番外編 豆乳を買い占めたのは誰?
昨夜、フォロワーさんと話していた時に「豆乳が全国のお店から売り切れになった話がうんたらかんたら」っていう例えをしていて、そこからこの話を作ろうとなりました。
「詠ちゃん、大変よ!」
「なに、どうしたの」
冬休みを目前にした二年のある日。
肩で息をして、鏡子は部室に入ってきた。いつもは固く結ばれた三つ編みは緩み、前髪も乱れている。スマホを見せてもらうと、画面にはとある記事が表示されていて、目を通した。
『全国のスーパーから豆乳が消えた』
その見出しから記事は始まっていた。
全国のスーパーから豆乳が売れに売れて、どの店舗も豆乳が売り切れ状態。以前豆乳ブームがあったがそれとは比にならないほどの売れ行き。しかし、なぜ突然そんなにも売れ始めたのか不明だ。
特定のメーカーだけかと思いきや、どのメーカーの豆乳、様々な味すべてが棚から無くなっている。
オイルショックのときにトイレットペーパーがとても売れたが、それとはまた違う。
なんだこの記事。フェイクニュースじゃないのか?
一通り記事を読み終えて、鏡子の顔を凝視する。
鏡子の熱を冷ますように、そこまで大きくない鏡子の胸を見ながら呟いた。
「豆乳飲んで胸おおきくしようって?」
鏡子にとっては逆効果だったようで、更に顔を赤くして胸を寄せるようにして押えた。スマホをポケットにしまい、私の胸をちらりと見ると鼻を鳴らした。
私はムッと顔をしかめ、両腕で胸を隠した。
そっぽを向いて、片目を薄く開けると、怒りを含んだ声でボソリとつぶやく。
「詠ちゃんのほうが小さいんだから、詠ちゃんが豆乳を飲んだほうがいいわよ」
天使が悪魔に変わった。
「詠ちゃん」と可愛らしく笑い、純白の翼でも生やしてそうな鏡子の姿はそこにはない。髪と同じ色の尖ったしっぽを生やして、犬歯よりも鋭い牙を持っていそうだ。
「あら、アタシからすれば二人共貧乳よ。ひ、ん、にゅ、う」
鏡子の背中を押して、部室に押し込むと、ブロンドの髪をなびかせてアリス先輩が部室に入ってきた。ソファに腰を下ろし、足を組む。長く程よく肉のついたふくらはぎや、たわわに実った大きな胸、挑発的な瞳やふっくらとした唇が色っぽさを醸し出す。
金色の髪が光に当たり白く輝く。
どんなときでも毅然としている、芯のぶれないアリス先輩。
私達を見て、余裕の笑みを浮かべた。
「豆乳でそんなにさわぐなんて、キョーコもおこちゃまね。豆乳なんてまたすぐ入荷するわよ」
「アリス先輩はイギリスの血が流れてるからそう言えるんですよ。純日本人でも大きな人いるけど……」
本をおいて、アリス先輩の方を向く。
鏡子は私の後ろに回り込むと椅子に座った。私に体をくっつけて、肩に頭をおき、頬を膨らませて、アリス先輩を睨む。
膨れた頬と私の頬が微かに触れる。
「わたしは詠ちゃんより大きいの。だから豆乳なんて必要ないわ」
弱々しく反論すると、アリス先輩は「ふーん」と意味ありげに返事をした。前のめりになり、蛇が獲物を捕らえるときのように舌なめずりをする。アーモンド型の瞳はギラギラ輝いて、鏡子をロックオンしていた。
鏡子の頬から空気が抜け、私の腕を掴む。細い指が腕に食い込んで、小刻みに震えている。恐怖で震えているのか、怒りで震えているのか。
体をくっつけている割に、あまり背中にやわらかな感触がない。私と鏡子の場所が逆でもそれは同じなのだろうけど。
にやりと笑い、鏡子に問いかけた。
「キョーコ、毎日豆乳飲んでるって聞いたけど、それはどうして?」
「それは……」
鏡子は言葉をつまらせる。
私の耳元で「どうしよう詠ちゃん……」と囁いて、助けを求めてきた。
「さあ」
あっけらかんと答えると、鏡子はゆでダコのように顔まで真っ赤にして、「詠ちゃんなんてしらない!」と立ち上がった。
「豆乳、わたしは好きなの。好きだから飲んでるの! ふんっだ」
幼い子どものように、眉間にシワを寄せ、舌をべーっと出して、「アリスのばかー! 詠ちゃんのばかー!」と三つ編みで大きく波を作って部室から逃げていった。
残された私とアリス先輩はお互い目を見合わせ、クスリと笑う。
「アリス先輩、鏡子が豆乳毎日飲んでるって本当ですか」
「本当よ」
アリス先輩は高らかに笑った。
「そういえば豆乳売り切れ続出についてどう思います?」
アリス先輩は組んでいた足を解いて、胸の下に腕を回すと、ウインクをした。
口の端を吊り上げて、悪そうな笑みを作り、悪徳代官や悪巧みを考えている魔女を彷彿とさせる。色っぽい唇を開いて、衝撃的な言葉を口にした。
「あれは、嘘よ。アタシがでっち上げたの」
「はいっ? 今なんて言いました?」
自分の耳を疑う。
「アタシが、あの記事を作って、キョーコに送りつけたの」
悪びれる様子もなく、真実をなぞっていく。
鏡子に意地悪をしたくて、鏡子がバストアップのために飲んでいる豆乳を全国のスーパーで売り切れ状態にした記事を作ったそうだ。それを鏡子に送ったらまんまと騙されて、この通り。
ということらしい。
アリス先輩の言葉に私は納得をした。鏡子は騙されやすいところがあるから。それに、鏡子が「詠ちゃん、大変よ!」と部室に飛び込んでくる時はだいたい大変なことじゃない。
物分りの良い私を見て、アリス先輩はふっと笑いを漏らした。
「ヨミ、キョーコのことだいぶ分かってきたのね。さすがだわ」
「ありがとうございます。いやでも毎日いっしょにいるので」
「キョーコのそばに居てあげてね。あの子、ヨミがいないととっても寂しがっちゃうから」
そう告げたアリス先輩の瞳には慈悲が滲み、娘を愛し影から見守る母親のようだった。その笑顔は大人びていて凛としている。
私も自然と笑みがこぼれて、大きく頷いた。
アリス先輩はソファから腰を上げて、ぐうっと背伸びをすると、優雅さを部室に残してプラネタリウムに戻った。
アリス先輩が出ていってから数分後、ドアに三つ編みが生えた。
ドアって三つ編みが生えるようになったんだなー、すごいなー。
鏡子は隠れているつもりなのだろう。何を思ってそうしているかは分からないが、本人は隠れているつもりなのだろう。頭隠して尻隠さず、ならぬ、体隠して三つ編み隠さず。
私は読書に戻り、鏡子が教室に入ってくるのを待った。
「にゃ、にゃあ……」
鳴き声が聞こえてドアの方に視線をやると、床についた三つ編みを猫の尻尾のようにゆらゆらしている。
ドアを背に座り込んでいるのだろう。
本を閉じて立ち上がり、ドアの前に立った。鏡子をドア越しに凝視しながら、抑揚もなく言葉を発する。
「猫がいるー。猫どこにいるのかなー」
「にゃーにゃあ」
「猫ちゃん出ておいで」
「にゃあー」
本当に騙されているとでも思っているのだろうか。全く似ていない猫の鳴き真似で騙される人がいる方がすごいよ。
ドアの前にじゃがんで、手を前に出した。実際にそこに猫がいて、怖くないよ、おいでと呼び寄せるように。舌を上顎で弾いて、コッコッと音を出す。
尻尾が引っ込んで、代わりに白い手が伸びてきた。私の手のひらに手を重ねて「にゃあ」と鳴く。
「鏡子、でておいで」
鏡子が私の名前を呼ぶ時のように優しく呼びかける。長い三つ編みがでてきて、それから恥ずかしそうに顔を赤らめた顔を現した。手を握り、部室の中に入れる。
鏡子は椅子に座ると、両手の指先を合わせて、視線を色々なところに泳がせた。頬を赤く染めていて、ちょっとかわいい。
ずっと見ていたいところだけど、そういう訳にはいかない。
「いいこと教えてあげようか」
私の声に肩が跳ねて、視線を交わす。
「な、なにかしら?」
「豆乳の記事、アリス先輩が作ったものだよ。つまり、あの記事は嘘」
そう告げた瞬間、鏡子は俯き肩を落とした。凹んだのかな。慰めるために鏡子の頭に触れようと手を伸ばした時。顔を上げて私の腕を掴んだ。目には炎が燃えていて、顔も真っ赤だ。恥ずかしさの赤色ではない、騙されたという怒りの赤色だ。
腕を引っ張られ、半分引きずられる形でどこかに連れて行かれる。校内から中庭を通って、裏門の前にきた。裏門を開けると、また走り出し、アリス先輩のいる施設に入った。階段を駆け下り、ドアを叩く。
「アリス、アリス!」
重たいドアが開くと、だるそうな顔でアリス先輩が出迎えた。すべてを悟っているらしく、めんどくさそうに鏡子の説教を聞いている。どうして嘘ついただの、豆乳で胸は大きくなるだの、わたしを騙して楽しかったかだの、啖呵を切る。
そんな説教を、アリス先輩は「はいはい」と軽く受け流す。その態度に更に腹を立てた鏡子はアリス先輩の胸元をぽかぽか叩いて訴える。
わたしがどんな気持ちで豆乳を毎日飲んでいるか、胸なんてすぐにおっきくなるんだからと。
私を連れてくる必要があったのかと疑問だ。
静かな館内に鏡子の声が響いていた。
鏡子は言いたいことをいい終えると、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「アリスなんてもうしらないっ! 帰ろう、詠ちゃん」
言われるがまま、鏡子の後についていく。後ろを振り返るとアリス先輩は舌を出して笑った。ぼんやりとした明かりしかない廊下を歩いてプラネタリウムを出ると、夜だった。
視線は鏡子から上に、上に、上がる。
暗い青色が空を綺麗に染め上げて、白く光る星が空全体に散りばめられ、光っている。
「鏡子、上みてごらん。きれいだよ」
「えっ……あら、本当」
燃えていた炎は夜空によって鎮火された。
どこまでも広がる澄んだ星空。作り物とは違う、優しく輝く星が、空が、私達を見守っている。
息をすることすら忘れてしまいそう。
鏡子の瞳は潤み、うっとりとため息を漏らした。垂れる三つ編みが揺れて、唇に笑みが刻まれる。
元気取り戻してくれたかな。
もうすぐで私と鏡子は別々の道を歩むだろう。私の隣で咲いていた健気な花が誰かにちぎられてしまうかもしれない。
澄んだ声も、優しい瞳も、本のことを語る姿も、揺れる三つ編みも、儚い笑顔も。
もう私に見せることはないのかも知れない。
雨風にさらされ、人に踏まれても、枯れることのない花は、ここにいると叫ぶように立派に生きている。
私の大事な花。
「ねえ、鏡子」
「なあに」
空を見上げたまま、私は鏡子のひんやりとした手をそっと握って。
それは、友達としてか恋愛としてかわからないけど、それでも胸に抱く感情を。忘れたくない、大切な感情を――。
「好きだよ」
鏡子に捧げた。
一瞬の沈黙。
私は鏡子の顔を見なかった。見たくなかった。見ることが怖かった。
だから誤魔化すように、空を指さして「みてあれ、豆乳みたいに白い川が流れてるよ」と言った。




