70話 レンズの奥から
翌日、以前のように学校を休むわけには行かず、重い体を起こしてベッドから出た。外は嫌味なぐらいの晴天で、眩しい光が地上に注いでいる。朝食を胃に無理やり押し込み、鞄を持って家から出た。幸い、お母さんの今日の仕事は早朝からお昼までで今は一人だった。玄関の鍵を締めて、鍵を鞄の中に突っ込んだ。雨上がりの澄み切った風が髪を撫でる。透明な空気を肺に取り入れ、ゆっくりと吐き出した。
「よし」
大丈夫。心にそう囁く。前を向いて、門を開けようとした時。視界の端に茶色のローファーが映った。階段の前に立つ人がいる。白い靴下に包まれた細いすね、綺麗な膝、紺色のスカート、そして、左右に垂れる三つ編み。
顔をあげると、鏡子が心配そうな、辛そうな、そんな表情で私を見つめていた。三つ編みが儚げに風に揺れる。
「鏡子……」
「詠ちゃん、朝からごめんなさい。これ、届けに来たの」
空気に溶けてしまいそうな声で、両手で握っていたドット柄の傘を差し出した。階段をおりて、ゆっくりと手を伸ばし、傘を受け取る。すると、鏡子は私の体をそっと抱き寄せた。
鏡子への罪悪感は痛みに変わる。
「詠ちゃん、どうしたの? 肩が震えてるわ」
油断をすれば涙が溢れてしまいそう。奥歯をぐっとかみ締め、鏡子の胸元に頭を押し付けて小さく首を振った。
きっと鏡子は何かあったってわかってる。けれど、鏡子は何も言わず、私の背中を優しく摩った。
「詠ちゃん。わたしは詠ちゃんの味方だから、何があっても信じているわ」
心を染み渡る澄んだ声。私は大きく息を吐いて出てきそうな涙を引っ込めた。そして、鏡子の顔を見てにっこりと笑い、そのまま唇を重ねた。
大丈夫だから、と。
それからしばらく続くは平穏な日々が続いた。平穏という平穏ではないけれど、表面上は平穏だった。近江くんもなにかしてくるわけでもなく、以前と変わらぬ様子。ただ、私はほんの少しだけ鏡子に冷たく接しているところがあった。
近江くんの前では尚更。
女の顔と言われたことが腹立たしく、屈辱だったから。
梅雨入りしてからやっぱり雨の日が多く、私の心を表しているようだった。しかし、プール開きの日は見事に晴れていた。雲ひとつなく、カラリとした暑さ。私は体育をズル休みし、日陰に置かれているベンチに座って見学していた。
日陰といえど、肌はじんわりと汗で濡れていた。水着に着替えた生徒がぞろぞろとプールサイドに出てきて、列を作る。点呼を終えて、体育委員の子が前に立つと、一斉にラジオ体操を始めた。照りつける日差しが生徒の肌をジリジリと焦がしていく。
去年、鏡子は溺れていたけど、今年は大丈夫だろうか。
鏡子が泳ぐ番になって、私は鏡子に焦点を当てた。ほっそりとした体が水に浸かる。
ピーッと笛の音が鳴り響くと、鏡子は息を吸い、水中に潜った。壁を蹴って、体を伸ばす。力抜かないと浮かないからね、鏡子。二十五メートル泳げなくていいから、まず浮くところ、ね。
私の心配も鏡子に届くわけもなく、私はハラハラしながら見守る。
泳げない人のコースだから、とりあえずはどんな形であろうと、途中で足がついてもいいから泳ぎ切ることが目標とされていた。
静かにゆっくりと浮かび上がってくる鏡子の体。小さなおしりが水面から顔を出し、肩甲骨あたり腕、後頭部が無事に姿を表した。そして、腰が沈み、顔を上げた。またプールの底を蹴って残り十メートルほどを泳ぎきった。プールサイドに上がると先生が、ジェスチャーも交えながらバタ足のコツを教えていて、鏡子は何度も頷いた。
透き通る肌から水滴が滴り落ち、床にシミを作る。水着が肌にピッタリとくっつき、体の細さを際立たせる。ふともものむっちり感やたいして大きくもない胸に視線が向いてしまう。
「詠ちゃん、どこ見てるの?」
私が見ていたことを知っている余裕のある声。
「いやー、きれいな足だなーと思って……あはは」
「詠ちゃんのえっち」
鏡子は頬を染め、頬を膨らませた。それからすぐに吹き出して、私の耳元に顔を寄せる。
――だいすき。
ぼそっとそれだけを言うと、鏡子は小走りで泳ぎに戻った。引き留めようと思ったが、不意打ちを食らい、目を丸くしてぼーっとしてしまった。
「おいこら、志賀! プールサイドを走るな!」
「ごめんなさいっ!」
放課後、最悪なことに近江くんと二人きりだった。頭を抱えたくなる。部室に入った瞬間、近江くん一人だけだったとわかり、私は回れ右をして帰ろうかと思ったぐらいだ。できるだけ同じ空間にいたくなくて、鞄を置いて、トイレに逃げるために部室から出ようとしたときだった。
体を後ろに引き寄せられ、かたい何かにあたった。
何が起きたかわからず、体が固まり、思考も停止する。
「橘先輩っていいにおいしますね」
全身が一気にぷつぷつと粟立ち、吐き気をもよおした。胸元の前で交差された腕のせいで、身動きが取れない。
こんなところ人に見られてみろ、勘違いされるに決まってる。どうにかして早く抜けなければ。けれど、体が硬直し、動かない。声も、出ない。声を出そうとすると、喉で詰まって息だけが漏れた。
私は、近江明人が怖い。
体格差だけじゃなく、私には理解出来ない思考、行動。別の惑星から来た宇宙人を相手にしているようだった。
階段を上ってくる音がする。聞こえてるのに、動けない。足音はだんだん近づいてくる。角から現れる人影。揺れるスカート、黒髪が見えた。
ひなちゃん。
「えっ!」
ひなちゃんと目が合い、ひなちゃんの目が大きく見開かれた。口がパクパクと動き、首まで真っ赤にすると、
「ご、ごめんなさーい!」
叫びながら急いで階段を降りていった。
終わった。絶対勘違いされた。弁解もできない自分が嫌になった。膝が砕けてその場にへたり込む。近江くんは何事もなかったかのように鞄を手にとった。私の横を通り過ぎ、一歩二歩歩くと顔だけ後ろを向けた。
「橘先輩、僕用事思い出したので、お先失礼しますね。ではまた明日」
どのくらいそこにお尻をくっつけていたのか、青空だった空は赤く染まり、カラスの鳴き声が聞こえた。
「顔、洗ってこよ……」
陽炎のように立ち上がり、部室を出てトイレに入った。蛇口をひねり、手に水を溜める。水を顔に浴びせて気分を入れ替える。体を洗いたいとは思うが、家に帰るまで我慢だ。蛇口から流れる透明な水が螺旋を描いて洗面ボウルに飛沫を飛ばす。飛び散った水滴が集まり、排水口に吸い込まれていった。
鏡に映る自分の顔。濡れた前髪が束になって、雫が頬を伝って下に落ちる、涙のように。
水を止めて、両手で頬を叩いてからトイレを出た。
部室に戻ると鏡子とひなちゃんがお菓子を頬張りながら談笑していた。私を見るなり鏡子がクッキーを突きつける。
「詠ちゃん、どこいってたのよ、鞄置いたまんまで」
無邪気な笑みを私に向ける。喉に熱いものがこみ上げてきて、視界がぼやけた。ここで泣く訳にはいかない。無理やり涙を引っ込めてクッキーを受け取った。
私を見たひなちゃんが何かを思い出したようにハッとした顔をして、頬が落ちるほどにんまりと笑う。
ひなちゃんはとんでもない事を口に出した。
「明人くんとよみ先輩がハグしてるところ見たんですけど、付き合ってたんですね!」




