40話 詩の灯火
お母さんが今日は休みらしく、クリスマスは鏡子と過ごす事と、お父さんについて聞いてみようと思った。
お昼を過ぎて、ソファに座って雑誌を読んでいるお母さんの隣に座り、話を切り出す。
「お母さん、クリスマスの事なんだけど」
お母さんは雑誌を読むのをやめ、テーブルの上に雑誌を置くと、私の方を向いた。垂れ流しのテレビからは笑い声が聞こえる。
私の口から「クリスマス」なんて言葉が出てくるとは思わなかっただろう。
お母さんは首を傾げて「どうしたの?」とニコニコしている。
高校生にもなって、お母さんにクリスマスを友達と過ごすことを報告することをこんなにも勇気が必要だとは思わなかった。後ろに回した手が服を掴んだり離したりしないと体が動いてしまう。
友達と過ごす、の「と」が喉でつっかえてうまく声に出ない。
お母さんは私を急かす事なく、黙って私が話すのを待っている。
テレビ番組がCMに移った時、ようやく私は声に出すことができた。
「クリスマスね、友達と過ごすよ」
お母さんの顔がぱあっと明るくなり、嬉しそうに笑う。仕事の疲れも吹っ飛んだような朗らかな笑み。
「もし、その子がいいのなら、家に呼びなさい。お母さん頑張っちゃうわ」
「え……でもお母さん仕事で疲れてるだろうし」
お母さんは袖をまくり、任せなさいと瞳でアピールする。
「わかった、ちょっとまってて。聞いてくる」
お母さんに背を向けて、鏡子に電話をかけた。
耳元で鳴る、呼び出し音。背中に感じる、お母さんの視線。テレビから聞こえる音が遠くに感じる。
息を潜めて、鏡子が電話に出るのを待った。
軽快なコール音が回数を重ねる。
忙しいのだろうか……。
諦めて電話を切ろうとした時。
『もしもし』
和やかな声が聞こえて、急いでスマホを耳に当てる。
外にいるのだろうか、鏡子の声の後ろで人の声や、信号機のカッコーカッコーという音がかすかに聞こえてくる。
「鏡子、クリスマスの事なんだけどね、お母さんがうちに来ないかって張り切っちゃってて。
鏡子さえ良ければ、私の家でクリスマス過ごさない?」
言えた。
私の後ろでお母さんが「鏡子ちゃんっていうんだ、鏡子ちゃん、へえ」と小声でつぶやいている。お母さんの前で友達に電話するのは初めてな気がした。
きっと今お母さんはニヤニヤしている。
自分の娘が、友達の名前を呼び、クリスマスをうちで過ごさないかと誘っている様子を初めて見て、うちの親がニヤついていないわけがない。
しばらく、うーんと唸る声が聞こえて口を開いた。
『ご迷惑でないのなら、そうしようかしら。
今そこにお母様はいらっしゃる?』
「うん、いるよ」
『替わってもらってもいいかしら』
「わかった」
スマホから耳を離して、お母さんにスマホを向けた。事を理解したお母さんは、咳払いをして耳に添えた。
「初めまして、詠の母です」
お母さんの声が少し高くなる。
あーしまった。スピーカーにしてから手渡せばよかった。そうしたら、鏡子の声も聞けて、どんな話をしているのか把握できたのに。
もう今更そんな事できない。
電話で感謝の言葉を口にしながら、ペコペコと頭を下げ、何かを褒められたのか「やーね、うれしいわあ」と手をちょいっと振るのだった。
何を話しているのか気になる。
しかし、それを知ることもなく、お母さんと鏡子はなにかの話で盛り上がり、最後にまた私にスマホを返した。
『詠ちゃんのお母様、優しい人ね』
「ありがとう。じゃあ切るね」
『ええ、バイバイ』
電話を切る直前、電話越しに「鏡子」と名前を呼ぶ女性の声が聞こえた。電話を切り、スマホをテーブルに置く。お母さんの方を一瞥すると、案の定目が三日月のように細くなり、口角が上がっていた。思わずため息が漏れる。
「鏡子ちゃん、すっごくいい子じゃないの、言葉遣いも丁寧だったし。
あんな子が詠のお友達だなんて……何かの間違いなんじゃって疑ったわ」
「失礼な。友達だよ。
あと、お母さんにもう一つ聞きたいことがあるんだけど」
「どうしたの」
「お父さんのことについて、知りたい」
お母さんは一瞬ビックリした顔をした後、「ちょっとまってて」と告げると、どこかに消えていった。
しばらくすると、お母さんは一冊のアルバムを持ってきた。
ハードカバーで分厚く、水色の表紙には、白いハートが描かれている。
スマホと雑誌を横にずらして、アルバムを置くと、表紙を開いた。まず目に飛び込んでくる仲良さそうな二人の男女と二人の間で眠っている赤子。写真の横には「詠、誕生!」と書かれている。若かりし頃のお父さんとお母さんは、心から溢れる喜びが顔ににじみ出ている。
その下にある写真は、私の寝顔だ。
なにがあったのか、泣いている私と、困ったように笑い、あやそうとしているお父さんの姿。
何気ない日常が切り取られ、アルバムに残っている。
「詠の目元、お父さん似なのよ。目の形なんかそっくり」
お父さんの目元を指さしながら、優しい声で教えてくれた。
もうお父さんはいないけれど、お父さんの血を受け継いでいるのだと思うと嬉しくなった。
ページをめくっていった時、ある一枚の写真が目に止まった。
「お母さん、これは何をしているの?」
お父さんがパソコンの前に座り、キーボードを叩いている。デスク周りには、いくつも厚みのある本が開かれて、付箋がいくつも貼り付けられている。
パソコンの画面は、光が反射してなにが表示されているかわからない。
お母さんは愛しそうに、その写真と指先で撫でると、追慕を浮かべる瞳で呟いた。
「お父さんね、作家だったのよ。楠詩乃って名前で本を出して結構売れてたんだから」
「知らなかった」
「だからね、お母さん働かなくても本当は良いんだけどね、お父さんだけを頼るのは嫌なの。
立派に娘を育て上げて、お父さんに自慢したい」
私の口元は自然と緩んでいた。
お母さんは子どものように感情を顔に出す。子どもっぽいと思うときもあるけれど、私はそんなお母さんが好きだ。わかりやすくて、いつまでもキラキラ輝いているから。
「お父さんが死んじゃってもうだいぶ経つけど、お母さんは今でもお父さんが大好きよ」
「二人が出会ったきっかけってなんだったの?」
「詠がそこまで踏み入ってくるなんて珍しいじゃない」
お父さんが首を吊って死んだとは聞かされていただけで、詳しくは知らない。どこでそれが行われていたかも知らない。お父さんとの記憶がほとんどない。二階のつきあたりに、長く閉ざされた部屋がある。そこがお父さんの部屋ということは知っていたけれど、不思議と入ろうと思ったことはなかった。
お母さんは、遠くを見つめるようにしてお父さんとの思い出を語る。
「お父さんはよく図書館に通っていてね、お母さんはそこの図書館で受け付けをしていたのね。ある日お父さんが本の貸出申請時に、電話番号が書かれた栞を渡されたの。小声で「この後ご飯どうですか」って。
それで、色々あって、お父さんの告白から付き合い始めて、お父さんのプロポーズで結婚した。お父さんは当時から作家だったんだから」
「お父さんの告白」と「お父さんのプロポーズ」という部分を強くはっきりと口にした。
「お父さんと結婚して数年、詠が生まれたのよ。実はね、詠をモデルにした小説があってね。あとで、お父さんの部屋にいってみなさい」
「なんて名前の本?」
「『詩の灯火』」
「わかった」
お母さんの話を一通り聞いた後、階段を駆け上がり、廊下のつきあたりまで歩いた。
いつもより、ドアが大きく、重いような気がする。銀色のドアレバーを握った。手のひらに伝わるひんやりとした、かたい感触。手に力を入れて、手首を軽くひねり、少しの重みを感じながらドアレバーを下に下ろす。
心臓の音が指先まで響いて、息が浅く慎重になる。
ゆっくりと手前に引いて、お父さんの部屋のドアを開けた。古本と埃の匂いが鼻先に漂ってくる。
西日が足元に届いて、室内を琥珀色で染める。ホコリが雪のように降り、光に反射してキラキラと輝いていた。
壁一面天井につくぐらいまでの大きな本棚、綺麗に隅から隅まで本が収納されている。単行本は棚の上の方、文庫本は棚の下の方。床いっぱいに積まれた単行本や文庫本、窓の前に置かれたパソコンデスク。木目調のやさしいデザインだ。
一歩足を踏み入れると、足の裏にやわらかな感触がかすかにあった。
足の踏み場を確保しながら、奥に進む。
デスクの上には、資料の数々が開いたまま。キーボードの前に、一冊の本が置かれている。
埃を被った本の表紙を手で拭うと、『詩の灯火』というタイトルがあった。
「この本だ」
ページをペラペラと捲ると埃が舞い上がった。
咳き込んだ後、私はその場に立ち尽くしたまま、時間を忘れて最初から読んだ。
お父さんの――楠詩乃の文体は、やわらかく、繊細で、ほんのりと甘い。悩める人の心に降り注ぎ、痛みを和らげ、癒やすような優しさがある。
読めば読むほどその世界に引き込まれてしまう。無駄な装飾はなく、まっすぐな文章はどれもあざやかだ。
この物語の主人公である女の子「詩」は両親に愛されていた。しかし、ある日突然両親が交通事後に巻き込まれ、死んでしまう。詩は、いとこのところに預けられていたため無事だった。それから詩の人生は大きく一変し、暗く冷たい世界で生きることとなる。そんな暗闇を生きる詩に一筋の光が注がれた。
詩が十六歳のになった日、同い年の女の子「奏」が現れる。
それから二人の友情物語が始まる、という内容だった。
気がつけば、読破していた。
私は読み終えたこの本を自室に運び、足を洗いにお風呂に入った。




