67話 愛に溺れる
「いらっしゃい、鏡子ちゃん」
「お邪魔します、これ和都からのお土産です。それから、鏡子がいつもお世話になってますと伝言を預かってきました」
翌週の土曜日、鏡子が私の家に遊びに来た。お母さんは鏡子から紙袋を受け取ると嬉しそうに頬をほころばせた。細い足を形どる黒のスキニーパンツ、上は白いゆったりした服を着ていて、髪もポニーテールだった。
お母さんが紙袋を手にリビングに消えると、私たちは自然と手を繋ぎ、階段を上る。会話もなく、頬に帯びる熱を感じながら、一段一段丁寧に。手も解けないように、しっかりと絡めて。
部屋のドアを閉めると、もう完全に密室となった。愛しそうに目を細める鏡子。背中に手を回して強く抱き締めた。
「やっぱり、いい匂い……」
「やだもう、詠ちゃんったら」
片手で私の腰に手を回し、もう片方の手は私の頭を撫でた。
日々の疲れが浄化されていく。体が軽くなるのを感じた。鏡子の温もりに浸っていると、階段を上る音が聞こえる。急いで体を離し、電気をつける。
「ここ、すわろ。私の隣じゃなくて向こう! えっとカバンは……好きなところに置いて!」
慌ててテーブルを挟んで面と向かって座った。それとほぼ同時にドアをノックする音と「はいるわねー」の声。返事をすると、ドアノブが開き、おぼんにりんごジュースとロールケーキを載せたお母さんが入ってきた。
「鏡子ちゃん、お土産ありがとう。二人も食べなさいね」
テーブルの横に腰を下ろし、カタンと小さな音を立てて食器を置く。その様子を見届けたあと、お母さんは「じゃあ、ごゆっくり」と言い残して去っていった。階段を降りる音が聞こえて、安堵のため息をつく。体の力が抜けて、隣のベッドにもたれかかった。
「いただきまーす。このロールケーキ、和都が出張に行ってきた時にお土産で買ってきてくれたのよ。雑誌に載せる予定のケーキやさんらしいわ」
普通のロールケーキではないということは見た目でわかる。外は、桜色の生地で、中のクリームに水色の寒天のようなものが埋め込まれ、お砂糖を上からまぶしているようだった。メルヘンチックなロールケーキ。
鏡子は、一口大に切り、フォークで突き刺すと、ゆっくりと口に運ぶ。血色のいい薄い唇が開き、白い歯が見えた。ロールケーキが口の中に吸い込まれる。フォークを口から抜くと唇に白のクリームやお砂糖がついていた。
「おいしー、甘さ控えめで食べやすいわ」
さくらんぼみたいに赤い舌が唇についたクリームを舐め取る。唾液が唇を濡らして艶を産んだ。
「詠ちゃん、わたしの口になにかついてる?」
「え、あ、いや、別に何も。ちょっとぼーっとしてた」
鏡子の問いに我を取り戻して、ベッドから体を起こす。座布団の上に座り直して、ロールケーキを口に入れた。
鏡子が遊びに来た時、何をするかはだいたい決まっていた。雑談や、読書や、ベッドに二人寝転んでお昼寝。会話なんてないが、この心地良さに身を浸して、どこからともなくやってくる眠気に流されていく。
夢と現実の近くを行ったり来たり。
「この前のお返ししないとね、詠ちゃん」
この前のお返し? 私はなにかプレゼントした記憶はない。
暗闇から、ベッドの軋む音、さっきより近くに感じる鏡子の体温、毛布とシーツがこすれる音がわかった。うっすらを目を開けるとそこに鏡子の紅潮した顔があった。春休みのときのように、私に覆いかぶさっている。眠気が一気に吹っ飛び、全身に血がマグマのように熱く巡っていることを感じた。
窓から差し込む日の光が鏡子を照らし、瞳に妖艶さと光を宿す。
「お返しって……」
かすれた声が漏れた。
鏡子は首を傾けて、いたずらっぽく笑う。艶のある唇が薄く開いて、わかってるでしょと言わんばかりに「おかえし、よ」と呟いた。
顔を横に向け、『お返し』を拒む。私の顔の横に置いていた白い手が枕と頬の隙間に滑り込み、強制的に顔の向きを直される。さっきよりも顔が近くなっていて、長いまつげや潤んだ瞳に金縛りになったように体が動かなかった。
呼吸の仕方も忘れてしまいそうで、この雰囲気に飲まれてしまう。
「お返しっていうか……、わたしがは詠ちゃんにキスしたいの」
「鏡子……」
「詠ちゃんは、したくない?」
鏡子の落ち着いた色っぽい声に頭がしびれる。視線をそらしたいのに、そらせない。体が熱い。
「したい」
そうつぶやいた瞬間私の中で何かが崩れた。鏡子の首にゆっくりと腕を回す。お互い目を閉じていく。
鼻先が軽くぶつかり、距離が近づいていることがわかった。甘い吐息が唇にかかる。
唇は乾いてないだろうか、口臭は大丈夫かなと頭の遠くでぼんやりと心配になった。心臓がうるさい。胸に鏡子の胸があたる。心臓の音伝わってしまう……。私だけ鼓動が早いと思ったけど違った。鏡子の心臓も早く動いている。
そして、唇にあたたかくて、やわらかい感触が重なる。
心臓が止まる気がした。
唇は数秒後に離れたが、私にとってはもっと長い時間しているように思えた。
「キス、初めてした……」
「私も」
目を合わせて、恥ずかしさのあまり笑ってしまった。
なんて幸せな休日の午後なんだと思っていると、足音がして、ドアがいきなり開いた。頬が赤くないか気になりながらもベッドから降りる。
「あー……えっと、詠たちにちょっとの間留守しててもらわないといけなくなっちゃって伝えに来たの」
「あー、そうなんだ」
お母さんは私の顔をちらりと見たあと、私の部屋を一瞬見た。鏡子を視界に捉えると「ごめんね、せっかく遊びに来てくれたのに留守頼んじゃって」と謝った。
お母さんは「じゃあ行ってくるね」と言い、足早に外へ出ていった。
フラフラとした足取りでベッドに戻り、鏡子にまたがって抱きしめた。体を少し離して、鏡子の輪郭に手を添える。
「ねえ、鏡子、さっきのもっかいしよ……」
鏡子は一瞬驚いた顔をしたあと、嬉しそうに笑みをこぼして目を閉じた。鏡子の肌は透き通るようで、小さな唇も長いまつげも私だけのものにしたいぐらい可愛らしい。
顔を近づけて、薄く開かれた唇にキスを落とした。
「好き」
口を離して言葉をささやくと、鏡子の口元が笑い「詠ちゃん、すきよ」と返ってきた。もう一度唇を押し付けて、唇の感触をしっかりと味わう。
する度に頭がぼーっとして、もっと欲しくなって、体も熱くなった。
これから起こることも知らずに、愛に溺れた。




