56話 文学少女のチョコ
バレンタインの日が近づいて来ればくるほど、クラスの男子がそわそわしはじめる。女子にそれとなく「チョコ、誰かにあげるのかよー」と聞いたりしているところをなんとか見た事がある。
私にはなんの関係もないイベントなんだけれど。今までバレンタインチョコなんて作ったことないし。あげる人もいなかったし。
そして、バレンタイン当日。
朝、鏡子から連絡があった。
『今日は先に学校に行ってるわね』
バレンタイン。鏡子には好きな人がいる。いつも一緒に行くのに、今日は先に一人で行く。
寝起きの頭でもすぐにピンとした。なんだ、鏡子やっぱり好きな人にバレンタインチョコをあげるんじゃないか。下駄箱に入れるんだろうか。それとも机の中かな。
私とばかり関わっていた鏡子だけど、好きな人はいつできたのだろう。前の学校で好きだった人? それともほかのクラスや学年の人だろうか。
ぼんやりとした熱を持つ体を冷やすように、カーテンを開けて、窓も思いっきりあけた。静かだった部屋に様々な音をもたらす。テーブルの上に置かれた本が風にめくられ、カーテンが風を孕み大きく膨らむ。
部屋と肺の空気を入れ替えて、着替えを始めた。
昇降口に入ろうとした時、私のクラスの下駄箱の前に人影を見つけて、咄嗟に身を隠した。人影は下駄箱を行ったり来たり、手を伸ばしかけては引っ込めを繰り返している。
……あれ?
華奢な体に三つ編みをした女子生徒。鏡子だ。
朝の私の予感は当たっていたらしい。
片手には可愛らしい紙袋を持っている。しばらく見守っていると、鏡子はわかりやすく肩を落として下駄箱から立ち去った。
教室に入ると、鏡子は私の席で本を読んでいた。
「おはよう、なんで私の席で本読んでるの」
「お日様がきもちいいから」
「そういえば、宿題はやってきた?」
「登校の途中で猫を見かけたのよ」
鏡子は平然としているようだけど、よく見たら本が逆さまだし、読むスピードも遅いし、なにより私への質問が噛み合っていない。お日様がきもちいいなんていうけれど、空は灰色一色だ。宿題やってきたかという質問に猫を見たという答えもおかしい。
明らかにおかしい。
どちらにせよ、席を移動してもらわないと困る。
「鏡子、そこのいてくれないかな。席座りたいんだけど」
そういうと、鏡子は本を持った立ち上がり、自分の席にちょこんと座った。よく見たら、三つ編みの一つ一つの幅もバラバラである。机の横にカバンを引っ掛けて、鏡子の後ろに立った。
「三つ編み、私がしてもいい?」
「ええ」
あ、ちゃんと答えた。
三つ編みを解くと、黒い波が広がった。教室の明かりが反射して天使の輪を作る。櫛で髪をといて、左右で半分に分ける。
「鏡子、本逆さまだよ。読んでないでしょ」
「あら……。そうだったようね。ありがと」
本の向きをなおすと、あらためて読み始めた。鏡子の三つ編みを直しながら、私は鏡子の後ろ姿と紫さんの後ろ姿を重ねていた。いとこ同士といえど、似ている。横顔もどことなく似ている。十分ほどして、左右両方の三つ編みを結び終えた。
「できたよ」
私の呼びかけに鏡子は本を置いて、私の方を向く。朗らかな笑みを浮かべ、「ありがとう」と感謝した。
「ねえ鏡子。鏡子の好きな人ってこのクラスの誰なの?」
「それは教えません」
「鏡子、あさ下駄箱のところにいたでしょ。あれは好きな人のところに入れようとしてたんじゃないの?」
鏡子の目をまんまるにして、唇を震わせる。
「あ、あ、あれは……自分の上履きがわからなくなってて……! そ、それより詠ちゃん、今日の朝、和都がこれもって行きなさいって、チョコくれたのよっ! 部活の時渡すわね!」
「ほんとに? ありがとう。あとでメールしておかないと」
「メールはしなくていいのよ、しないで。わたしがお礼を伝えておくから」
もうどれが本当でどれが嘘か分からなくなってきた。まあ、チョコは好きだし……いいか。
しばらくして、教室のドアが開き、手に小さな紙袋を持った女子達が入ってきて、男子の机にこっそりいれていた。
バレンタインも一日すぎればただの平日で。
「詠ちゃん、似合ってるわ!」
私を見て、鏡子が宝石のように目を輝かせる。
口元まで伸びていた前髪は、分け目はそのままで、目の上まで切った。視界は明るく、ドライヤーをするのも少々楽になった。
卒業式まで数週間。今日から卒業式の練習が始まった。在校生である私たちはこれと言って覚えることはほとんどないが、微動だにしてはいけないという苦行をこなさなくてはいけない。パイプ椅子に座り、膝と足をぴったり揃えて、太ももの上で両手を揃重ねる。その時、右手を上にしないといけない。この状態を、約二時間崩してはならないのだ。苦痛極まりない。
体育館、暖房器具があるわけもなく、冬の寒さが一番厳しいであろうこの頃の練習はつらい。じっとしていようとしても、寒さで貧乏揺すりのように足が揺れる。
しかも私は一組だ。三年生との間は広く空いているため、姿勢が見られやすく、チェックが厳しい。
「二年は、とにかく動くな。在校生としての誇りをもつように。全力で見送るように。居眠りなんてするなよ。
三年生は見送られる側で主役だ、堂々としているように。
では、全体練習を始めます」
先生の迫力のある声と共に練習が始まった。
今日は全体の流れを掴むことが目的らしい。誰かがちょっとでも動けば、罵声が飛んでくる。卒業練習というより、ただの拷問。パイプ椅子も、体重のかけ方を少しでも変えれば、キィと嫌な音が鳴った。
四時間目、お昼休み前ということもあり、お腹も空いている。空っぽの胃がいつ鳴るか不安もあった。
どうかなりません様に。
舞台の前で先生が、こうしてこうして、この時はこうしてと全体の流れを説明する。卒業式なんて小中としてきたのだからある程度わかっている。私達はだいたい座っているだけ、「在校生起立」と言われた時だけしか立たない。
しかしまぁ、お腹が空いた。
早く終わらないだろうか。
耳を澄ませば、時折お腹のなる音が聞こえる。皆お腹がすいているのだ。だからお腹がなっても恥ずかしくない。恥ずかしくないけど鳴って欲しくはない。
ただひたすら時間が過ぎるのを待つ。
三年生は、卒業証書授与式の練習をしていた。一人一人名前を呼ばれ、卒業証書を受け取る。今回は、名前を呼ばれて、壇上に上がり一礼し、降りて道順通り席に戻るという簡単なものだ。
空腹と戦いながら、ようやく体育館に四時間目の終わりを告げるチャイムがなった。パイプ椅子を両側の壁にたてかけて、教室に戻る。
「体育館、寒かったわね」
「そうだね、寒いしお腹すいてるし、お腹なるんじゃないかヒヤヒヤしたよ」
「カイロ持ってたけど、ポケットの中で温かいだけで触ることも出来なくて、指先が凍っちゃうかと思ったわ」
教室は三時間目まで暖房がついていたから、まだあたたかい。膝にブランケットをかければ、寒さとおさらばできる。
五時間目六時間目は座学で、暖かな教室で授業を受けられることができた。
卒業式の練習を日々繰り返し、卒業式は近づいてくる。冬の寒さは春の暖かさの押され徐々に遠くになっていく。雪をかぶっていた木々は茶色の肌を見せ、木の枝には小さな蕾がつく。
マフラーの出番も段々と減る。卒業式を終え、春休みに入り、四月を迎えば私達は三年生となる。鏡子と出会って一年になるのか。駆け抜けるように春から夏、秋、冬を過ごした気がする。
部活を終えてから、家に帰って、寝るまでの間私はちょこちょこパソコンに向かっていた。
暇つぶしで書いていた小説を一度ストップして、新しく小説を書き始めていた。もちろん、鏡子には内緒で。
忙しい日々を送っているが、春休みは楽しみが待っているから我慢できた。それに、忙しいが、充実している。




