33話 夜は女の秘密
お風呂から上がって、部屋に案内される。
重そうなドアが開けると、クイーンサイズの高級感溢れるベッドや、鏡台、そして、本棚もある。本棚には隙間がないほど本が詰められている。
「うれしい、部屋はそのままなのね。あー懐かしい、『スノーグース』だわ」
鏡子は、頭に乗せたタオルをひらひらさせて、本棚に駆け寄ると、ちょっと背伸びをして本を引っ張り出した。嬉しそうに本を抱き、ベッドに腰掛けた。
バスローブが少しはだけて、火照った素肌が覗く。
後ろでドアが閉まる音がした。
鏡子の隣に座ると、『スノーグース』の表紙を優しく撫でると、口を開いた。
「『スノーグース』はポール・ギャリコの作品で、一九四一年にアメリカの文学賞であるオー・ヘンリー賞を受賞したわ」
恐る恐る鏡子の肩に頭を傾けて、肩にゆっくりと頭が乗っかった。一瞬鏡子の声が跳ねたが、また声色が戻る。
「孤独な画家であるラヤダーのところに、白雁を抱いた少女、フリスが現れる。そして、二人は心を通わせていくの。でもね、気持ちを伝えられないまま、戦争が始まってしまって、ラヤダーは戦場へと行ってしまうわ。
わたしはね、ポール・ギャリコの作品の中でも『スノーグース』が一番好き」
表紙をそっと開いて、幼い子どもに話すように優しく穏やかな声色で、私に読み聞かせ始めた。
鏡子がそうやって愛しそうに、楽しそうに、語った物語を、私は読みたくなってしまう。気になって、「今度読んでみよう」と思うのだ。
部室には沢山の本がある、そこになければ図書室や図書館に行って探せばいい。そこでも見つからなければ、ネットで探して、買えばいい。
鏡子の声に耳を傾けながら、スンスンと鼻をちょっと嗅いでみると、同じシャンプーの匂いがして、心がくすぐったくなった。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚で鏡子を感じている。
普通の友人関係で、こういうのって変じゃないかな。
元々友だちがいなかった私には、どういう友人関係が普通なのかはっきりとわからない。人間関係なんて人それぞれだし、愛の形もいろいろあるから、コレというものはもしかしたら無いのかも知れない。しかし、小説を読む限り、友達に甘えたりするような描写はあまり見たことがない。同性ならばなおさら。
恋人同士なら、甘えたりすることはよくあるのだろうけど。
私達は恋人じゃない。
ただの友達。
しんとした部屋に、鏡子の声が空気を震わせて、甘やかに溶ける。
ページをつまむ細い指や、バスローブからむき出しになったほっそりとした手首が女性ということをより感じさせる。
同性と恋愛って、おかしなことじゃないんだろうけど……。私はどうなんだろう。
鏡子は、短く息を吐くと本を閉じて「今日はここでおしまい。部室に『スノーグース』があるから、また読んであげるわ」と私の頭に手をおいて言った。
「詠ちゃんどうしたのー? 甘えたいのかしら、ふふっ」
いたずらっぽく笑う鏡子。私は恥ずかしくなって、鏡子から頭を離してベッドに転がった。柔らかい枕に顔が埋まる。枕を掴み、じっとしていたら、脇の下あたりのベッドが沈む感じと、掛け布団カバーのこすれる音がした。
「よしよーし」
頭に手が置かれて、ふんわりと何度も撫でられる。きっと今、顔は真っ赤だ。
私は鏡子がどんな表情で撫でているのかわからない。だからこそ、余計にドキドキしてしまう。視覚が奪われている分、触覚に意識が集中する。
誰か助けて。恥ずかしい。
そう願ったとき、ドアの開く音と元気のある声が聞こえてきた。
「夜は長いわー。お菓子を食べて騒ぎましょう!」
昼間のメールのことなんてなかったかのようだ。
頭に感じていた手の感じやベッドの沈みが軽くなり、私は頭を上げた。
私達と同じバスローブを着たアリス先輩と両手いっぱいの飲み物やお菓子を持った花咲さんが入ってきた。
丸いテーブルには、ポテトチップスや、チョコクッキー、ポップコーンと言ったありとあらゆるお菓子とオレンジジュースやコーラ、それからウォッカ、グラスが置かれる。
花咲さんは、ボトルの蓋を回して開けると、グラスに少し注ぐと今度はオレンジジュースをグラスに入れた。金属製の細長い棒でくるくる混ぜると、アリス先輩に差し出す。
フカフカのアームチェアに座ると、差し出されたグラスを受け取り、グラスの半分ぐらいまで飲んだ。
「お風呂上がりのお酒は最高ね!」
「お酒って、アリス先輩まだ未成年じゃないですか」
指摘すると、アリス先輩は一瞬片目をキュッと閉じて笑みを浮かべた。
「イギリスでは十八歳で成人なのよ」
「ここは日本です!」
「いいじゃないの、なんならヨミも飲んでみなさいよー」
見せつけるようにグラスを突き出す。一方の花咲さんは黙ってオレンジジュースを注ぎ、ベッドの横の小さなテーブルに置いた。
こういうのなんて言うんだっけ。ああ、お菓子パーティーだ。夜な夜な女子たちが集まって、お菓子を貪りながら恋バナや愚痴を言い合うパーティー。
ベッドから体を起こして、ポップコーンに手を伸ばした。ひとつ摘んで口に入れる。
「ほーら、千早も。メイドとかどうでもいいから! 一人の女として参加しなさいよー」
アリス先輩はポテトチップスの袋を開ける花咲さんの背中を叩き、にぃっと笑った。途端に花咲さんの頬が赤くなり、「アリス様がそうおっしゃるのなら……」と袋を開けるのを止めて、椅子に腰を下ろして、お菓子をつまんだ。
花咲さんも、アリス先輩に負ける劣らずモデルのような体型。バスローブでは隠せない胸の谷間が……。
同じ日本人なのに、これほどの差を作るとは……。
花咲さんもお酒を嗜むようで、グラスにウォッカとオレンジジュースを注ぐ。
誰が話し始めた言葉から、会話に火がつき、お菓子を食べ、ジュースを飲みながら、その小さな火に言葉という薪をくべ、火の勢いが増すのだった。
「ねえ、千早ー。あんた、恋人とか好きな人っていないわけー? ずっとアタシの世話しててさー」
ほんのりと紅潮した頬と、いつもより締まりのない表情でアリス先輩は花咲さんに絡む。花咲さんは、グラスに入った飲み物を飲み干すと、テーブルにコップを置いてぴしゃりと言い張った。
「恋人はいません。それにアリス様のお世話をするのは当たり前のことです。私はあなたさまに仕えるものなんですから」
「いいのよ、別に。アタシなんて放置してても。好き勝手自由に生きてるんだから」
「自由に生きるのは構いません、私はメイドですが、好きでアリス様のお世話をしていますから」
「ふーん……」
アリス先輩はなにかの意味を含んで相槌を打った。
「すみません、私ちょっとお手洗いに行ってきますね」
花咲さんは席を立ち、部屋から出ていった。
鏡子はオレンジジュースを手に持ち、アリス先輩に聞いた。
「ねえアリス、アリスこそ恋人はできたこと無いの? イギリスでも」
「やあねキョーコ。アタシはあの人一筋だったんだから。今でも愛しているわ。でも、それは過去の人としてだけどね。
あの人がぽっくり逝ってからもイギリスでしばらく過ごしていたけれど、あの人よりいい男なんていなかったわよ」
アリス先輩は一気にお酒を飲み干すと、またウォッカとオレンジジュースを注ぐのだった。
「わたしは本を愛しているわ。人を愛するのと同じぐらい」
『スノーグース』を抱きしめて、鏡子は呟いた。
「じゃあ、好きな人はいないの?」
そんな質問に、鏡子の肩がビクッ跳ねて、本で口元を隠した。アリス先輩の眉が上がり、口元をニヤリと歪める。
「その様子じゃいるようねえ、キョーコちゃん。ねえ、どんな人なのよ」
「鏡子、好きな人いたんだ。ちょっと、気になる」
「いるけど……気持ちは伝えないわ。この気持ちはそっと胸にしまっておくの」
「そのぺたんこな胸に? そのうちあふれちゃうわよ。あと、恋心を胸にしまっても、胸は大きくならないよ」
クスクスと笑うアリス先輩に、鏡子は口を尖らせる。
「私も鏡子様の好きな人、気になります」
トイレから戻ってきた花咲さんは、髪を左下のほうで一つにまとめあげ、肩から垂らしていた。両手には、マシュマロが入った袋やドーナツの入った箱を持っていて、お尻でドアを閉めた。
「この中にチョコ味のドーナツが入っています。鏡子様が教えてくだされば、チョコ味のドーナツを差し上げましょう」
鏡子は、チョコ味のドーナツ欲しさ故に、ほんの少し好きな人の情報を私達に教えた。




