46話 雪の日は
右手をソファについて、体を前に突き出して、鏡子との距離を縮める。
鏡子のあたたかい手に左手の指先を乗せる。手の甲に指を滑らせ、手のひらを鏡子の手の甲にくっつけると、優しく握った。
きっと私の手は汗ばんでいる。
夏場でもないのに、体には熱がこもってて、心臓もうるさい。顔も熱い。緊張と、なにか、自分でもよくわかっていない気持ちが混じっている。
鏡子の赤らんだ顔が目の前にある。潤んだ瞳がまつげで隠れていく。うっすらと開いている瞳は、私の目を逃さないように捕まえる。鏡子の色気を孕んだ視線は私の理性を溶かす。
艶のあるやわらかそうな唇がかすかに開く。
鏡子とキス……。
女の子同士のキス。
体を反らせて、顔を近づける。
鼻先と鼻先が軽くぶつかる。鏡子の空いた手が私の頬に添えられる。手、あたたかい。
もう唇がくっついてしまう……。
私もまぶたを閉じて、唇が重なるように近づけていく。
私の初めてのキスは、クリスマスに鏡子に捧げると覚悟を決めたその時。
テーブルの上においていた鏡子の携帯が軽快な音を鳴らした。
高ぶっていた気持ちと張り詰めていた空気が一瞬にして割かれた。顔を離して、鏡子は真っ赤な頬を手で触りながら電話に出た。
まだ頭がぼーっとする。私は席を立ち、キッチンに移動した。食器棚からコップを取り出す。蛇口をひねり、水をコップに注いだ。水が手の熱を冷やしていく。
なんで私はあの時、鏡子にキスをしようなんてもちかけたのだろう。たまたまそこに鏡子がいたから?
わからない。
水を胃に一気に流し込むと、全身の温度が下がった気がした。
鏡子の電話の相手はどうやら、アリス先輩だったようだ。平然を装い、下手な作り笑顔で笑っている。
下手くそな笑った横顔を見ていると、鏡子がこちらを向いて、手招きをした。私はコップをシンクに置いて、席に戻ると、スマホを耳から離してスピーカーモードにした。
『メリークリスマス! ヨミ、昨日間違いは起きた?』
「メリークリスマス。何言ってるんですかアリス先輩、起きるわけ無いでしょう」
「あら、間違いってなんのこと?」
『そりゃーねー、キョーコとヨミが、体を重ね――』
アリス先輩の言葉を遮り、質問を打ち込む。
「アリス先輩! アリス先輩はどうなんですか?」
通話越しに、花咲さんや内海さんの声と、遠くの方で賑やかな声や楽しげな音楽が聞こえてくる。
『クリスマスから年末にかけて別荘で満喫してるわ。今街の方に来てて、クリスマスだから、皆かなり浮かれムードよ。もちろん、アタシも千早もね、春馬はあたしたちより楽しんでるわよ』
『アリス様見てくださいよこれ、この洋服、すっごく可愛いですよね! アリス様にお似合いになるんじゃないですか。あー、こっちの色は千早さんにお似合いになりますよ! 買いませんか、いいえ、俺が買ってきます』
『春馬はさっきからこの調子なのよ。千早はあたしの隣でカフェオレ飲んでるわ』
内海さんってもっと、おとなしい男の人だと思ってたけど……。かなり乙女な気がしてきた。人は見かけによらずとはよく言ったものだ。
それから五分ほど会話を交わしたあと、通話が終了した。ふうと息をつき、ソファにもたれかかる。少し間があいて、鏡子は私の目を見てやわらかく微笑む。
「キスは恋人としないと、ね」
そのとおりだ。
私は、あのときなぜあんなことを口走ってしまったのか。気持ちをきちんと切り替えるために、肺に新しい空気を肺がいっぱいになるまで取り込み、ゆっくりと吐き出した。体の力も一緒に抜けていく。
玄関のドアが開く音がして、「ただいまー」とお母さんが帰ってきた。私達に顔だけ見せると、そのまま自室に戻る。しばらくしてラフな格好のお母さんがリビングに入ってきた。
「紫さんにスイーツもらったから一緒に食べましょう」
手には、おしゃれな紙袋を持っている。お母さん床に膝をつき、紙袋をガラステーブルの上に置いた。そして、中身を取り出す。薄紫色の箱の蓋を開けると、チョコブラウニーがちょうど三つ入っていた。鏡子の目がキラキラと輝く。
「おいしそうだわ……わたし、チョコを使ったお菓子大好きなの」
「実はお母さん、お菓子作るの好きなのよ、よかったらまた今度うちでなにか作りましょうよ」
「いいんですか! ぜひ、よろしくおねがいします!」
二人が盛り上がってるのを横目に、チョコブラウニーを一つ頂き、一口かじった。
紫さん、以前よりお菓子作りが上手になった? 美味しい。
テレビの音を聞き流しながら、二人の会話を盗み聞く。お菓子の話をしていたと思えば、話題は時間をさかのぼり、鏡子が転校してきた時の話になっていた。私と仲良くなったきっかけや、私との生活をぺらぺらと嬉しそうに喋っていた。お母さんはそれを満面の笑みで頷きながら聞いている。
二人とも嬉しそうなのはすごくわかるが、私は隣で聞いてて恥ずかしくなった。音を立てないように、そっと席から離れ、自室に戻った。
窓とドアを開けて、空気の入れ替えをする。生ぬるい空気が、窓から入ってきた身を突き刺すような冷たい風に押され、廊下に流れる。
服の繊維の隙間に流れ込む風が私の体温を下げる。体を震わせ、両手を交差させて両腕をこすった。鏡子が戻ってくるまで、自室に籠もっていよう。
空気が完全に入れ替わったと判断し、窓を締めて、エアコンを付けた。
ベッドにダイブして、スマホを触ったり、本棚から小説を抜き出し、読んでも、鏡子はまだ帰ってこない。
高いところにあった太陽は、傾き、山肌に触れようとしている。夕日が夜を引っ張り、空が暗くなってきた。
そしてその頃、ようやく鏡子が部屋に戻ってきた。朗らかな笑みを浮かべ、満足そうだ。
「おかえり」
「ただいま。詠ちゃんのお母さん、お買い物いってくるって。お腹が空いてもご飯はたべないでね、と言い残していったわよ。
そうそう、さっき外を見たら雪が降ってたわよ」
私は体を起こして顔だけ窓の方を向けた。さっき、外を見たが、雪が降ってたのは気づかなかった。それに窓が曇っていてわからない。
鏡子がベッドに乗り、私の肩越しに手を伸ばし、窓を指で拭く。
「ほら、よく見てみて」
肩を押され、体が前に傾く。窓と顔が近くなり、外の様子が見えた。鏡子も、私の肩に手を乗せて顔を覗かせる。
外は暗くてわかりにくいが、屋根は白くなり、部屋の明かりに照らされた白い雪が舞っているのが見えた。そして、窓に薄っすらと映る私達の姿。
心臓がトクンと高鳴る。
背中に鏡子の体温を感じる。
私が手を離し、鏡子に体を預けると、「んふふ」と笑って、鏡子は窓の外を見続けた。肩にあった手は、胸の前までずりおろされ、後ろから鏡子が私を抱く形になっている。鏡子の匂いはとても心地よく、眠りへと誘う。
人の匂いなんて今まであまり嗅いだことがなかったけど、鏡子の匂いは特別好きだった。
「詠ちゃん、雪は好き?」
「嫌いではないね。雪で服が濡れるのはちょっと嫌だけど」
「体も冷えてしまうものね。でも、わたしは雪を見るのも、雪の中を歩くのも好きよ。ここは豪雪地帯じゃないから歩きやすいしね」
私は、私の胸の前で組まれた鏡子の腕に触れる。
「中学上がるぐらいまでは、朝起きて、雪が積もってたら外に出て、お昼すぎまでずっと雪遊びしてたんだよね。雪だるま作ってただけだけど。それで、私体が弱かったから風邪引いちゃって、翌日に熱を出すってのが毎年恒例だったんだよ」
鏡子はクスリとちいさく笑った。
「幼少期の詠ちゃんは、雪の日でもずっと部屋の中にいるイメージだったのだけど、意外ね。かわいらしいわよ」
「昔は純粋だったんだよ」
「あら、今も詠ちゃんは純粋よ」
そんな雑談をしながら、私の意識の半分は幼少期の頃に戻っていた。
寒さで目を覚ました朝。毛布を手繰り寄せ、鼻の頭まで毛布をかぶってしばらくじっとする。それから、窓の外に視線を向けると、曇った窓の向こうは白だった。目を大きく見開き、小鼻を膨らませて、かすかに声の混じった吐息をうっとりと吐き出す。
心がカンガルーみたいにぴょんぴょん跳ねて、体の芯が温まるのを感じた。寒さなんて忘れて、毛布を引っ剥がし、パジャマを脱ぎ捨てる。たたむことも忘れ、あたたかそうな服を身にまとい、ニット帽を被り外に飛び出す。
外に出ると、ひんやりとした空気がむき出しの頬をつつく。ぶるっと身を震わせた。指を握って開いてを繰り返し、そっと、新雪に触れる。指先に感じる鈍い痛み。雪を小さい手で救い、団子を作った。団子を雪の上に置き、手のひらに感じる痛みに歯を食いしばる。両手を口元に持っていき、はあとゆっくり大きく息を吐いた。
白くなった息が手をあたため、空気に溶ける。
……手を温めながら、ようやく完成した雪だるまを私は誇らしげに見つめて微笑んでいた。庭に落ちていた木の枝や小石を雪だるまに埋めた、私だけの雪だるま。
雪だるまができる頃、お母さんはカメラを片手に外に出てくる。お母さんは嬉しそうに雪だるまを撮影したり、私を雪だるまの隣に移動させて雪だるまとツーショットを撮ったりした。写真を撮ったあとは、お母さんもちっちゃな雪だるまを作る。毎年同じことだった。
「ご飯できたわよー」
階下からお母さんの叫び声が聞こえてきた。私達の知らないうちに帰ってきていたらしい。
夕食はシチューで、その後にホールケーキが出てきた。三人で写真を撮り、プレゼント交換もした。初めて家族以外と過ごすクリスマス、とても貴重で、私の心を満たした。




