51話 道化は語る
翌日、重い体を起こして、家を出た。
体の芯を冷やすような風が肌を粟立たせた。塀から見え隠れする黒い三つ編みが揺れている。
鏡子、いったいいつからそこに立っていたのだろう。眠気を覚ますように頬を叩いて、門を開ける。いつもと同じように、緊張せずに、話しかければいい。一段階段を降りるたび、心臓がドクンと響く。階段を降り終えると冷たい空気が足首にまとわりついたような気がした。
「鏡子、おは……」
いない。
あたりを見回すが鏡子の姿はなかった。
幻覚を見たのだろうか。きっと私は疲れているんだ。肺に溜まった空気を吐き出して、友人のいない通学路を歩み始めた。鏡子が転校してきてからというもの、毎日鏡子とこの道を歩いてきた。あの桜の下で待ち合わせて、息を吸うように話をしながら登下校した。
通学途中、鏡子の姿を見ることもなく、下駄箱にも靴は入っていなかった。
一限目が終了後、チャイムが鳴り終わると同時に校内放送が流れた。
『二年一組の橘詠さん、いますぐに職員室まできてください』
「失礼します」
教室を出るときは地獄だった。クラスメイトが「また橘呼ばれてるよー」と笑っていたからだ。職員室に訪れると保健室に行くように指示された。
保健室に入ると、宇佐見先生はこちらを向いた。あれ、髪の色が。夜空のような黒い青に染まっている。
胸辺りまで伸びた髪を後ろに払いのけると、先生の横の席をポンポンと叩く。
「入り口でぼーっとしてないで、こっちおいでや」
言われるがまま、先生の横に腰を下ろした。
シトラス系の匂いが鼻孔をくすぐる。先生、香水変えたのかな。
「先生、用ってなんなんですか」
私が話題を切り出すと、穏やかに浮かべていた表情を変える。眉が斜め上に上がり、目に怒りが宿る。いつもと変わらない赤い唇が高圧的に見えた。
真剣な顔の宇佐見先生ははっきり言って怖い。
「詠、あんた……」
「はい」
「鏡子ちゃんと喧嘩したんか」
「はい?」
なんというか、もっと真面目なことを言われるのかと思った。肩に入っていた力が抜け、まとまった息が漏れる。
「鏡子からなにか聞いたんですか」
「きいたでー、放課後ぐらいかなー……。鏡子ちゃんがしょんぼりした顔で保健室来てな、『詠ちゃんに嫌われたのかしら』って言ってきたの。しょんぼりって言う顔じゃないかな、あれは世界の終りを迎えるときのような絶望に満ちた顔やわ」
「そんな事言われても、私は何も知りませんよ」
嫌われたのかしらって、鏡子が黙っているからじゃないか。しかも、自分の口からいうならまだしも、あんなことして……一体何がしたいのか。
不服そうな表情を表に出さないように、必死になんでもないふりを装う。鼻がむず痒くなり、指先で掻くと先生はニヤリとする。
「詠、嘘ついてるとか、焦ってるやろ」
思わず、私は先生を二度見した。
「詠は一年のときからずっとそうなんやで。焦ってたりするときはいっつも鼻掻いてる」
「そんなことないです」
「まあええわ。それより先生の話きいて」
普通に話すのかと思いきや、私の肩を抱き寄せ、優しく頭を撫でながら言葉を紡ぎ始めた。宇佐見先生のあたたかさや香水の匂いが体を包む。
「先生にな、恋人がいてさ、四年ぐらいずっと付き合ってたの。恋人、同性で、海外で結婚式あげようかって言ってて、幸せな日々を送ってたんよ。先生の仕事が忙しくてなかなかあえなくなってきて、ようやく明日会えるっていう時や。目の前で幸せが音を立てて崩れた。子供をかばって、車に轢かれたんだとで、病院に運ばれたけどすぐ命を落としたらしい。先生、そのとき勤務中で連絡に気づかんくてな、死に目に会えんかったのよ。
四年も付き合ってて、この先もずっと一緒なんだろうなって思ってた。油断してた」
先生の声に涙がにじんでいた。
「でもな、絶対に幸せがいつまでも続くことなんて誰にもわからんのや。わかってたのに、私は恋人を手放した。引き裂かれてしまった。
恋人だけじゃない、家族、友人、人とのつながりは大事にしないとあかんよ。
あと、ずっと黙ってたけど、恋人と詠、どことなく似てる。どことなくじゃないな、かなり似てる。だから、詠を見るたび恋人の笑顔を思い出して苦しかった。
あのときはあんなひどいこと言ってごめんなさい。そんな事思ってないから」
先生は私の額に優しくキスを落とした。
しばらくの沈黙。
「どうして、今その事を話したんです」
「鏡子ちゃんとこのまま二人が疎遠になるのが嫌やっただけや。詠にとって鏡子ちゃんの存在は自分が思ってるより大きいはずや。だから、失ってほしくない」
「そうですか……」
そうですか、以外の言葉を見当たらなかった。
鏡子が悪いんですとも言えない。
保健室を出て、アリス先輩の言葉を思い出した。
――早くしないと、失っちゃうわよ。
意味は教えてくれず、艶めかしい笑みを浮かべ、ウインクをしただけだったアリス先輩。
二人の言う「失う」とはどういう意味なのだろう。
それから私は鏡子に会うのが苦しくなり、学校を休む日々が続いた。
誰からの連絡も無視し、お母さんに迷惑をかけると思いながらも、学校には行こうとしなかった。学校に行かなくなり三週間が過ぎようとしていた頃。
朝、頭元で震えるスマホの音で目を覚ました。こんな朝から誰なの。
画面を確認すると紫さんからだった。
一度かかってきただけじゃない。二度三度、かけてきているようだった。
なにか急ぎの用事なのだろうか。
私は、紫さんにかけ直すと、紫さんは一回目のコールで電話に出た。私が発言する前に、紫さんが声を出した。
「鏡子知らない!? 朝、いつもの時間に鏡子が降りてこなくて、部屋を見に行ったらいなくて。家中探したんだけどいなかったの!」




