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鏡写しの君と桜の下  作者: とうにゅー
1章 文学少女は本を胸に抱く
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3話 物知りな三つ編みの少女

 ゴールデンウィークは、シフトに休みを入れる人が多いからと、お母さんは連日朝から晩まで仕事に出かけていた。

 私はお母さんの代わりに家事や炊事を全てこなしていく。洗濯機を回している間に食器を洗い、洗濯物を干している間に部屋の掃除をしていた。同時進行で物事をこなせば忙しい代わりに、少しでも自分の時間を長く確保できる。

 リビングやトイレ、浴室の掃除を終え、やっと一息つく。

 これでようやく自分の時間が与えられる。

 埃も髪の毛も見える範囲では落ちていない。

 なんて心地のいい空間。


 ソファに全体重を預け、テレビを見ながらまったりと過ごす。テレビからは、○○号線上りの渋滞が何キロとか、各地の観光地では……とか、各地の空の状態とか、ゴールデンウィーク一色に染まっている。開けた窓から涼しい風が舞い込み、カーテンに波を立てた。

 スマホを目の前のガラステーブルに置き、横になって目を閉じた。深く息を吸い込むと、柔軟剤のやさしい香りが風に乗って鼻腔をくすぐった。安らかな気持ちの中、意識が闇の中へ沈んでいく。テレビの音声がぼやけて聞こえなくなり、意識が眠気に飲み込まれようとした時。

 ヴヴヴヴ。

 バイブ音とともにカタカタとガラスの震える音がした。まぶたを開けて、スマホを掴む。指先に集まった熱が、私は半分寝ていたということを自覚させる。

 画面を見ると、鏡子からだった。後でかけなおそうかと一瞬思ったが、既に人差し指は左から右にスライドしていた。

 耳にスマホをあてると、春の太陽のようにやわらかくあたたかな声が抵抗なく耳に入ってきた。


『こんにちは、詠ちゃん。

 渡したいものがあるのだけれど、今から会える?』


 通話を切り、自室に帰って服を着替えた。

 女の子らしい服装と言えるかと問われればそうではなく、ラフな服装だった。おしゃれに興味がないわけじゃない、ある。


 ただ、女性らしい服が売られている店に入ることに恐怖を感じる。

「いらっしゃいませ」と高く明るい声で、私の存在を認識される。服を選んでいると「なにかお探しでしょうか」とか「お手伝いしましょうか」と声をかけてくる。それが苦手なのだ。店員側としては「あなたの事を見ていますよ」という万引き防止の為の声掛けらしいが、とにかくその行動に慣れない。声をかけられるとその後もひどく緊張してしまうのだ。


 姿見の前で髪を整えて、スマホと財布、家の鍵を持ったか点検する。

 よし。

 戸締まりをしてから家を出た。鍵穴に鍵を刺して手首をひねる。鍵が閉まる音がして、鍵を抜いた。細長いドアノブを手前に引くがガチャガチャと鳴り、鍵は閉まっていると安心する。

 しかし、私は数歩歩いてから、ちゃんと玄関の鍵は閉まっていたのか不安に襲われた。

 またドアまで引き返す。ドアノブを掴み、引いてみるが開くことはなかった。


「よし」


 安心して出かけることができる。

 通学路からそれた道を進む。パレットに少しの青色とたくさんの水を混ぜたような薄い空が広がっていた。住宅街を抜け、道幅が広くなる。車の通りは極端に減る。

 しばらく歩くと大きな公園が見えてきた。

 大小様々な木々が公園のいたるところに植えられ、遊具はないが、近所ではデートスポットやお散歩コース、写真撮影の場所として人気だった。春には桜や色とりどりの花が咲いて、お花見をする人もいる。

 公園の中に入り、お散歩コースを歩いていくと池の前まで来た。池に架けられた橋に経っている少女が一人。長い三つ編みが肩からこぼれ、橋の手すりに手をおいて池を楽しそうに見つめている。



「鏡子!」



 私が声を掛けると、鏡子は私の方を見て顔に花を咲かせた。細い腕には白い紙袋がぶら下がっている。

 鏡子の元まで行くと、鏡子は「こんにちは」と挨拶をして謝ってきた。


「急に呼び出してごめんなさい」

「いいよ、暇してたし」

「これ……」


 鏡子は腕に通した紙袋を手までずらすと、私に差し出した。受け取った紙袋は思ったより軽い。かわいらしい花がらのテープが貼られていて中は見えない。


「お恥ずかしい話、それもうすでに持ってたみたいで……」


 鏡子はぼそぼそと消え入りそうな声でつぶやき、視線を下にずらして、すくめた肩を揺らしている。


「ありがとう」


 声のトーンを明るくし、口の端を上げて笑ってみせると、鏡子は照れながら笑った。


「鏡子、さっきなんで楽しそうに池を見てたの?」

「鯉が泳いでたからよ」


 この公園には何回も来たことがあるけど、鯉なんて一度も見たことがなかった。

 鏡子は、池の方を向き、水面を指差す。

 指の先に目をやると、鯉がパクパクと口を開けていた。白い体に朱色と墨液を飛ばしたようなまだら模様。薄い背びれを動かし、優雅に泳いでいく。


「和って感じするでしょ」

「そうだね、心が落ち着くよ」


「出てこい、出てこい」


 鏡子は優しく伸びる声で歌い始めた。

 私は鏡子の声に耳を傾け、鯉を眺める。ゆっくりした声の流れと歌詞が鯉を表現している。歌い終わると、鏡子ははにかみ、さっきの歌について話し始めた。


「『池の鯉』っていう童謡でね、明治時代の古い唱歌で、作詞者作曲者ともに不明なの。

 出てこいの「こい」と池の鯉の「鯉」で韻を踏んでるの」


 鏡子は本当に十七歳なのかと疑う。人生二周目とか、前世の記憶を持っているとかそんな特殊な人なのじゃないのか。

『池の鯉』は明治四十四年、一九一一年に刊行された尋常小学唱歌第一学年用掲載の文部省唱歌らしい。鏡子と過ごしていると色々な知識が増えていく。


「ねえ詠ちゃん、少しお散歩でもどう?」

「いいよ」


 橋を渡り、お散歩コースへと足を向ける。

 ベビーカーを押して歩く若い母親や、ペットの散歩をする仲睦まじそうな老夫婦、本格的な格好でランニングをしている男性。様々な人とすれ違う。

 枝から生える青々とした葉が日差しをやわらげて、日陰を作る。


「ここはゆっくりとした時間が流れているようね」


 鏡子は澄んだ瞳で花々を見つめて、うっとりと呟いた。

 ちょっとした休暇はどこの観光地も人で溢れていたり、渋滞に巻き込まれたり、乗車率が百パーセントを超えていたりすることもある。そんな中でここは急ぐ人もいなくて、マイペースに過ごしていた。


「あっ!」


 鏡子は足元を見ると明るい声をあげた。その場に屈み、花壇に植えられた鮮やかに色付ける花を見つめた。


「好きな花なの?」

「いいえ、そうじゃなくて……」


 鏡子は、控えめに花弁の部分を指差す。私も鏡子と同じ目線になってみた。


「あっ」


 黒い羽に青緑っぽい模様が縦に並んでいる蝶がいた。足に花粉をくっつけて、ストローのような細長い口を伸ばして花の蜜を吸っている。


「アオスジアゲハよ、この蝶好きなの」


 鏡子は愛おしそうに目を細めて口元を綻ばせる。鏡子のその表情と花はとても良く似合っていて絵になった。

 アオスジアゲハは、羽を開いたり閉じたりを繰り返し、蜜を吸い続けている。と、そこへ他の蝶がやってくるとアオスジアゲハは吸うことをやめて他の花へと羽ばたいていった。

 アオスジアゲハを追いやった蝶は、白い羽に黒い斑点があってアオスジアゲハに比べてかなり小さい。花の周りをぐるりと一周すると、羽を閉じて花弁の上に乗った。


「モンシロチョウね、モンシロチョウのオスはメスを見かけると後尾のために追いかけるのよ」


 と鏡子が話した途端、他のモンシロチョウが姿を表し、花に乗っていたモンシロチョウに近づいた。花に乗っていたのはメスか。

 オスが近づくとメスは逃げるようにその場から離れる。そしてオスはメスを追いかけていった。


「しつこい男は嫌われるわよ」


 鏡子は言葉を言い残すと立ち上がった。

 この歳になると、前ばかり見て歩くせいで、足元なんて見なくなっていた。花を発見しても、「あ、花だ」ぐらいの認識でまじまじと見ることもなかった。

 幼い時は目線が低かった分、足元がよく見えてきれいな花や葉の上を這う芋虫を発見した時はじーっと飽きるまで眺めていた。毎日を生き生きと過ごしていた気がする。

 公園の入口に戻ってくると、鏡子はさっきの花のように微笑んだ。


「今日はありがとう、また学校でね」

「こちらこそ」


 手を触りあってお互い背中を向けて歩き出した。

 帰りに近くのスーパーに足を運ぶ。夕方のタイムセールが始まっていて、野菜や卵が安くなっていた。人にぶつからないように隙間を縫って鶏もも肉をカゴに入れる。途中で牛乳を入れた。惣菜売り場を通り過ぎ、調味料コーナーへと向かう。

 もうサラダ油が切れかけてたはず。

 なんでもそうだけど、たくさん種類があってどれが一番いいのかさっぱりわからない。

 家にあるラベルや形を思い出して、それらしきサラダ油を選んだ。

 お菓子コーナーでポテトチップスを二袋をカゴに放り込んでお会計へ。人が多く、レジは混んでいた。どこも四、五人並んでいる。

 

 仕方ないか、この時間だし。

 会計を済ませて帰路についた。油と牛乳の重みが私を苦しめる。

 腕に筋肉がないため、この重さはつらい。

 抱き上げたり、両手で持ったり、頻繁に姿勢を変えながらやっとの事で家についた。

 時計を見ると午後六時を回っている。

 冷蔵庫に鶏もも肉と牛乳をいれて、お米を洗う。水につけている間に洗濯物を取り込まなければ。

 休みたい気持ちを心から追い出して、外に出た。物干し竿に垂れ下がっているタオル類や、引っ掛けられたハンガーに通された服、円形の洗濯物を干す棒の先に洗濯バサミがつけられていて、洗濯ばさみは下着を挟んでいる。風で洗濯物がゆるやかに揺れている。

 庭とリビングをつなぐ大きな窓を開けて、部屋の中へ洗濯物を投げ入れた。スリッパを脱ぎ、私も部屋に入る。

 正直体はくたくただった。

 倒れ込むように正座をして、洗濯物を畳み始める。

 お母さんは毎日これらをこなしながら仕事をしているのだからすごいなあと思う。母は強いと感じた。お母さんが帰ってくるまでに夕食を作って、できればお風呂も済ましてしまいたい。

 そんなことを考えながら、洗濯物を全て畳んだ。

 ふうと息をつき、立ち上がる。炊飯器のスイッチを押して、その足でお風呂場へ行き、浴槽にお湯を沸かした。


「ご飯を作らないと」


 浴槽に溜まっていくお湯を眺めながら力なく呟く。この湯気と一緒に私も空気に溶けてしまいたい。

 なんとかすべて終わらせて、私は鏡子にもらった紙袋を手に取り、自室に帰った。明かりをつけてベッドに倒れる。テープを破り、紙袋から中身を取り出した。

 飛び込んできたタイトルに私は目を見張る。

 疲れは吹き飛び、代わりに体の血がサーッと引いていくのを感じた。全身の皮膚が泡立ち、世界が回るように頭がくらくらする。



 思い出してはいけない。



 思い出しちゃだめだ。



 思い出すな。



 私は本から目を背け、反射的に壁に投げつけた。本が壁に当たり音を立てて落ちる。

 私はハッとして体を起こす。本を拾い上げて、本棚の前に立った。背表紙を壁側に向け、

 一番上の棚の本の上に置いた。

 鏡子の気持ちは嬉しい、でも私は受け取れない。鏡子がわざとあの本を私に渡したわけじゃないと分かっている。けど、やっぱり無理だ。

 あの小説を読んではいけない。



 読んでしまったらきっと――。



 私は、消えてしまう。

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