69話 ストーカーとストーカー
湿気の多く含んだ空気が日本中を支配していた。
髪が湿気によって広がっている。櫛でといても戻らず、結局諦めた。雨粒が窓ガラスとノックして、学校に早く行かないと遅刻するぞと急かしてくる。夏服に着替えたいぐらいの暑さ。夏本番より梅雨の時期の暑さのほうがタチが悪い。夏の暑さを盗んで、地上にばらまいているようだ。
急いで靴を履き、傘立てに立てかけられた傘を乱暴に抜いて、ドアに手をかける。
「お母さん、いってきまーす!」
「いってらっしゃい、傘持っていくのよ」
「ちゃんと持ってる!」
ドアを押し開けると雨粒が斜めに降っているのがはっきりと見えた。どうやら風も強いらしい。ドット柄の傘をさしてから、数段の階段を降りてあるき出す。
鏡子を待たせないように少し早歩きで行こう。
雨の日は好きじゃない。靴下や鞄、肩が濡れるから。
ところどころで薄紫色や水色のあじさいが咲いて、雨粒で濡れていた。
桜色の傘をさして、傘から見える長い二本の三つ編みの少女。鏡子は私の足音に気づきこちらを振り向く。なにか言っているようだったが、傘にあたる雨の音で何も聞こえない。小さな唇が一生懸命動いて、笑っていることぐらいしかわからない。鏡子のところまで走ると、地面を覆う薄い水たまりが跳ねて靴下にシミを作った。
「鏡子、ごめん。遅くなった。いこっ」
「気にしなくていいわ。遅くなったと言っても、遅刻しない程度だもの」
憂鬱を運んでくる雨も、鏡子の前では効果がなかった。梅雨ですら吹き飛ばしてしまいそうな朗らかで優しい笑みに癒やされた。
お昼休み、鏡子は思い出したように「あ」と言葉を漏らした。
「詠ちゃん、放課後先に部室に行っててくれないかな。他のクラスの子にちょっと呼ばれてるの」
「あー、うん、わかった」
放課後。私は先に部活に行くふりをして、バレないように鏡子の後をつけた。最近、鏡子は部活に来るのが遅いことが多い。休み時間も目を離すとどこかに消えて、会話も以前に比べ激減していた。
これはストーカーじゃない。断じて違う。誰がなんと言おうとストーカーではない。
階段の影からこっそりと覗くと、食堂の方へ向かっていた。見失わないように、そして見つからないように慎重に歩みを進める。朝に降っていた雨はすっかり止んで、ゲコゲコとカエルの鳴き声がはっきり聞こえた。
食堂をとおりすぎ、自販機の前もとおりすぎ、そこを曲がった。渡り廊下を一度通り過ぎる振りをして様子を横目で見る。鏡子と、誰か知らない男の子。
心がもやもやする。
私はジュースを買うフリして自販機の前に立った。耳をダンボのように大きくする気持ちで、呼吸ですら聞き逃すまいと聞き耳を立てる。
「志賀さんっ……!」
切羽詰まったような、緊張を纏う言葉を聞き取る。何一つ音を立てないように息を殺して声だけに集中する。
ジメジメとした暑さが体に張り付いて、気持ちが悪い。
「俺、志賀さんがす――」
「あれ、詠先輩、そこで何してるんです?」
肩をポンと叩かれ、心臓がはね上がる。悲鳴が出そうになるのを口を閉じてなんとかこらえた。振り向くと、部活前であろう伊知さんが立っていた。
「ごめん、ちょっと静かに……。た、たまたまここにきたら鏡子の声が聞こえて……それで様子を見てたって言うか……なんていうか」
歯切れ悪く答えると、伊知さんは凛々しい顔を崩して、ニカッと笑った。
「ストーカーかと思いましたよ。続きが気になるところですが、部活がもう始まっちゃうのでこれで失礼します。またお話聞かせてくださいねー!」
礼儀正しくお辞儀をして、くるりと背を向けると体育館の方に走っていった。ほっと胸をなでおろし、もう一度二人の会話に集中する。
「えっとー山田くん。返事なのだけど……」
もちろん、ノーだよね?
鼓動を嫌という程に感じ、嫌な汗がにじみ出てきた。
「あの、なにしてるんですか、橘先輩」
せっかくのところなのに!
今度は近江くんに声をかけられた。
「鏡子が告白されてるっぽいの。たまたま見つけただけなんだけど」
私が小声で話すと、近江くんは自販機の向こうを見つめて、一呼吸置いてから「へえー」と呟いた。
「志賀先輩ってモテるんですかね」
「どうだろ、わかんない」
「橘先輩、ストーカーですか」
「いいえ!」
「でも、やってる事ってス――」
「違う、私は、違う。違う」
そう、ストーカーじゃない。これはストーカーじゃない。ただ見守っているだけだ。
「まあいいんですけど……僕、先に部室に行ってますね」
近江くんはつまらなそうに言うと、足音もなく部室へと向かった。
「わたしには好きな人がいるから、ごめんなさい」
鏡子の声が聞こえた途端、心の中でファンファーレが鳴り響いた。思わずガッツポーズをしてしまいそうになり、顔も綻ぶ。
私はその返事に満足し、抜き足差し足でその場から立ち去り、階段を一段飛ばしで上った。
部室に行くと、静かに読書をしている近江くんがいた。
「ひなちゃんはまだなんだね、それに読書なんて珍しい」
近江くんは本から目を離して、「たまには、読みます」と微笑んだ。鞄をソファに置いて、近江くんの目の前の席に座る。
ふう、とひと息つくと、近江くんは私の目を見据えた。眼鏡の奥に見える鋭い眼光。
ガラリ変わる雰囲気。緊張感のある嫌な空気に入れ替わった。
「橘先輩って……志賀先輩のことすごく好きですよね」
突然のことに心臓を貫かれたような痛みが生じる。
いつもの感じで「志賀先輩のことすきなんですね」と言ってくれたら、私も素直に「すきだね」といってたかもしれないけど……。あなたの事なんてお見通しですよ、みたいな声の出し方や言い方されるとなんだか怖くて、本心を隠してしまう。
いきなりなんでそんなことを!
近江くんの視線を避けることもできず、私はぶっきらぼうに、
「そんなことないよ、普通だよ。普通」
「普通、には見えませんけどね。橘先輩、志賀先輩と話してるとき自分がどんな表情してるか知ってますか」
近江くんの目には怒りが灯っていた。畳み掛けるように近江くんが言葉が私の頭を殴った。そんな事言われても、自分がどんな表情しているかなんてわからない。他の人と話しているときと変わらないと思っていたから。
「女の顔してるんですよ」
全身に冷水を浴びせられた気分だった。性自認は一応女性だとわかっているが、橘詠は女であると好きでもない男に突きつけられたことが屈辱だった。スカートの上においた拳に力が入り小刻みに震える。眉がピクピクと震える。
窓を乱暴に叩く雨や強い風。
「そんな顔しておいて、志賀先輩のこと普通って? 笑わせないでくださいよ」
「……」
「だんまりしちゃってどうしたんですか」
「ごめん、今日は帰る」
席を乱暴に立ち、ソファに置いていた鞄を掴んだ。
「どうして帰る必要があるんですか? 志賀先輩のこと好きって認めたくなからですか」
違うそうじゃない。そうじゃないけど、うまく言い返せない。近江くんを無視して部室から出ようとした時だった。
「志賀先輩のこと好きじゃないんですか? 好きですよね? 認めたらどうですか。認めたところで奪ったりしませんよ? ねえ、橘先輩」
私は近江くんに背を向けたまま、感情任せに部室を満たすほどの声で叫んだ。
「鏡子のことなんて好きじゃないよ! 近江くんがなんのためにそんな事するのかわからないけど、そういうの私は嫌い!」
私は部室を飛び出して、傘も忘れて家まで走った。口から出まかせ言ったにもかかわらず、鏡子のことを嫌いじゃないと言ってしまった。その罪悪感に押しつぶされそうで、私は自分の殻にこもるしかできなかった。




