて、スカートを握る手が小刻みに震えた。横目で鏡子をチラチラ見ながら答える。
「……数日前、私と近江くんだけ先に部室にいたの。それで……トイレに行こうとしたら、後ろから……、逃げられなくて」
弱々しい声。説得力に欠けている。
こんなんじゃ、信じてもらえないよ……。
鏡子はただ一言「わかった」と言い、同じ質問を近江くんにした。近江くんは笑みを振りまきながら言葉につまることなく説明してみせた。
「橘先輩の言う通り、僕と橘先輩だけが部室にいて、僕から抱きついたのは本当です。しかし、後ろからではなく向かい合って。橘先輩は僕に身を預け、こう言いました。
『もう少しこうしててほしい』と」
「詠ちゃんと言ってることが食い違ってるわね」
「橘先輩、嘘つきちゃダメですよ」
清々しいほどの爽やかな笑みをこちらに向ける。息を吐くようにつく嘘に怒りを通り越して呆れてしまった。
鏡子は私と近江くんを交互に見て、自分の意見を述べた。
「わたしは二人ともの意見を信じることは出来ないわ。二人ともの意見を信じてしまえば矛盾を認めることになるもの。だからといって嫌いになるわけじゃないわ。これまで通り好きのままよ」
「橘先輩、本当のこと言ったらどうです? 志賀先輩もこう言ってくれています」
『ある』の証明より『ない』の証明の方がはるかに難しい。悪魔の証明とも言われている。でも、難しいわけであって不可能ではない。
けれど、私にそんな力はなく、勝ち誇った笑みを浮かべる悪魔の前で、私は敗北を認めざるおえない、そう思った、その時だった。
「本当のこと言うのは近江くんの方じゃないかしら?」
凛とした姿で近江くんを見据え、鏡子の証明が始まる。
「あの日の夜、目撃者であるひなちゃんに詳しく話を聞いたわ。たしかに二人先に部室にいた。そして、近江くんは向かい合うように抱き合ったと言ったわね」
近江くんはこくりと頷く。鏡子はそれを確認すると私の方を一瞥した。
「でも、ひなちゃんはこう言ったの。『後ろからぎゅってしてましたよ』って。この証言と一致するのは詠ちゃんの話よね」
「やだな、志賀先輩。向かい合ってハグしたあとに後ろからしたんですよ。それに本当に僕と橘先輩は付き合ってますよ。だって、橘先輩が先に帰った翌日の朝は僕といたんですから」
一筋の光が見えた。だって、その日の朝は鏡子といたのだから。鏡子が傘を持ってきてくれたのだから。
「わたしはいつも詠ちゃんと登校してるけど、その朝のは何時ぐらい?」
「そうですね、確か七時前でした」
「そう、分かったわ」
どうしてここまで近江くんは笑顔でいられるのだろう。
「近江くん、詠ちゃんをこれ以上苦しめさせるのはやめてちょうだい。近江くんが詠ちゃんと一緒にいたという朝、わたしは詠ちゃんといたわ。傘を届けに、六時半ごろからもういたの。けれど、近江くんの姿はなかったわよ」
近江くんの顔から笑みが消える。
「詠ちゃんを好きなのは構わない。けどね、好きな人をいじめるのはよくないわよ。今回のことに関してはわたしは詠ちゃんを信じるわ」
その一筋の光を確かなものに変え、太くはっきりとした道を作った。曲がることの無い真っ直ぐな鏡子の気持ち。
迷いのなかった鏡子の決断に私はもっと鏡子のことを好きになった。
「志賀先輩、この部活は恋愛禁止なんですか?」
「いいえ、自由よ」
「ところで、志賀先輩と橘先輩って付き合ってるんですか?」
鏡子と私が顔を見合わせる。答える間もなく、近江くんは席から立ち上がった。
「まあいいや。橘先輩、志賀先輩、嘘ついてすみませんでした。これからも後輩としてよろしくお願いします」
近江くんはフッと笑いをこぼして、それ以上は何も言わずに部室から去った。
ドアがしまった瞬間、体の力が抜けて、机に頬を押し当てた。
鏡子は私の隣に座って、静かに私の頭を撫でる。頭に感じる手の重み。
「あんな証明をしなくたって、わたしは詠ちゃんを信じてたわよ。だって、前髪濡らして部室に戻ってきた日も、次の日の朝も辛そうな顔してたもの」
「ごめん、黙ってて」
「詠ちゃんはいつもそうね。わたしが絡んでることでも一人で抱えて。詠ちゃんは独りじゃないんだからわたしを頼ってよ」
いつも慰められる私が情けなくて、頼りなくて、腕に顔を埋めて袖を濡らした。髪をなでながら、子供に昔話でも話すかのような優しい声で言う。
「一人で抱え込んでたらいつか疲れちゃうわ。何でもかんでも人を頼ったりするのはダメよ。けど、自分で考えてわからなかったら人を頼ればいいの。迷惑とか考えちゃうかもしれないけど、詠ちゃんを好きな人たちなら迷惑だなんて思わないわ。差し伸べられた手を掴んで、もし誰かが落ち込んでいたり悩んでいたら、今度は詠ちゃんが手を差し出せばいいのよ」
「……っ、うん」
「人に迷惑かけない人なんていないわ。どこかで知らずのうちに迷惑をかけているものよ。お互い様よ。
ほら、涙拭いて。そろそろ帰りましょう。帰りにクレープでも買いましょ」
「鏡子、ありがと。信じてくれて」
「当然よ」
以前伊知さんと鏡子と勉強会をした図書館のある公園にクレープの屋台があった。そこで苺のクレープを購入して、公園のベンチに座り、会話を交わす。先に食べ終わった鏡子は、物足りなそうに私のクレープを見つめたり、私の口元をじっとみたりする。
非常に食べにくい。
「クレープ、欲しいの?」
「い、いいえ?」
「でも、さっきからずっと見てる」
「おいしそうだなーと……でもでも、欲しいわけじゃないからね!」
顔に、クレープ食べたいって書いてあるんだけどな……。
私は鏡子にクレープを差し出して、
「食べていいよ。お腹もういっぱいだから」
「え、いいの!? ありがとう」
食べかけのクレープを受け取り、美味しそうに口に運んだ。あっという間に食べ終わり、幸せそうに笑みを浮かべる。
その帰り道、鏡子は私の腕にくっついて、口をとがらせてブツブツ独り言を言う。
「近江くんに詠ちゃんを取られるわけにいかないわ……」
「詠ちゃんが近江くんにぎゅってされたなんて……」
「キスされなかっただけまだましかな」
「近江くん、恐ろしい子……。わたしの詠ちゃんを……」
いつもの分かれ道に来た時、鏡子が私の手を引っ張り、鏡子の家の方へと誘導した。三十分も経つ頃には鏡子の部屋で、鏡子とベットの上にいた。
「きょっ……んっ」
やわらかい唇が言葉を塞ぐ。頭が痺れて、体が熱くなって、理性とかなくなっちゃいそう。一度されたら、もう一回、もっとして欲しくなる。
外から子どもたちの笑い声が聞こえる中、私たちは愛と快楽と欲に溺れていた。イケないことをしているような気さえした。
同性同士付き合うことは悪いことじゃないし、好きだからそういうことをしたくないわけじゃない。
けど、お互いの知らない顔を、声を知っていくのがほんの少しだけ怖くて、知ったら嬉しくて、愛おしくなるのだ。
鏡子の背中に手を回し、とどめなくやってくる慣れない快楽に流されないように、爪を立てた。
唇が離れると、お互いの唾液が混ざった糸が唇と唇を繋いで、火照った鏡子の顔が見えた。息継ぎするとまた唇を押し付けてきて、私の唇を割って、ぬるりとした舌が入ってきた。
「んんっ……ふっ」
迎え入れた舌、唇じゃなくて舌も触れ合って、愛し合っている。頭がパンクしそうなほどの興奮と羞恥心。気持ちよくて体が溶けてしまいそう。背筋がゾクゾクして、お腹の中がきゅっと締め付けるようなもどかしい感じ。足の指を閉じたり開いたり、体をじっとさせたままでいるのは無理だった。
「詠ちゃん、かわいい……んっ」
ようやく長い長いキスを終えて、恥ずかしさのあまり私は腕で顔を隠した。消滅してしまいたいぐらい。
私は今日はもうこれで終わりだと思って油断していた。けれど、首の横あたりにやわらかな感触があたり、つねるような痛みに襲われた。鏡子の息遣いと、なまめかしい音が聞こえてくる。私の手を握る鏡子の手は力が入っていた。
「鏡子、痛い、それ……」
私の声は届かない。
しばらくしてようやく鏡子は顔を離して、私を抱きしめた。
「詠ちゃんはわたしの彼女よ」




