6話 雨は恋を歌う
ドアを開けると、鏡子は読書をしていた。
机の上に日記を広げて、そばには開かれたノートが置かれている。
私には気づいてないようで、読書をしながらお菓子に手を伸ばしている。
「鏡子」
私が声を掛けると、鏡子は本を後ろに隠し、伸ばした手を引っ込めた。隠さなくても知ってるよ。
お菓子は半分ほどに減っている。
「お、おかえりなさい」
「はい、これ」
鏡子の前に缶コーヒーを置く。鏡子はそれを見て目を輝かせて、缶を両手で握り、頬に押し当てた。
「ひんやりとして気持ちいー」
鏡子は缶コーヒーを開け、一口飲むと表情が引き締まり、日記と向き合った。
私もノートを取り出し、日本史の授業の時に写した表のページを開く。
「この日記には十四種類のカタカナが使われていて、上杉暗号も十四種類よね。
ということは、この数字の部分をカタカナに置き換えてみるのはどうかしら」
私は鏡子の言う通りに、数字を消した。横の列に、イロハニホヘト。縦の列にチリヌルヲワカ。と書き換える。
そして、手紙を隣に置いて、照らしあわせた。
六月十三日。
ヘチニヲトリイカイヌイカ゛ニヌヘカホカイチロルニヲホカ゛ヘカハチ小ニヌロカ。
イカハカロリニヲホリハヲヘリトワイヌ、ロカハカヘカヘワイルハカイチホカニワニチハヌホリヘカハリ。
ヘヌハチ小ニヌトヌ、ハルニチイルイヌニカイリイチイカロリロカ゛イカトワホカ゛イチホリトヲ。
あれ……。これで解読成功と思ったのに。なんだこの文章は。
小のところはわからなかったのでそのままにしておいた。
ただ、元の日記の「トヲ」は濁点だということが分かった。濁点がつく行は、カ、サ、タ、ハ。
「何が違ったのかしら……」
そういいながら、鏡子の手はお菓子へと伸びていく。
どこが違うんだろう。
これで五歩ぐらい前に進めたと思ったのに、実際は一歩しか進んでいない。
上杉暗号じゃないってことなのか?
チョコチップクッキーを親指と人差指で掴み、口に入れた。
糖分補給、糖分補給。一旦休憩を取ろう。そう思って、ペットボトルに手を伸ばした。
が……ない。置いていた場所にない。
「オレンジジュースおいしーい」
鏡子を見ると、手には私のオレンジジュースを持っていた。
「それ私の!」
鏡子は、きょとんとして「これもわたしのじゃなかったの?」と聞いてきた。
なんで二本も人のために飲み物を買うんですか。いや、私もオレンジジュース好きだからってオレンジジュースを買ったのも悪いかもしれないけど……。
私は頭を抱えたくなった。
「今度から気をつけてね」
私が優しく叱ると、鏡子はほののんと答えた。
「はあい」
私は鏡子の教育係か。
幸いなことにジュースはそれほど減っていなかった。
チョコクランチを噛むと、濃厚なチョコの甘さが舌の上に乗っかり、サクサクと気持ちのいい音を立てた。舌にチョコが張り付く感じがして、水分を欲する。
ジュースを買ってきていて正解だった。もし、チョコのお菓子を食べた後にお茶を流し込めば、なんとも言えない味が口内に充満し、舌の上にチョコの張り付いた感じが残ったままになっていただろう。
オレンジジュースで流し込んで、口の中をリセットする。
さっきの「トヲ」が二文字で一文字を表しているのだから、きっと他の文字も二文字で一文字を表しているはず。
上から二文字ずつ区切っていって、小のところは小文字なのだろう。
小文字はセットになるひらがなは基本的に、「き」「し」「ひ」「み」「り」だけのはず。
解けてきた、解けてきた。
私は新しく、縦七横七になる表を書き、イロハを横と縦に振ってから、トとヲが交わる部分に濁点を書いた。
ひらがなは、四六文字で、濁点は四七文字目に書かれている。
分かったところを、日記に書き記していく様子を鏡子はお菓子を食べながら見ていた。
何か言おうとしているが、食べ物を口に入れたまま話すのは避けたいようで身振り手振り意見を伝えようとしている。
紙があるんだから書いたらいいのに……。
そう伝えようとしたが、必死な姿が面白くて言わなかった。
喉を鳴らして飲み込むと、鏡子は口を開いた。
「表の中を、イロハじゃなくて、あいうえお順にしてみるのはどう?」
「それいいね」
イロハに囚われすぎて見失っていた。
濁点以外のイロハを消して、あいうえお順に書き直す。
そして、照らし合わせた。
「イチが「あ」、ニルが「の」……」
ああ、読めてきた。これだ。
鏡子の発言は当たっていた。
そしてその勢いのまま、六月十三日と八月一五日の日記を解読した。
六月十三日。
あのひとはどうしているのでしょうか。
となりのまつさんは、かなしみにないておられました。
きょうも、そらにはくろいとりがとんでいます。
八月十五日。
きょうのおひる、にほんはまけとしりました。
あのひとのすがたを、ひとめでいいからみたいです。
戦争と恋を綴った日記?
「黒い鳥ってのは、戦闘機のことかしら」
「戦時中の日記だろうから、そうだね」
「きっと、あの人というのは恋人か家族、片思いの相手でしょうね」
八月十五日、お昼、日本は負け、という単語から終戦を迎えたに違いない。
鏡子はこの日記をどんなことを思いながら読んだのだろう。
しとしとと雨が私の心にも降ってきた。
恋なんてしたことないけれど、想像ぐらいはできる。
自分にとって大事な人がどこか遠くに行って、連絡もなくどうしているか生きているかすら分からない。
戦争中で、生きることに精一杯でいつ死ぬかわからない中。大事な人を考えることで、生きる希望を見出していたのかもしれない。
そんな中で日本の敗北を知り、そんなことよりも大事な人のことが気になって仕方がない。という感じだろうか。
考えるだけでも、胸が苦しくなる。
鏡子は長いまつげを伏せて、口の前で指先を合わせていた。鏡子も想像しているのだろう。
「詠ちゃんは、もし、恋人が突然遠くへ行っちゃって、連絡も取れなかったらどうする?」
ちらりと私を見て鏡子は私に問いかけた。
その声は雨に溶けてしまいそうなほど儚げだった。
私に恋人がいて、その恋人が遠くへ行ったら。しかも連絡が取れない。安否が分からない。不安に駆られる。焦燥感に煽られる。でも、どうすることもできなくてやるせない気持ちがずっと心に渦巻いている。
そんな中でどうするのか。
今まで以上に恋人のことを考えてしまって、思いは募る一方で。きっと、何も手につかなくて、そのまま生きる気力とか失っちゃうのかな。でも死ぬのも嫌だから地面をはってでも生きるのだろう。
「たぶん、廃人のように生きているだけ」
きっとそうなる。
私は強い人間じゃないから。
「鏡子は、どうすると思う?」
鏡子はゆっくりと目を閉じて開いた後、唇を動かした。
「わたしは笑って生きるわ。いつ恋人に会ってもいいように、いつものように笑っているの」
唇の端が上がり、笑みが浮かんでいた。
ああなんて強い人なのだろう。
不安とか心に抱いてしまうだろうに、笑って生きるだなんて。私には出来ない。仮にそれが口だけだったとしても、私にはそんな事言えない。そんな自信がこれっぽっちもないもの。
鏡子は残り一枚のチョコクッキーをつまむと私も口元に持ってきた。
「詠ちゃん、あーん」
言われるがまま口を開けた。唇が鏡子の指先に触れる。クッキーを歯で挟み、受け取った。
口の中にしつこくない甘いチョコの味が広がって、しんみりとしていた心を包んだ。
「おいしい」
感想を口にすると、鏡子はいつもみたいな太陽のように明るい笑みを浮かべた。
「十分だけ物語を書いて、今日は帰りましょうか」
鏡子は鞄からスマホを出して、ロック画面にある時間を見た。
「お題は、そうね……「花束」で書いて」
机の中から原稿用紙を取り出して、準備をした。
「じゃあ始めるわよ、よーいスタート」
花束か。さっきの日記を少し意識したのかな。
そうだ、うん。これにしよう。
十分しかないから、あまり長くは書けないな。
私はシャーペンを握り、空白を埋めていった。
そして十分後。
「終了! さあ見せて」
原稿用紙数枚を手渡した。私の物語に目を通していく。最後のページに差し掛かった時、鏡子は口元に笑みを咲かせた。原稿用紙を机に置き、私の目を見る。
「旦那さんが、結婚記念日だからと奥さんのために花束を買って帰るのね、素敵。
でも、実は奥さんは既になくなっていて、微笑む奥さんの遺影に向けて花束を置き、プロポーズの言葉を告げるなんて……いいわね、こういう夫婦愛。羨ましいわ」
お気に召したご様子で私も嬉しくなった。
ありきたりな話かもしれないが、それでも構わない。私の言葉で書いた話なのだから。
私の物語なんだ。
「わたし、詠ちゃんの書く物語好きよ。筆跡も好き」
「ありがとう」
「さあ、帰りましょう!」
下駄箱から外にでると、雨はまだ降っていた。
「詠ちゃん、お願いがあるのだけど傘に入れてくれない?」
「傘もってこなかったの?」
「雨、降らないかと思って」
私は傘を広げて、鏡子を入れた。大きな傘ではないから、二人の肩が片方ずつ出てしまう。雨で濡れて肩にシミを作っていく。
鏡子の家ってどんなのだろう。木造なのかな。部屋とか畳が敷いていそう。
完全に見た目からの想像だ。
「雨雨ふれふれ母さんが蛇の目でお迎え嬉しいな」
鏡子は明るい曲のはずを切なく歌い上げる。
「ぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん」
俯いて、雨に濡れた道路を見ながら歌い終わると、前を向いて満足そうに微笑んだ。
別れ道を左ではなく右に進んでいく。ゆるやかな坂を登って歩くと、家の数が減っている。完全なる住宅街から離れ、ほんの少し田舎っぽいと思った。時々畑があったり、家と家は多少距離があるからだ。
「ここよ」
鏡子は足を止め、体の方向を変えた。
おしゃれな白い塀に白い二階建ての洋風な家だ。この見た目にしてこの家、真逆だ。
花壇に咲いた紫陽花に雨粒が溜まっている。
「送ってくれてありがとう、じゃあまた明日」
私に頭を下げると、鏡子は門を押して中に入った。
鏡子の家に背中を向け、一人になって幅の余る傘をさしたままあるき出す。
家につく頃にはすっかり夜になっていた。