58話 行く末
卒業式を前日に控えた日曜日、アリス先輩の自宅に鏡子と訪れていた。
「何度来ても大きな家だよね」
「そうね、わたしも来るたびにびっくりするもの」
澄み渡る空の下、閉ざされた大きな門が立ちはだかる。門の隙間からは、舗装された道があり、道の両側には手入れされて芝生が広がっていた。
前世でどんなことすればこんな豪邸に住めるのか。一般庶民とはやはり違うなと度々実感する。
鏡子が柱に取り付けられたインターホンを押すと、花咲さんが応答した。
「鏡子様、あ、詠様も! 今門を開けますね。どうぞ中へ。リビングにてお待ちしております」
インターホンが切れたあと、門が低い音をたてて、横にずれた。
「詠とは、二月の末……あ、卒業式の練習で会ったわね」
「花咲さんもアリス先輩も、そんなに私のこと覚えてないんですか……」
座り心地の良いソファに鏡子と肩を並べて座る。
服の上からでも目立つ大きな胸を抱くように腕を組むアリス先輩は、ごめんごめんと悪びれる様子もなく笑った。
鏡子は紅茶を一口飲むと、小さく咳払いをした。
「アリス、明日卒業式だけれど、進路はどうしているの?」
小悪魔的な笑みを崩して、とたんに凛々しい表情に変わる。鏡子に視線をやり、
「どうしたとおもう?」
進路を決めていた頃、私はまったくアリス先輩と話していない。鏡子のことでいろいろあって、引きこもっていたし。
鏡子は三つ編みの先を指先で触り、うーんと唸る。
部屋の端に設置された大きなテレビからはニュースが垂れ流しになっていた。若い女性のアナウンサーが、天気予報や花粉情報、桜の開花時期を清楚な作り笑顔で述べる。
雨が降る可能性は低いらしい、よかった。満開とは行かないものの、桜は開花している。卒業日和になるといいな。
キッチンの方からは何やら美味しそうな匂いがかすかに漂ってきた。花咲さんがなにか作っているのだろう。
鏡子の小さく息を吸う音が聞こえて、二人の方を向き直す。
「アリスのことだから……そうねぇ、いろいろ考えたのだけど。あのプラネタリウムの館長かしら?」
「それも考えたわよー、でも違うわ」
「んーじゃあ、個展開くとか?」
「いつかしてみたいわねー」
それからしばらく、鏡子とアリスの攻防が続く。
「世界一周旅行! どう? これならあたりでしょ」
「ぶぶーはずれ」
「アジア旅行。これは?」
「はーずーれー」
キッチンから花咲さんがメイド服にエプロンをかけてでてきた。両手にお皿を持ち、テーブルの上に置く。数センチの厚みはあるであろうホットケーキ。一度またキッチンに引っ込むと、蜂蜜の入ったティーカップのようなガラスの入れ物と、もう一人分のお皿を手に戻ってきた。
鏡子とアリスの会話に耳も傾けず、涼し気な表情で、ホットケーキの上から蜂蜜を流す。
口の中に唾液が滲み出てくる。
二人は二人でホットケーキに目もくれず、同じようなやり取りだけがループする。
「ヨーロッパ旅行」
「そろそろ旅行から離れない?」
「地中海探索」
「アタシのことなんだと思ってるのかしら?」
「花咲さんと結婚?」
「いずれね。二年以内には」
少し離れたところに座っていた花咲さんの肩がビクッと跳ね、私たちの方を向く。花咲さんの頬がみるみるうちに赤くなっていく。そんな花咲さんとは対照的に、アリス先輩はあっけらかんと答える。花咲さんは顔の前で手をパタパタ仰いで、天井を見つめた。
「ねえーちっとも分からないわよ」
「ほらほら、いっぱい頭使わないと脳のシワが無くなってつるつるになっちゃうわよ」
鏡子はしょんぼりとして、「ヒント~! おねがーい」と懇願する。アリス先輩は、ふっくらとした唇を尖らせて、少し唸ったあとで「旅行ではない」と答えた。
それ、ヒントと言えるのか微妙じゃないか?
ホットケーキを銀色のフォークで切り分け、口に運ぶ。蜂蜜の甘さと、ホットケーキのやわらかさがちょうどいい。二人も早く食べればいいのに。
「んーじゃあ、宇宙に行くの?」
「どうしてそうなるのよ」
ごもっともである。
「ほら、アリスは星好きだから……」
「宇宙なんて行かないわ。地上から星を眺めるのが好きなんだから。もう正解言うわね。キョーコに当てさせてたら夜までかかるわ」
アリスはカップに入ったレモンティーを一口飲むと口を開いた。
「イギリスに行くわ」
「まあっ」
「アリス先輩が、イギリスに……」
鏡子は目を丸くして口元に手をあてる。アリス先輩は、あら、そんなに意外かしらと言いたげに、もう一口、さっきよりもゆっくりとレモンティーに口をつけた。
「でも、前ほど長くないわ。予定はたった四年だけよ。長い休暇って感じかしら。でも夏休みとか年末はこっちに帰ってくる予定だし、半年に一度ぐらいなら会えるわよ。お土産も買ってくるわ」
「やったー、アリスのお土産いつも楽しみにしてるの! ありがとう!」
その日の夕方、私達はアリス先輩宅を後にした。




