35話 姫とメイドは黄昏に
それはあまりに突然だった。
朝食を済ませたあと、花咲さんがお手洗いに立った時。ソファに座っていたアリス先輩が愛していた人へのメールを返そうと思い、返事したことが引き金となった。
穏やかな空気は、鋭い音を立てて裂けたようだった。
ガラステーブルの上に置いてあった花咲さんのスマホから着信音が流れたのだ、アリス先輩がメールを返した直後に。
鏡子の小説のページをめくる指が止まり、花咲さんのスマホへ視線が向く。
アリス先輩は顔をスマホに向けたまま、目線だけがスマホに移る。アリス先輩の眉が一瞬ピクッと動いた。
花の水を交換していた内海さんが動きを止め、アリス先輩の方を見た。
廊下の向こうから、静かな足音が近づいてくる。
視線が、スマホから廊下へと、足音へと注がれる。
一歩一歩とリビングに近づく。
そして。
「千早、これはどういうこと?」
アリス先輩が、花咲さんのスマホを掴み、立ち上がると、ゆっくりと詰め寄る。
花咲さんは事を察したのか、表情が固まる。アリス先輩の迫力に押され、花咲さんは壁にピッタリとくっつくほどまで後ずさりをした。
「なにかいいなさいよ、千早!」
鋭く尖った怒りを含んだ声が、花咲さんを突き刺す。
それでも、花咲さんは口を開こうとしない。アリス先輩のスマホを握る手が小刻みに震えている。
「アタシを騙したの? ねえ、千早。どうしてこんな事をしたの!」
花咲さんは、揺るぎのない瞳でアリス先輩を見つめる。もうその瞳に怯えはなく、凛と、何者にも屈しない芯のあるものだった。どこか冷ややかで落ち着いて見えるのはそのせいだろう。
アリス先輩は、スマホを壁に投げつけると、音を立てて床に落ちた。花咲さんはそれも気にせず、アリス先輩を見据え続ける。
スマホを持っていた手は、拳が作られ、そのまま壁を殴った。
そんな光景を私達は黙って見ている。誰も止めようとしない。
アリス先輩の口からは、怒りだけじゃない、悲しみも混じった声が留めなく溢れ出す。
「何が目的なの、アタシになにか恨みでもあるの! 千早、黙ってないでなにかいいなさい。どうしてそんな目でアタシを見ているの。お願いだから、なにか言って。
アタシを悲しませないために、あんなことをしたというのなら違う。それは違うわ、間違ってる。
あんなことされたらアタシは余計に辛くなってしまう!」
叫ぶ心の声。痛みを覚えた心の声。炎のように乱れる髪。
私の知っているアリス先輩はもういない。
余裕のある、誇らしい笑みを浮かべる九重アリスはもういない。
弱いところのある九重アリスがここにいる。人間、弱いところは必ず持っているものだ。だから、こんな形でアリス先輩の弱いところを見て少し驚いただけ。
吐き出される怒り。傷つけられた、裏切られたと言う見えない言葉。
アリス先輩が怒鳴る度、空気は揺れ、音を立てて痺れた。
怒号に涙が滲んでいく。
「お願い、本当に……なにか言って。あんなメールをしてきて、千早はなにがしたいの。千早はどうしてあの人のことを知っているの。アタシとあの人の思い出をどうして知っていたの……」
昨晩、アリス先輩は、花咲さんのメールアドレスを知らないと言っていた。だから、あの時アリス先輩が送ったメールが花咲さんに届くのはおかしいことなのだ。ましてや、アリス先輩が愛していた人に返したはずのメールが花咲さんに届くことも。
天国から届くメールなんてあるはずないとどこかで思いながら、二人だけの思い出を語られたら信じざるおえない、半信半疑だったものがいつの間にか信じている方が多く占めていたのだろう。
それ故に、裏切られたという気持ちが強く動く。
今にも膝から崩れてしまいそうなアリス先輩。花咲さんはようやく口を開いた。
アリス様をやわらかく抱きしめ、落ち着いた口調で閉ざしていた真実を開ける。
「アリス様、今から真実をお話しましょう。私は以前、掃除をしていたら、日記を見つけたのです。その日記には、写真が挟まれていて、若い男の執事と幼いアリス様が写ってました」
花咲さんが紅茶を床にこぼした時、若い男の幽霊を見たと言っていた。あれは、この写真を見て言った嘘。
アリス先輩は語らなかったが、彼の死因は事故ではなく、事故に見せかけた自殺だったそう。
何のせいで自殺をしたかまでは書かれていなかったが、自殺をした。
その証拠に彼が自殺した日から日記の更新はなかった。
「日記の最後、彼の自殺する前日のページには、アリス様への願いと思いが書かれていました」
アリス先輩が弱々しくつぶやく。
「願いと思い……?」
花咲さんはしっかり頷く。
「願いは『アリス様が今後幸せでいること、例え私がいなくても』、もう一つは『アリス様を愛していたこと』」
しっとりとした花咲さんの声。漏れるアリス先輩の嗚咽。
「私は彼の意思を引き継ごうとしました。アリス様が幸せでいられるように。始めは彼の願いを果たすためにしていました。しかし、アリス様と接していくうちに、私は自分の心に芽吹いた気持ちがありました」
体を離すと、アリス先輩の目を見た。
花咲さんの表情が崩れていく。凛としていた瞳は、潤む。
目尻に溜まった涙がこぼれて、音もなく頬を滑り落ちた。震える唇を開いて、気持ちを言葉に乗せる。
「アリス様、私は、あなたに恋をしてしまったのです」
アリス先輩の肩が小さく揺れる。
私の後ろで、誰かがハッと息を呑んだ。
「駄目だ駄目だと思うほど、この気持ちを抑えようとするほど、アリス様への気持ちは大きく膨らんでいきました。この気持ちはずっと胸にしまっておこう、そう決めたこともありました。けれど、もう隠すことができなくなったのです」
「千早……」
花咲さんは、涙を必死にこらえて声を上げる。
「アリス様、私はもうここには居られませんっ!
アリス様を騙し、アリス様を愛してしまったのですから」
その瞬間、時が止まった。
アリス先輩の手が花咲さんの頬を包み込み、二人の姿が重なった。花咲さんの目が開かれ、再び涙がポロポロと落ちていく。
ほんの数秒。長い数秒。
花咲さんの抱く愛を受け入れた瞬間だった。
二人が離れると、花咲さんはぐったりとアリス先輩にもたれかかった。アリス先輩の肩に花咲さんが顔を埋める。
力の抜けた花咲さんの腰を抱いて、アリス先輩はソファに戻った。そのまま花咲さんは横になり眠ってしまい、アリス先輩は羽織っていたカーディガンを体にかけた。
「しーっ」と唇の前に指を立てて、花咲さんを起こさないようにと合図をする。
それから私達は、一度部屋に戻って静かに過ごすことにした。内海さんも、リビングから離れ、庭に出てお花に水をあげていた。
鏡子はベッドに腰掛け、私は鏡子の隣に寝そべり、ぼーっと天井を見ていた。
「ねえ、鏡子。花咲さん、アリス先輩に恋をしていたんだって」
「そうね、素敵ね。人に恋をするって素敵なことよ」
「例え、同性でも?」
「もちろん。性別なんて関係ないわ。その人自身を好きになったのだから。心に惹かれたのなら性別なんて気にならないのよ」
性別でも関係ない、か。
三島由紀夫も、『仮面の告白』で同性愛を語ってたりするし、川端康成も『少年』という短編の作品書いてるし……シェイクスピアもゲイだっていう噂あったし、オスカー・ワイルドもゲイだったし。
偏見があるわけじゃないけど、自分自身のことになると分からなくなる。
心に惹かれたなら、見た目なんて気にしてなかったということだし、同性に恋をしてもいいのかも知れない。
愛の形なんて人それぞれなのだから。
私はその会話の後しばらく話さなかった。
部屋に入る光が、琥珀色に変わってきた頃、私達は部屋を出て、足音を立てないようにリビングをそっと覗いた。
ベッドに横たわる花咲さん。花咲さんの太ももの傍に腕を乗せ、顔を伏せて眠っているアリス先輩の姿があった。夕日が二人を淡く照らしている。
私達に気付いた内海さんは、しーっと指を立てて優しく微笑んだ。
内海さんに車で送ってもらい、家についたのは午後七時を回ったときだった。今日はお母さんも仕事が休みで、リビングから明かりが漏れている。
ドアを開けると、鬼がリビングからすっ飛んできた。眉を吊り上げ、瞳に怒りを宿す鬼。
「既読つけて、返事をしないなんて。まったく、ちゃんとお世話になった先輩のお家のこと教えてもらわないと困るじゃないの。お礼も言わなきゃいけないのに、もー!」
「ごめんなさい」
私が謝ると、お母さんは「今度からは気をつけてね」と笑い、お風呂に入るように促した。




