32話 そばで見てる
キッチンに行くと、床のタイルに花咲さんが倒れ、赤い液体が広がっていた。メイド服が液体を吸い、湿っている。
アリス先輩は、自分のスカートが濡れることも気にせず、花咲さんを抱き起こした。
「千早、大丈夫!?」
「ちょっと驚いちゃって、紅茶こぼしてしまいました……あはは」
紅茶?
目線を上にずらして、キッチンカウンターを見ると、ティーカップが倒れて、中身がこぼれている。血かと思ったけど、どうやら紅茶のようだ。
鏡子は布巾に紅茶を染み込ませてはシンクで絞りを繰り返し、床に溢れた紅茶を拭く。
花咲さんは、アリス先輩をじっと見つめて呟く。
「さっき幽霊を見ちゃいました。若い男の人で、イケメンでした」
「幽霊?」
「はい、黒髪のよく似合っていて、胸ポケットに星が描かれたペンが入っていて、優しそうな顔をした方でした」
アリス先輩の瞳孔が開く。口角が微かに上がり、一瞬女性らしい顔になった。
「そう……千早、シャワー浴びて着替えてきなさい」
花咲さんを立たせて、シャワーを浴びるように促した。花咲さんは「はい、ではそうします。失礼します」と言い、足早にキッチンから出ていった。
鏡子も床を拭き終わったようで、布巾を洗い、ふきん掛けに引っ掛けた。
紅茶の色に染まっていた床は白さを取り戻す。
綺麗に収納された食器や、汚れ一つ無いキッチン周りを見て、きちんと掃除がされているのだなと思った。
アリス先輩、というより、この九重家には何かが取り憑いているんじゃないだろうか。なにかの祟りとか。
リビングに戻り、花咲さんが戻ってくるのを待つ。
また、あの軽快なメロディがリビングに響く。
画面に表示される『メールを受信しました』の文字の並び。
一瞬頭がくらりとした。
アリス先輩はスマホを手に取り、メールを開いた。無言で読むと、それを私達に見せる。
件名はない。
内容は、キッチンでの出来事について書かれたものだった。
一体何なんだ……。
しばらくして、カジュアルな服装に着替えた花咲さんが帰ってきた。サイドテールで髪をまとめ、涼しそうに見える。
「ただいま、花咲千早戻りましたっ!」
こほんと咳をし、
「素が出ちゃいました……おはずかしい」
と肩をすくめた。
重い空気をものともしない、もしくは気付いていないのだろう。
アリス先輩は、視線を花咲さんから私に戻して口を開いた。
「今日、ふたりとも泊まっていきなさい」
突然のことに鏡子と目を見合わせる。
鏡子は私と視線を絡めたあと、視線を外して頬を赤らめて、こくこくと頷いた。
何を想像したんだろうね。想像力豊かで古今関係なくジャンルも関係なく作品を読んできた志賀鏡子という女の子は何を想像したのだろうか。
スマホを取り出して、お母さんにLINEした。
『今日、先輩の家に泊まることになった』
『その方のお名前と住所は? お礼を言わないと』
既読をつけて返事はしなかった。
スマホをしまい、ソファに座り直す。
「鏡子も、親に許可取った?」
「え、ええ。とったわ、泊まってらっしゃいって」
鏡子はそう微笑んでいたが、いつもよりぎこちない笑みをしていた。私はふとあの日の夜を思い出した。
鏡子の部屋にあった家族写真を見ていた時、お風呂に入っていた鏡子があがってきたときのことだ。
写真を見つめて、
甘い微笑みで、やわらかい声で。
――わたしのお母さんとお父さん、とっても優しかったのよ。
あの時、鏡子は何を思い出していたのだろうか。
あの笑みには何が含まれていたのだろうか。
「詠ちゃん?」
「あ。ごめん。ぼーっとしてた」
鏡子は、体を私の方に向けると、私の額を指で弾いた。むき出しの少し日に焼けた腕や、袖の隙間から見えた脇に目が行く。それから、浮き出た艶めかしい鎖骨や細い首を見て鏡子の顔に視線を動かす。自分の目元を指さし、姉のような口調で言う。
「嘘ね、視線が右下にあったもの。考え事してたでしょう」
図星だ。
何も言い返せずにいると、花咲さんとアリス先輩が顔を見合わせて、くすくす笑う。
「キョーコ、ヨミのことよく見てるじゃないの」
「そ、そんなことないわよ! 友達ならふつうのことよ!」
反論するが、二人はおかしそうに笑った。鏡子は頬を紅潮させて、ふんっと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。水色のワンピースの裾がふわりと揺れる。腰辺りで締まった紺色のベルトが体の細さを証明している。
ドアをノックする音が聞こえ、「失礼します」と声とともにドアが開いた。
「アリス様、夕食の方はどうなさいますか」
内海さんは黒いタキシード姿から、白のコック姿に変わっている。執事兼コックなのか。
アリス先輩は、唇の間に指をはさみ、んーっと唸ったあと、「春馬のおすすめで」と笑みを浮かべて言った。




