41話 その瞳を覗き込んで
月曜日、部活の前にポストを覗くとまた一枚用紙が入っていた。今日は「N」。
火曜日、「T」。水曜日、「K」。木曜日、「O」。金曜日、「A」。翌週の月曜日、「U」。最後に、花咲さんの最後の日、「Y」。
九日間に渡って、毎日アルファベットの書かれた紙が投函された。
金曜日に投函されていた「A」だけ、エメラルドグリーン色だった。「Y」の紙の裏には、今日の日付が、日にち、月、西暦の順番で書かれていた。
放課後、文芸部の部室にて。
机の上に並べられたアルファベットの数々。
それを私、鏡子、花咲さん、花咲さんにくっついてきたアリス先輩が囲うように見つめていた。アリス先輩は真剣な表情から一変、口角を釣り上げ、いつもの余裕そうな笑みを浮かべて唇を動かした。
“Shall I help to decipher a code?”
頭にハテナを浮かべる私と鏡子を横目に、花咲さんが、フンと鼻を鳴らしてアリス先輩に負けず劣らず挑発的な笑みを浮かべる。
“No thanks.”
「花咲さん、アリス先輩はなんて言ったんですか?」
私が質問をすると、挑発的な笑みから、優しい笑みに変わった。
「暗号を解くのてつだってあげようか? って。イギリスでは、Shallをよく使うのよ」
ソファに座り、緑がかった青の瞳を光らせ、私達の様子を観察している。
きっとアリス先輩は暗号の解読を終えているのだろう。じゃないと、あんなことは言わない。
並び替えたら、文章が現れるはずなんだけど……。「A」だけ色が違うのも気になる。
すべて大文字のため、どれが最初に来るかもわからない。 でも、九つしかないのならば文章は限られているはず。
「H」「A」「N」「T」「K」「O」「A」「U」「Y」。色の違う「A」は別においておこう。
エメラルドグリーンの「A」を机の端に寄せた。
残った八つのアルファベット。
もしかしたら、文章ではなく何かの頭文字なのかもしれないんじゃないか……。でも、何もヒントがない。私達は何かを見失っているの?
黙って私達を眺めていたアリス先輩が、ふうと息を吐くとヒントを言った。
「その暗号、それだけで解けるわよ」
アリス先輩の藍色より少し明るい色の瞳が弧を描く。
花咲さんが、アリスを見てハッと目を丸くした。それから、“I know.”と言い、メモを動かし始めた。
だんだんアルファベットの順番が変わっていって、私達が見慣れた文章が浮かび上がる。机の端に寄せいていた「A」を文の最後に持っていくと、
“That's all.”
できた文章は、
“THANK YOU A”
花咲さんが、アリス先輩の方を見てニヤリとした。アリス先輩も、花咲さんから視線を絡めたまま立ち上がり、ゆっくりと机の前に来た。
できた文章を見て、「正解」と言った。
鏡子が、最後の「A」の紙を指でつまみ、アリス先輩の目の横で持つ。
それから、私達と目を合わせると、凛とした表情で、ずっと閉ざしていた唇を開き、澄んだ声で話し始めた。
「この「A」はアリスのことね。この他の色と違うのはアリスの瞳の色のことだったのね。少し目の色と違うけれど、似ているわ。
アリスが英語を喋ったのはイギリスということを意識させるため。
「Y」の裏に書かれた日付けの順番。イギリスでの書き方だものね」
アリス先輩は、「A」の紙を取り上げて、手の中で丸めた。肩に垂れた髪を後ろに払うと、微かに頬を赤らめた。
「千早のことで、お礼を言いたかっただけ。二人いなかったら今も、千早がメールを送っていただろうから……。直接言うのはちょっと恥ずかしくてね」
花咲さんが、アリス先輩に体を寄せると胸を押し付け、首の後ろに手を回す。薄く唇を開けて、アリス先輩の唇に重ねた。
鏡子が、口元に手を当て「まあ」と声を上げる。
唇を離したのは十秒ほど経った後だった。
二人が部室から出ていってから、鏡子は椅子の背もたれに仰け反るように体を預けた。まっすぐに垂れた三つ編みは床につきそうだ。珍しく虚ろな瞳で天井を向いている。
私は、机の上に残ったメモをゴミ箱に捨てて、鏡子の隣りに座った。
何を考えているのだろう。
空調の低く静かな音が静寂に溶ける。
しばらく鏡子は天井を眺めていたが、体を起こすと椅子から立ち上がった。本棚の前に立ち、顎に人差し指を置いて本を探す。手を伸ばしては引っ込めて、伸ばしては引っ込めて。数回同じことを繰り返した後、一番上の棚の端にある本を抜いた。
「鏡子、その本は?」
「中島敦の『山月記』よ。国語の教科書にも載っているわ。舞台は唐時代の中国。元々高い役職に就いていたのだけれど、詩人を目指して辞職したわ。けれど上手くいかず、生活のため、また働き始めるの。地方に出張して、ついに発狂してしまう。そして虎になってしまうお話ね」
鏡子の瞳には生が宿っている。
それから鏡子は中島敦という人物について説明をする。
「一九〇九年五月五日、現在の東京都新宿区で長男として生まれるわ。一九三四年『中央公論』新人号に『虎狩』を応募して選外佳作十選に入るのよ。彼は、教師をしながら執筆をしていたわ。いくつもの作品を世に出すのだけれど、彼が三十三歳の時に気管支喘息で亡くなってしまうわ」
説明を終えると、いつものように膝を抱くように椅子の上に座り、本を読み始めた。
今日も外は雪が降り、数センチだけ積もっている。クリスマスは日に日に近くなり、ホワイトボードに書かれたカウントダウンの数字はもうすぐで一桁になる。私達はクリスマスイブの日に冬休みに入る。
ああ……クリスマスプレゼント、どうしよう。
チョコのお菓子にしようか。小説や詩集をプレゼントしようか。今日の帰りにでも聞いてみよう。
鏡子の読書の時間を邪魔しないように、私は机の中から原稿用紙を取り出して、自分で時間とお題を決めて空白を埋める。
ページをめくる音、シャーペンの走る音が空気と踊る。
時間は三十分、お題は「雪」、「感謝」、「パンダ」。雪と感謝は今日のことから思いついたが、パンダは適当に選んだ。
パンダが主人公のお話にしよう。
雪がどっさりと降り積もり、一人で雪に埋もれていた所をパンダを人間が助ける。パンダは助けてもらったお礼に、人間に頼まれた食材を集めてくる。そのあと、人間はパンダのためにご飯を作ってあげて、人間に「これからも一緒にすまないか」と言ってくれて、その後二人は幸せに暮らすという心温まるお話。
あと数行で書き終えるという時に、スマホが小刻みに震えて、ピピピと電子音が鳴った。
鏡子の肩がピクリと跳ねる。
画面をスライドしてアラームを止めた。
「詠ちゃん、お話を書いてたのね、知らなかったわ。どれどれ~」
本を机の上に置くと、書きたての原稿用紙を手に取り、内容を読み始める。
真剣な眼差しで読み終えると、頬を緩めて微笑んだ。
「素敵なお話ね。好きよ」
「ありがとう」
鏡子はもう一回と、また私のお話を読んだ。




