20話 一つ願いが叶うなら
「俺と付き合ってくれませんか」
今月最高気温が予想されたこの日、
顔を真っ赤にした短髪の男子生徒が汗を垂らして、交際を申し込んできた。
「え?」
昼休み、鏡子と中庭で散歩をしていたら、同学年の男子生徒に声をかけられた。しかし、どっちに告白をしたのか分からない。
夏だと言うのに空気は一瞬凍った。
私が鏡子と目を合わせると、男子生徒は鏡子を見て慌てて言葉を訂正する。
「す、すみません! 間違えました。あなたによくくっついている女の子に告白したくて。つい先走ってしまいました」
鏡子によくくっついている……ああ、遠藤さんか。
短い髪を手で触り、はにかんだ。
「俺、二年の川内幸也です。野球部っす」
川内くんは綺麗なお辞儀をする。私もつられて頭を下げた。
ジージーと蝉がうるさく鳴いている。
「志賀鏡子と」
「橘詠です」
漫才みたいな自己紹介をすると、その瞬間蝉が鳴き止んだ。そしてまた何事もなかったかのようにわめき始める。
川内くんはポケットからハンカチを取り出し、首の汗を拭くと真剣な眼差しを向けた。
「俺、あの子と付き合いたいんだ。手伝ってほしい」
「あ――」
「ええ、もちろんよ!」
私の言葉を遮り鏡子は承諾した。鏡子が私の力なく垂らした手の甲をつねり、にっこりと笑う。
昼食を終えた生徒が、アイスを片手に食べ歩きをしたり、水道から水を出して、水浴びをして遊んでいる。
川内くんは「あざっす!」と少年らしい元気な笑みを浮かべた。
「あの子、まじかわいいっす! 何ていう名前なんだ!」
夏の太陽のような暑苦しさを感じる。恋する人はこうも熱くなるのか。
木陰に移動して、話を進める。
鏡子は人差し指を振り、恋愛マスターのように説明を始めた。
私の情報によれば、鏡子は恋愛の経験がないのに。経験豊富なお姉さんのように、任せなさいと胸を張る。
「わたしが自然と二人が出会うように仕掛けるわ。そのときに自分からアプローチしないとだめよ」
川内くんは目をキラキラさせて鏡子の話を一生懸命聞いている。こんな人の話真に受けないほうがいいよとは今更言えない。
仕掛けるって一体どうするんだ。不良に絡まれている遠藤さんを救って出会うとか、雨の日川内くんが捨て猫に傘をさしているところに遭遇させるとかそういうベタな展開しか思いつかない。
私の恋愛脳が古いのだろうか。それとも夏の暑さにやられてしまって私の想像力が枯れているのだろうか。
「いい? 今日の放課後、あの子を中庭へ呼び出すわ。あの子が木の下に来たら、川内くんがあの子を呼び止めて、告白するの」
それは仕掛けるっていうのだろうか。手紙を渡して、本人が直接呼び出したほうが良い気がする。
「鏡子、それもいいかもしれないけど、手紙で気持ちを伝えてからの方がよくない?」
そうすれば、突然の告白にも警戒しなくてすむはずだ。
「鏡子もいきなり見ず知らずの人から告白されるより、手紙で先に告白されたほうが警戒しなくていいでしょ?」
鏡子は頷き、
「芥川龍之介も文ちゃんに『文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまいたいくらい可愛い気がします』って言ってるものね……」
と納得していた。
見知らぬ人にいきなりそんなこと言われたら、それはさすがに引くと思うんだけど……。
川内くんはぽかんとしていて理解できていないようだった。
鏡子は咳払いをして、
「詠ちゃんの言う通り、お手紙に変更ね」
「明日には書くから、それを渡してくれないか」
「もちろん!」と鏡子はピースサインを作った。
川内くんは親指を立てて、空を仰いで声を上げた。
「楽しみだなぁー!」
にししと笑う川内くんは、嬉しそうに校舎内へ戻っていった。
鏡子は大人っぽい笑みで川内くんを見送り、川内くんが見えなくなるとその場にぺしゃりと座り込んだ。
「頭がくらくらする……」
笑みは消え、つらそうな表情をしている。
鏡子は汗一つかいていなかった。おかしい。
この暑さで汗をかかないなんて――。
熱中症。
頭にこの三文字が浮かんだ。
このままじゃまずい。しかし、私一人で鏡子を保健室まで運ぶのは時間がかかる。
あたりを見回すと、腰をかがめて花壇を見ている先生が目についた。
「鏡子ちょっとだけ待ってて」
鏡子は弱々しい瞳で私を見つめて小さく首を縦に振った。
先生のもとまで走りながら「鳴瀬先生!」と叫んだ。慣れない大声に声が裏返る。
笑う声がかすかに聞こえたが気にしている暇はない。
私の声に気づき、鳴瀬先生は腰を上げ、眼鏡のズレを戻した。
「元不登校の橘さん、どうしました」
「元不登校は事実ですけど、余計です。
そんなことより、ちょっと来てください」
袖を引っ張り、鏡子のもとまで連れて行く。
ひょろっとしたこの先生はちょっと頼りないが、近くに他の大人はいないから頼るしかない。
鏡子はさっきよりもぐったりとしていて、つらそうだった。鳴瀬先生は、事の重大さに気づいたようで、親しみやすい笑みな真剣な顔になり、鏡子の脇の下と膝の裏に手を回した。鏡子を軽々と持ち上げ、保健室へと運ぶ。
鏡子の頭がくらくらと力なく動く。
保健室につくと、お上品な宇佐「美」先生は鏡子をベッドに寝かせた。
「頭がくらくらするって言ってて、汗も出てなくて」
宇佐見先生に鏡子の様態を説明すると、濡らしたタオルや氷のうを用意した。
「鳴瀬先生、きょ――志賀さんは五限目は保健室で過ごすと担任の先生にお伝え下さい」
鏡子の首や足の付根、脇の下冷やしながら、鳴瀬先生に指示をした。
「わかりました」と鳴瀬先生は保健室を出ていった。
ネクタイを解き、スカートのホックを外す。
宇佐見先生が真面目に業務をこなしている。
「鏡子ちゃん、大丈夫?」
宇佐見先生の問いかけに、鏡子はかろうじて返事をした。
うちわであおいで熱のこもった鏡子の体を冷やす。
しばらくすると鏡子は、唇を開いて「お水」と答えた。宇佐見先生が冷蔵庫から経口補水液をコップに注ぎ、鏡子の体を支えて、少しずつ飲ませた。
五限目の半ばには顔色も良くなってきて、熱かった肌は、いつもの体温に戻りつつあった。
宇佐見先生はずっと鏡子のそばについて、体温を吸ったタオルを水に入れて再度冷たくしたり、溶けた氷のうを交換したり、つきっきりでだった。
宇佐見先生は、本当はいい人何じゃないのだろうか。本当は子どもが嫌いなんて嘘なんじゃないだろうか。
鏡子を看病する姿は先生そのものだった。
「だいぶ顔色良くなってきたな。よかった」
安心して笑いを漏らすその姿をみて、子供が嫌いだなんてやっぱり信じられなかった。
「先生、本当に子供が嫌いなの?」
宇佐見先生はさっきまでと打って変わって、目に光が無くなり「嫌いや」と吐き捨てた。
職業だからいやいや生徒の世話をしてるってことなのかな。
「五限目おわるまで、そっとしとこ」
私を追い出し、カーテンを締めた。
「そんなつらそうな顔すんな。大丈夫やから」
冷蔵庫から包みに入った一口サイズのチーズを私に手渡す。
「これ食べて元気つけ」
こんな生徒の気遣いができる先生が子供嫌いなのは信じられない。優しい宇佐見先生と、トイレで見せたあの真っ黒な宇佐見先生が交互に浮かぶ。
二重人格?
包みを開け、チーズを口に放り込む。濃縮されたチーズの味が舌を撫でた。
やっぱり私はチーズが好きだ。
宇佐見先生に対する考えはチーズがかっさらっていき、脳内はチーズの美味しさと鏡子のことで満たされた。噛めば噛むほどチーズの香りが脳を侵食していき、幸せを生む。
「先生な、昔婚約した人がいたの」
湯気の立つ紅茶をぼーっと見て独り言のように言葉をこぼした。左手を前にかざし、薬指を悲しそうに見つめている。
以前その指には、指輪がはめられていたのだろう。
「幸せいっぱいだったのよ。でも、ある日幸せは私のもとから逃げていったんや」
口調がばらばらで、一人称も安定していない。宇佐見先生は、怒りに顔を歪めた。
「あんなことさえなければ、先生は」
腕を下ろし、膝の上に置いた。
紅茶を一口飲み、私に聞く。
「なにか一つ願いが叶うなら、詠は何を望む?」
宇佐見先生の瞳が私の心を覗こうとしてくる。獣みたいな手が私の心をこじ開けようと引っ掻く。
願いが叶うなら……。
あんなことに怯えなくていい世界、いや違う。
もっと遡らないと。私が私じゃなくなったのはあのせいじゃない、もっと過去だ。
あれさえなければ、今なにも悩まずに行きていたはずなんだ。
過去を悔やんでもしかたないと分かっていながら、過去に戻りたいと願ってしまう。
過去に戻ってどうしたい。
同じ悲劇を繰り返さないために、私はどうすればいい。
いや、そんな質問に真剣に考えすぎた。
軽い声色で言う。
「毎日新しい本が家に届くことかな」
宇佐見先生はつまらなそうに唇を尖らせ「嘘つき」と吐いた。
乾いた笑いを返して誤魔化した。
「先生は、どうなの」
左手の薬指を右手で優しく包み、儚く笑う。
「そりゃぁ、婚約者と結婚」
婚約者に向けて笑ったのかもしれない。愛情がこもった甘い声と遠くを見据える宇佐見先生の眼差しは、一年半の間宇佐見先生を見てきたが初めて見た宇佐見優香だった。
一人の女性として、人を愛する姿。
私の前に、黒い翼の悪魔ではなく、白い翼の天使がいる。
愛することに喜びをいだき、愛されることに幸せを覚え、永久に続く愛を信じている、差別なく人を平等に愛す気高き天使。
言いすぎかもれない。宇佐見先生だって一人の人間なのだからすべての人間を平等に愛するなんて無理かもしれない。でも、宇佐見先生のその姿だけはそう見えた。
ベッドが軋む音が聞こえ、カーテンが開いて鏡子が顔を覗かせた。
頬が赤い。
宇佐見先生が勢いよく席を立ち、鏡子に駆け寄る。
「大丈夫か? ソファ座って、水分取ろうね」
白い翼は空へと消え、人間の宇佐見優香が先生として役目を果たしていた。
鏡子をゆっくりと座らせて、コップにスポーツ飲料水を注ぐ。
「今日、めちゃくちゃ暑いっていうから体がついていかなくて疲れてたんやろなあ」
「今日だけで何人ぐらいここに来てるの?」
「暑さでやられて来たのは鏡子ちゃん含めて三人ぐらい」
鏡子はコップの中身を飲み干すと、体温計を受け取り、服の中に手を入れて脇に挟んだ。
片方の三つ編みが解けかけている。
ピピピピと電子音がなり、鏡子が脇から体温計を抜いた。
体温計を見て宇佐見先生が目を丸くする。
「三十九度近いわ」
「……」
私は言葉を失った。
鏡子をベッドに寝かせ、もう一度氷のうや濡れタオルを太い血管の通る箇所に押し付ける。
意識ははっきりとしているらしく、汗もかいている。さっきよりは命の危機ではなさそうだ。
日々の疲れが出たのだろうか。
このまま鏡子を寝かせておいたほうがいい、ちょっと心配だけど……。
「詠、六限目担当の先生に鏡子ちゃんのこと伝えておいて」
「はい」
鏡子は、寂しそうな目をしたあとに、笑った。いつもの明るい笑みではなく、無理をした笑みだった。
「放課後、また来るから」
私が笑いかけると、一瞬泣きそうになって、くしゃりと辛そうな顔を崩した。




