2話 文芸部へようこそ
世間はゴールデンウィークに差し掛かろうとしている。転校生だった鏡子はすっかり、クラスに馴染んでいる。日を増すごとに休み時間に鏡子の周りに集まるクラスメイトもいなくなり、他のクラスから鏡子を一目見ようと訪ねてくる人たちも減りつつあった。
きっと、今日もいつもと同じような日々を過ごすものだと思っていた。
朝日が差し込む教室、窓を開けると吹き込んでくる涼しい風。三つ編みを風に乗せて、ぼんやりと外を眺めている鏡子。
そこまでは同じだった。
鏡子の顔がこちらを向き、小さな唇が動いた。
「詠ちゃん、わたし部活を作ったわ」
藪から棒になんだ。いきなり何を言い出すんだ。目を剥く私に鏡子が続ける。
「文芸部よ」
惚けた顔をする私とは違い、鏡子は意気揚々と張り切っている。
鏡子はえっへんと胸を張る。胸が強調され、少しの膨らみに服がしわを作った。腕を突き出し、細い人差し指を私に向ける。声高らかに発言した。
「文芸部!」
鏡子の声が教室にこだまする。
ようやく私は口を開いた。
「二回も言わなくても聞こえてる」
関心なさそうな私の態度に、鏡子は不満らしく、ぷぅと頬をふくらませる。
「入りたいとかそういう感想はないの?」
鏡子の発言を無視する。私は視線を鏡子から本に移した。
文芸部って文化系の部活なのは分かるけど、何をするか知らないし、少なくとも入りたいとは微塵も思わない。
本を読んでいると、鏡子はバンッと机に手をつき、私の顔を覗き込む。
「入りたいわよね?」
いつもは優しさを瞳に宿していたが、今回は優しさの後ろに脅迫という言葉が隠れている。鏡子の白色というイメージにねずみ色がうっすらと混じった。
「入らない」
本から目を離して鏡子の瞳を捉え、きっぱり告げる。
さっきの態度はどこへやら。
鏡子は眉をハの字に下げて弱々しい声を漏らす。手を合わせてお願いのポーズ。
「ゴールデンウィークまでにあと一人部員を加入させないとだめなの……」
うちの学校は、最低人数が二人いれば部活として認められる。
だからって私じゃなくても……。
「他の人は? 誰かいるでしょ」
「お願い。形だけでいいから」
「形だけなら……いいけど」
渋々答えると、鏡子は目を輝かせて頬をほんのりと紅潮させた。その場で一回転し、三つ編みが風と回転により高く上がり私の手を叩く。
髪の毛も、
束になれば、
強度増す。
心の中でそんな川柳を詠んだ。
机の上に置いた鞄を開き、中に手を突っ込むと一枚の用紙を取り出した。それを私の机に置く。
『入部届』と書かれている。用意周到なこった。
「これにサインしろと?」
鏡子は満面の笑みで大きく頷いた。
学年組、出席番号名前性別、住所電話番号、入部志望理由の欄があった。
志望理由なんて書こうか。
部活が作ったということは担当の先生もいるはず、無理やり入部させられましたなんて書けない。
ボールペンを渡され、書けるところを記入していく。
「綺麗な字を書くのね」
鏡子は私の書く様子をじっと見つめている。
「ありがとう」
昔、習字を習っていたから度々字を褒められることがある。しかし、褒められることにいつまで経っても慣れることはなかった。
「文芸部はどんなことをするの?」
質問をすると、鏡子は文芸部がどんなことをする予定であるかを話し始めた。鏡子の説明を聞きながら、適当に文を作っていく。それらしい志望理由を思いつき、空白を黒で潰した。
「かけたよ」
ボールペンを用紙に重ねて鏡子に渡す。鏡子が用紙に目を通すと微笑んだ。
「大丈夫ね、先生に提出してくるわ」
鏡子はくるりと背中を向けると、脱兎のごとく教室を出ていった。
これで私は文芸部の仲間入りか……。
座り直し、また本を読み始める。外から登校してきた生徒たちの声が聞こえてきてもう八時なのだと知った。
鏡子が帰ってきたのはショートホームルーム直前だった。
「遅かったね、鏡子」
帰ってきた鏡子の額には汗が滲んで、裾は茶色く汚れている。
「ええ、ポストを設置してきたの」
「なぜ、どこに」
「お昼休みに教えてあげるわ」
ともったいぶって教えてくれなかった。袖と汗から推測するに外だろう。グラウンドは体育や運動部が使うから無理だろうし。となれば、裏庭や裏門あたり。
お昼休み、昼食を終えると、鏡子は私を連れてポストのある場所へ向かう。
「ここよ」
連れてこられたのは、裏門近くの木陰だ。水色で塗られた木製のポスト。蓋のところに「お助けポスト」と書かれている。木陰である上、雑草が生い茂り、足を踏み入れると草が足をつついてくる。
「どうしてここに? なぜ?」
「人助けのためよ。なにか人を頼む時はできるだけ人前を避けたいでしょう? だからここにしたのよ」
よく見ると木の後ろにスコップが立てかけてあり、その横には掘り返された土がある。
鏡子は腕を伸ばして、ポストの蓋を掴んだ。
「さあさあ、なにか入ってるかなー」
とてもご機嫌が良さそうでにこにこしている。お昼休みで食堂や中庭は人が溢れているというのに、裏門付近はなにもないからか人は寄り付かない。裏門と言えど基本的に施錠されているし、なんのためにあるのか私たちは知らない。
「おーぷん!」
鏡子は勢いよく蓋を開けた。
「あ……」
私は思わず声を漏らす。
ニコニコだった鏡子の顔から笑みが消えて、しょんぼりとした表情になる。
「入ってないね」
「残念だわ……でも、数日すれば入っているはずよ!」
鏡子はそう言うと蓋を締めて、拳を胸元に置いた。頭を一回縦に降ると、またいつもの凛とした表情に戻った。感情がコロコロ変わって忙しそうに見えた。
「放課後は部活よ、はじめての部活動」と明るい口調で教室へと戻っていく。私は鏡子のあとについていきながら、早く家に帰りたいと願った。
放課後に近づけば近づくだけ鏡子のテンションが上がっていくのがよくわかった。抑えきれない感情が目に映し出されている。
例えるなら、五限目の鏡子は、待てと指示を受けて尻尾を振り、よだれを垂らしながらながらも我慢できている犬。六限目は、我慢できずに餌の入っている棚を前足でカリカリして、鼻で開けようとする犬。
授業中の鏡子は忙しなく、落ち着きがなかった。本を読んで落ち着けようとしていたがその本にすら集中することは出来ず、数行目を通してはうっとりとため息を付いていた。
終わりのショートホームルームが終わった瞬間、鏡子は私の方を見て目を見開いた。
眩しい。鏡子が眩しい。
「詠ちゃん、はじめての部活の時間よ!」
私はできる限りゆっくりと鞄に教科書をしまう。少しでも時間稼ぎをしたかった。
「ほら、早くー!」と鏡子の白く細い指が私の手首を掴む。
二階に降りて、南館に続く廊下を通り、そのまままた長い廊下を渡る。南館は家庭科室や理科室、音楽室などの教室があった。南館から北館へ移り、階段を登る。
部室遠すぎませんか。
北館自体あまり教室は使われておらず、多目的室や視聴覚室といった時々しか使わない教室ばかりだ。あとは、机ばっかり置かれている教室とか。
三階、四階へと上がっていく。
北館は私の入学と同時に改装を終え、廊下にキズや凹みはなく、壁に落書きもなかった。
廊下の突き当りまで行くと鏡子は立ち止まった。
ドアに指を引っ掛けて、勢いよく開ける。
「ようこそ! 文芸部へ! 詠ちゃんは二番目の部員よ」
そりゃそうだ、というツッコミを抑え、中を覗いた。普通の教室より一回り小さく、四つの机がくっつけられている。壁のそばにあるホワイトボードには「文芸部」と綺麗な字で書かれていた。
「想像と違う」
私の感想を無視して、鏡子は私の背中を押す。
「さあ、入った入った。鞄はそこにでも置いておいて」
鏡子が指さした先にはソファがあった。教室の雰囲気と噛み合わない。病院とかにあるソファじゃなくてもっと高そうなソファだ。
空気がこもっていて、埃が日の光に反射してキラキラ光っている。
鏡子は窓を開けて空気の入れ替えをした。
ソファに鞄を置いて、窓ちかくの席に腰を下ろす。
壁に本棚が置かれ、入り切らない本が部屋の隅に積み上げられていた。
「この本どうしたの?」
「図書室の書庫にある読まれていない本とかページが破れている本を頂いてきたのよ」
「じゃあ、このソファは?」
鏡子は、そっぽを向いて吹けない口笛を吹いている。口から冬の風みたいな掠れた息が漏れていた。
どうやら、聞かれたくないことらしい。
「で、今日は何するの」
すると鏡子は胸の前で腕を組み、ゆっくりとホワイトボードの前まで歩く。腕を解き、ホワイトボードを叩いた。思ったより痛かったのか鏡子の顔が歪む。
「痛っ……。ま、まず決まり事作ってそれから今日は読書をしましょう」
鏡子はホワイトボード専用のマーカーを掴み、手の中で遊ばせる。
この時間は部活が盛んで野球部やサッカー部の練習の声が聞こえてないことに気づいた。
それが鏡子と二人きりということを強く意識させた。
「そうね、なにがいいかしら」
目を閉じてうんうんと唸る鏡子。
私は考えるふりをして、机の下でスマホを触っていた。お母さんにLINEをしたり、ネットニュースを閲覧していた。
鏡子は唸るのをやめて、目を閉じているだけになった。
眠ったのだろうか。まあ、その分自由にスマホを触れるからいいけど。
と油断していた時だ。
「一週間に一度、お菓子を持ってきて食べましょう! いえ、一度じゃなくて三度くらい」
鏡子は目をカッと見開き、声を張り、握った拳を掲げる。
私は突然の大声に心臓が跳ね上がる。手からスマホを離してしまい、痛い音を立てて床に落とした。椅子を引いてスマホを拾う。
「それ活動と言えるの?」
「い、いいのよ……。あとは、なにかお題を出して制限時間内に小説を書いてもらおうかな」
それは、まともな内容だ。いや、本来それが正しいのか。
鏡子が決めたことをホワイトボードに書いていく。
「このくらいかな」
マーカーのキャップをはめて、ホワイトボードの溝にマーカーを置いた。
「部員は」と言いかけて口を閉じた。私を入部させる時、集まらなかったと言っていたことを思い出した。
この時期、もうほかの部活に入っている人やこの部活に入ろうと決めている人が多いから集まりにくい。
「それが、なかなか集まらないのよ。最近朝に声をかけてみてるんだけどね」
朝八時をすぎるとどこかへ行っているなとは思っていたけど、部員を集めるだけだったのね。
鏡子は私の後ろを通り、本棚の前に立つ。ほんの背表紙を上の棚から順番に見ていき、目の動きが止まった。かかとを上げて、本のの上の部分に指を引っ掛けて引き抜く。本を大事そうに抱えて席に戻った。
表紙は黄ばみ、背表紙には「せ」と書かれたテープが貼られている。
鏡子は上靴を脱いで揃えると、椅子の上で体操座りをし、膝を抱くように本を持つ。ページの端を白い指でつまみめくっている。
西日が鏡子の頬を照らし、顔の立体感を強調する。
立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花。
黙ったまま行動すればの話。
黙っていれば大和撫子。
私も鞄から本を取り出して続きを読み始めた。
どのくらい時間が経ったのか、ページをめくる音に紛れて、キュロキュロとお腹の鳴る音が聞こえてきた。顔を上げて鏡子を見ると、頬を微かに染めている。
「うぅ……お腹空いた」
「今日は帰る?」
「そうしましょう、お腹が空いて背中とくっついちゃいそう」
片付けをして部室を出た。
四階に他に人はおらず、二人の足音が廊下に響く。窓の外は木々が生い茂り、歯の隙間から差し込むオレンジの光が廊下に流れ込んでくる。下を見ると、ポストが目に入った。はっきりと形が見えるわけじゃないが、水色が目についてポストと分かる。
ここから見えるんだ。
隣で鏡子はさっき読んだ本についてペラペラと感想を述べている。湧き出る言葉は源泉のようで止まることはしばらくなさそう。今日この話を聞きながら適当に相槌を打つ。
部室を出てすぐに喋りだし、校門を出てもなお、小さな唇は動き続けている。
読んだ量を一とすると感想は十ほどに膨れ上がっている。よくそんなにも感想が出てくるなあと感心する。
日はあっという間に山に沈み、辺りはすっかり暗くなっていた。外灯が等間隔に並べられ、道を照らしている。風は冷たく、まだ冬が残っている気がした。
一本の桜の木が分かれ道の間に立っている。そこにつくと、鏡子は「また明日」と小さく手を振り私と反対の道へ進んでいった。
一人になり、家路を辿る。影は一つしかないけれど、今も鏡子が横にいる気がして時々横を見てしまう。しかし、鏡子はおらず、自転車や車が通り過ぎていくだけだった。
玄関のドアを開けると、ハンバーグの匂いが漂ってきた。
「ただいま」
「おかえり、ご飯できてるからね」
リビングからお母さんの声が聞こえた。着替えてリビングに行くと、お母さんはもう食べ始めていた。
私は急いで席に座り、手を合わせた。
「部活入ったって本当?」
部活の時、お母さんにLINEで報告していた。
「本当、面白そうだから文芸部に入った。
だから、帰宅部の時より遅くなるよ」
ハンバーグをナイフで一口サイズの大きさに切る。透明な肉汁が肉の隙間から溢れ出し、お皿に垂れていく。白い湯気がむわっとのぼり、デミグラスソースの匂いが鼻先をかすめた。
お腹がくぅと鳴り、唾液が舌を包んだ。
フォークに刺して、口に運ぶ。
「部活、頑張ってね」
「うん、ありがとう」
先に食べ終わったお母さんは食器を流し台に入れると、椅子にかけていたバッグを手にとった。
「じゃあ、私は仕事行ってくるね」
「いってらっしゃい」
お母さんは仕事に出かけていった。昼は家のことをこなし、夜は仕事に行く。私は食器を洗って、明日のためにご飯を洗っておくのが仕事だった。
私は完食し、食器を洗い始めた。