61話 進んだ関係
それからあっと言う間に春休みを迎えた。鏡子とは恋人になったものの、友達のときとたいしてかわりはなく、変わったといえば、抱きつく回数が増えたことと手をつなぐ頻度が高くなったことぐらいだ。
春休みに入って一週間ほど経ち、キャンプの日を迎えた。天候は晴れ、春らしい暖かな気温でキャンプ日和。鏡子宅に車で向かい、そこからは紫さんの車についていった。
車を走らせること一時間半。
「とうちゃーく!」
お母さんが車を止めた途端、嬉しそうに声を上げる。
車から出ると、冬の冷たさをまだ残した風が迎えてくれた。荷物をおろして、駐車場から見えていた管理棟に行った。中に入ると、木の穏やかな匂いが鼻孔をくすぐった。受付カウンターには白髪のお爺さんが椅子に腰掛けてテレビを見ている。私達に気づくと、重そうに腰をあげて「いらっしゃい」と声をかけた。私達は軽く頭を下げて、紫さんがカウンターに近づく。
私はお母さんと鏡子から離れて、壁に飾られている数々の風景写真に吸い寄せられた。額縁の中に閉じ込められた澄み渡る空や新緑に輝く山。白く化粧された冬の山や、名前はわからないが小さくて、お腹が飴色の鳥が枝に止まっている写真も飾られている。
後ろの方で紫さんとお爺さんのやり取りが聞こえた。
「鍵だよ、五つ目のコテージだよ。ドアのところに、葉っぱのマークがあるからね。それから夜は川辺にいっちゃいけないよ、危ないからね」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
「ああ、そうだ、それから……」
「詠ちゃん」
紫さんの声に似た、澄んだ優しい声が耳に届く。後ろを向くと、鏡子が立っていた。大きめのトートバッグを肩から下げて、にっこりと微笑んでいる。髪型も、後ろじゃなくて横で三つ編みをしてていつもと違う。
鏡子と学校以外で、私服で会うのは久しぶりだ。しかも今の関係は、恋人。鏡子が恋人だと言うことを意識すると頬がいつも熱くなった。さっと目を逸して、たどたどしく、
「あー……えっと、ほら、紫さんが鍵受け取ったよっ。そろそろ戻ろう」
「詠、鏡子ちゃん、行くわよー」
鏡子のそばを通り過ぎようとしたとき、鏡子が私の手に触れた。思わず足を止め、鏡子の方を一瞥する。鏡子の視線が左右に泳いだあと、ほんのりと頬を染めて、私と視線を絡めた。それから、小指と薬指を控えめに握る。
「だめ?」
潤んだ瞳が、私の心をぎゅっと締め付ける。
「あーもーはいはいわかったって」
呆れ気味にそう答えると、鏡子は、嬉しそうに目を細めて、唇の端を上げた。手をつないだまま、お母さんたちのあとをついていく。同じようなコテージをいくつも通り過ぎ、五つ目のコテージに着き、足を止める。
二階建てで、ダークブラウン色の屋根が乗っかっている。キャンプ地と聞いてよくイメージされそうなコテージだと思った。コテージ同士、距離はあるため周りをあまり気にしなくていいのも嬉しい。
玄関を入ってすぐ、リビングとキッチンがあり、リビングは吹き抜けになっていた。荷物を玄関口におろして、靴を脱ぐ。フローリングは冷たく、靴下越しにでも感じることができた。リビングに設置されている白く大きなソファと、ローテーブル。キッチンも白く、テーブルと椅子は木製で、色も統一感がある。
結構好きかもしれない、ここ。
リビングの端から伸びた階段を登ると、セミダブルベッドが二つ並んでいた。ベッドと、小さな丸いテーブルがあるだけで、それほど広くはないようだ。
「二階、どんな感じー?」
一階からお母さんが私に向かって叫ぶ。二階の柵に手をおいて、顔をのぞかせ、「ベッドが二つで、そんなに広くないよ!」と叫び返す。私の声を聞くと、お母さんが小さく唸った。
「ベッドが足りないわね、あと二つは別のところにあるのかしら……」
私は階段を降りて、部屋の探索を続ける。鏡子はリビングの大きな窓を開けて、部屋に風を通し、「涼しい」と嬉しそうに微笑む。紫さんはキッチンの引き出しを開けたり、冷蔵庫の大きさを見たり、水を出してみたり、性能を見ているようだった。
広いリビングとキッチンの横を抜け、部屋の奥へ続く廊下に進む。トイレ、お風呂場があり、その隣に扉があった。中を覗くと、そこにベッドが二つ。これで計四つ。ベッドが足りることを確認して、お母さんに報告した。
安堵の表情を浮かべ、パンッと大きく手を叩く。お母さんに注目が集まると、お母さんと紫さんが目を合わせ、「詠と鏡子はそこにいなさい」と言い残して、コテージから出ていった。
鏡子はリビングの隅においた荷物から本を取り出して、ソファに腰掛ける。私も、鏡子の隣に座り、本の内容を盗み見た。
ハルの飼い犬――コムギが私を見て、バウバウと大きく吠える。ハルはコムギを抱き上げると一度部屋の中へ連れ戻し、「ごめんね」と困ったように笑って、私を家にあげた。初めてのハルの家。靴を脱いで、ハルに案内されるまま階段をのぼる。階段を登ってすぐ、右手の部屋のドアには『ハル』と書かれたネームプレートがぶら下がっていた。
閉ざされていたドアが開かれる。
「さあ、入って」
天に導かれるかのような優しい囁き。私は、生唾を飲み込み、ハルの部屋に足を踏み入れた。
この文章、読んだ覚えがある。読んだ覚えがある、というか私が書いた文だ。
「あの、鏡子……」
鏡子に手を伸ばして、赤ちゃんの肌みたいにやわらかい頬を指先でつまんで、引っ張る。鏡子は読みかけの本を膝の上において、私の方を向いた。
「いはいわ、よひひゃん」
白い頬が引っ張られて、白い歯と赤い歯茎がちらりと見える。鏡子は目に涙を浮かべて、痛い痛いと声を漏らす。
私は頬を引っ張ったまま鏡子に問いかけた。
「今、鏡子が読んでた本は、私の書いた小説だったよね?」
鏡子は小さく何度も首を縦に振った。指を離すと、掴んでいたところが赤くなって、鏡子は頬を手で押さえた。
「もう、痛いわ詠ちゃん。いきなりなんなの?」
「なんで、よりによってその本を、今日、持ってきたの!」
鏡子が本がとても好きなことはよくわかっている、所構わず読書をすることもわかっている、古今東西ありとあらゆる本を読むこともわかっている、そんな沢山の本がある中、どうして今日、どうして私の小説を持ってきたのか。私は怒っているわけではない。恥ずかしいのだ。嬉しいけれど、恥ずかしいほうが強い。
鏡子は膝においていた本を口元まで持ってきて、目を細める。
「だって、好きなんだもん」
負けた。
はにかむ笑みに私は負けた。首から耳まで熱くなるのを感じて、顔を背ける。鏡子はテーブルに本を置くと、私を抱き寄せ、そのまま太ももの上に私の頭を移動させた。鏡子の匂いがふわりと香る。顔を見られたくなくて、鏡子に背を向ける。
鏡子はクスリと笑って、私の頭に手を乗せる。そのまま手を滑らせて、幾度も私の頭を撫でた。時々、指が私の耳に触れて、背筋が伸びる。鏡子に頭を撫でられると、だんだん眠くなってくる。手足があたたかくなって、意識が下に落ちていく。
「だいすきよ、詠ちゃん」
遠くで鏡子の声が聞こえた。
もうこのまま眠ってしまおう。幸せを感じたまま寝てしまおう。
その時。
ドアに向かって近づく足音と楽しげな笑い声が聞こえてきた。体を起こして、乱れた髪を整える。そして、鏡子と少し距離をとって、いかにも今までずっとスマホ触ってましたよという表情に変える。鍵が開く音がして、顔を上げた。
「たっだいまー! バーベキューの時間だー!」
ご機嫌なお母さんは両手にレジ袋にいれた野菜を掲げ、クーラーボックスに入れたお肉や飲み物を肩からぶら下げていた。一方で、紫さんはバケツに入った火鉢や墨を手に現れた。
「お母さん達は先に準備してるからね」
腰を上げてスマホをジーンズのポケットにしまう。
「鏡子、行こ」
「そうね、行きましょ」
お互い顔を見合わせ、お母さん達の元へと向かった。
久々の投稿。




