47話 新年は文学少女と
「あけましておめでとうございます」
鏡子が私とお母さんを見るとぺこりと丁寧に頭を下げた。長い髪を一つにまとめあげ、桜の花びらが描かれたべっ甲のかんざしで髪を留めている。淡い鴇色をした椿の柄の着物がよく似合っていた。
鏡子は一瞬だけ私を見ると、クリスマスの日に降った雪のように白く透き通る肌は、桜のつぼみのように頬を染まった。
道路の端には雪が盛られ、木々は雪を着て、家の前には門松を飾っているところもある。
お母さんは、鏡子の着物姿に興奮し、小躍りしそうなほどご機嫌になった。
「あけましておめでとう。今年も詠をよろしくおねがいします」
「あけましておめでとうございます」
新年の挨拶を済ませ、近くの神社に参拝するため、足を踏み出した。
「鏡子ちゃん、着付けは自分でしたの?」
「いいえ、わ……お母さんにしてもらったんです。わたし一人じゃうまくできなくて」
私を挟んで、二人の会話が進行する。鏡子ははにかみながら袖を擦り合わせる。
「すごいわね、私も着付け教えてもらおうかしら。鏡子ちゃんは可愛いから、きっと鏡子ちゃんのお母様も美人さんなんでしょうね」
「ふふふ、そうですね」
鏡子はころころと可愛らしく笑い、笑みを浮かべたまま前を向いた。私の肩と鏡子の腕が軽くぶつかる。
「あっ、ごめ――」
私の声を遮ったのは、吹く風じゃなく、鏡子の声でもなく、鏡子の手だった。ハッと息を呑む。
私の手の甲を覆うように鏡子の細くひんやりとした指が包み込む。心臓がぎゅっと締め付けられる。鏡子は、私たちを知る人の前では手を繋いでこようとしなかった。それなのに、今日はどうしたのだろう。
鏡子の方を見上げると、お母さんに褒められた時よりも顔が赤く染って、下唇を噛んでいた。
視線を逸らし、手を半回転させて、手を繋ぐ。
私は鏡子に一歩寄り、腕をくっつけ、繋いだ手を僅かに後ろにずらした。
お母さんは私たちより半歩前を歩いている。手を後ろにずらすことで、服で隠すことが出来た。
女の子同士で手を繋ぐなんて、恥ずかしいことじゃない。女の子同士のスキンシップではよくあることだ。しかし、お母さんの前で鏡子と手を繋ぐというのは、心がくすぐったくなって、隠したくなった。バレて欲しくない。
私達だけの秘密でありたい。
冷えていた体は、鏡子と手を繋いだことで、体の芯に小さな火がついた。ロウソクみたいにやさしくて、あたたかい。
あと何度、鏡子の隣を歩くことができるのだろう。
あと何度、鏡子の凛とした横顔を見ることができるのだろう。
あと何度、鏡子と笑いあえるのだろう。
意識が体から離れていたとき、聞き慣れた声が現実に連れ戻した。
「そういえば、昔ねー詠が……」
お母さんが、懐かしそうに優しい顔で語る。
私が五歳の頃のことで、その日も今日のように水彩画のような群青が滲む空からやわらかな日差しが降り注いでいた。
「初詣行ったら、おみくじ引くでしょ? そのときに詠が凶を引いちゃって。詠に凶の意味を説明したら、『だいきちがいい! いちばんすごいのがいい!』って駄々こねたの。結局、十回ぐらい引き直したのよ。おみくじは回数制限なんてないから何回でもひいていいんだけどね、詠がそこまで大吉に執着するとおもわなかったわ。お父さんと『どれだけ悔しかったのかしらねー』って目を合わせて笑いあったのよ。ね、詠?」
当時の私が何を思って、大吉に執着していたのかわからない。『ね、詠?』と聞かれても、あまり記憶がない。ただ、お父さんとお母さんが笑ってて、その日はとても澄んだ空だったことぐらいしか覚えてないのだ。
適当に返事をして、その場を誤魔化す。
そんな話をしながらも、鏡子とは手をつないでるということに胸が落ち着かなかった。なにか悪いことをしているわけじゃないけれど、親に人と手を繋いでいるところを見られるのは恥ずかしいと思うからなのかもしれない。
鏡子はお母さんの話を穏やかな表情で、黙って耳を傾けていた。
町から少し外れ、川沿いを歩き、神社へと向かう。参拝を終えた人たちだろうか、神社に近づくほど人とすれ違う事が増えた。
どうか、知り合いと会いませんように。どうか、鏡子と手を繋いでいることがバレませんように。
鏡子の下駄がカランコロンと音を転がす。
朱色の鳥居と神社を囲う林が姿を表した。
「鏡子、寒くない?」
「そうね、首周りが少し、冷えるわ。それ以外は大丈夫よ。カイロをたくさん貼ってきたもの」
私は、片手で自分の首に巻いていたマフラーを外した。つないでいた手を解き、鏡子の細い首にそっとかけて、巻いた。
「ありがとう、でも、詠ちゃんは寒くない?」
「私は大丈夫だよ、タートルネックのセーター着てるから。コートも羽織ってるしね」
マフラーのあたたかさに鏡子は頬をほころばせ、顎を引いてマフラーに唇を当てる。
その様子を私は瞬きもせず、凝視していた。
白い肌にくっついているやわらかそうな潤んだ唇が、マフラーに……。
私が幾度も唇を埋めたマフラー、普段登校時にしているマフラー。
心の奥底でくすぐったくて締め付けられるような名前もわからない感情が湧き、皮膚が泡立つ。
鏡子はまたすぐに私の手を拾って、握った。視線を絡ませ、口角を上げる。
鏡子はだいたい私と一緒にいる事が多いが、時折クラスの子や図書委員の手伝いをすることがある。その時の鏡子は頼りになるお姉さんのような立場で、「この本はこのジャンルよ」と教えたり、本を整理したり、楽しそうに作業をしている。クラスの子と話すときも、整った顔で微笑み、話に乗る。聡明で気丈に振る舞う三つ編みの女子生徒は、私の前では、ふにゃりと甘え、その白い肌を赤く染め上げるのだ。引き締めた頬を緩め、「詠ちゃん」と甘い声で私を呼ぶ。
「もしかして、鏡子ちゃん?」
「あ、もしかして、じゃなくて紛れもなく鏡子ちゃんよ!」
私達の向かいを歩いていた女の子二人組が鏡子に駆け寄ってくる。一人は赤い縁のメガネを掛けた大人しそうな女の子で、もうひとりは活発そうな女の子だった。私と鏡子はお互い急いで手をほどいて、一歩距離をとった。
鏡子の目は輝き、「ともちゃんと茜ちゃん! 久しぶりねー」と小さくジャンプする。
ともちゃんと茜ちゃんと呼ばれる子たちは、鏡子の手をギュッと握り、
「ひさしぶり、元気してた? もう一年もあってなくて寂しかったんだからねー」
「鏡子ちゃんがいなくなってから、茜ったら『鏡子ちゃんがいないよー、寂しいよー』ってしばらくうるさかったんだよ」
「ごめんなさいね、色々あって高校変えることになっちゃったから」
「もういいのよー! こうやってまた会えたんだもん! またこんどどこか遊びに行こうよ、連絡する」
話を小耳に挟みながら、この人達の関係を理解する。前の高校の友人だ。
鏡子の手をずっと握って、嬉しそうに上下に振り、近況報告をしあっている。近況報告なんて私にはどうでも良かった。
心臓が捻れるような不快感と針を刺されたような鋭い痛みに襲われる。平然を装い、三人が会話している様子を見守る。声はぼんやりと聞こえ、友人たちの姿もぼやけ、鏡子が微笑むその姿しかはっきりと私の瞳に映っていない。
会話が終わったようだ。鏡子は小さく手を振り、友人たちは私とお母さんに頭を下げて、通っていった。
「二人とも元気そうで良かったわ。まさか初詣で会えるなんて思わなかった」
「そうなんだ、よかったね」
上擦った声に魂はこもっていない。
鏡子が私に手を伸ばしてきた。手をつなぎたいということだろう。
さっき、鏡子の友人が触った手。一瞬、戸惑った。小さき息をついて、また手をつないだ。強くつないだ。人の波に飲まれて離れ離れにならないようにという意味も込めて。
三が日ということもあり、広い神社内には多くの人が参拝をしに足を運んでいた。手水場で手と口を清め、まっすぐの参道の端を歩く。昔からお母さんに「ここの道は真ん中は神様が通るから、詠が神様になるまで中央を通っちゃだめよ」と優しい顔で教えられた。
澄み切った神聖な空気が肌身に染み渡るようだ。静かな風が木々の枝を小さく揺らし、木霊の声が鼓膜を震わせる。
どんと構える本殿は体に感じるほどの迫力で、小舟ほどの大きさがありそうな賽銭箱の前には人が並んでいる。十分ほどして、やっと賽銭箱の前に来た。
お賽銭を静かに入れて、太い鈴の緒を両手で握り、揺らす。大きな鈴がガランゴンガンゴンと鈍く低い音が響いた。深いお辞儀を二回して、両手を胸の位置で二回叩く。
両手を手の前で合わせて目を閉じた。
なにをお願いしよう。成績アップ? 健康のこと? 友人関係の維持?
あまりおちおちしていられない。迷った挙げ句、結局これになった。
今年も平和に過ごせますように。
アリス先輩の受験のことも頭をよぎった。が、アリス先輩がどこかに受験したという話も聞かないし、お願いをしなくてもいいか……。
目を開けて、左右を見ると、隣りにいたお母さんの姿はなく、鏡子は私が終わるのを待っていた。
「いつから見てたの」
「わたしがお願いが終わってからずっとよ。真剣に祈ってるのを見てたら声をかけられなくて。お母様は先にお守りを買いに行ったわよ。わたしたちも行きましょう」
「そうなんだ。うんわかった」
最後に一礼し、場所を離れた。
おみくじを一斉に引き、同時に開封する。
「わたしは、吉ね」
「お母さんは大吉ー! やった、いいことありそうだわ」
「私は……」
凶。
占いやおみくじは気休め程度にしか信じない派だが、やっぱりほんの少しだけ凹んだ。




