19話 あなたの望みは叶えられない
「ただいま」
幸いにも今日は土曜日だった。鏡子の家に泊まった翌日、私は朝食を振る舞った。キッチンを貸してもらい、朝食を作り、鏡子は美味しいといいながら完食してくれた。
お母さんが帰った頃を見計らって、ドアノブを引くと開いていて安心する。
リビングに入ると、お母さんがソファに座ってテレビを見ていた。
「おかえりなさい。お母さん、鉢植えの下に鍵置いてたつもりだったんだけど、忘れてたみたい。ごめんね」
鏡子という友達がいて本当に良かった。
「いいよ、鍵なくした私も悪いし」
そうだ、鍵を探さないと。
テーブルの上に鞄を置いて、中身をすべて取り出す。鞄を逆さまにもって降ると、カタンと鍵が机の上に落ちた。
「お母さん、鍵あった……」
幾度も探した鞄の中から出てきた。お母さんはテレビから目を離し、にっこりした。
「良かったじゃないの」
「ほんとね。良かったよ。
ああそうだ、お母さん。紫さんのこと覚えてる?」
お母さんの表情が更にぱあっと明るくなる。
「もちろんよ!」
「明日、紫さんと会ってくるよ」
お母さんは席を立つとその場で一周し、キッチンに立った。ぶつぶつ独り言を言いながら、料理本を手に取り読んでいる。
そして、本を閉じると「お母さん、買い物に行ってくるわ!」と飛び出していった。
私より、お母さんのほうが紫さんと会うことを喜んでいるようだ。
鏡子に『鍵、見つかったよ』とLINEを送るとすぐ既読が付いた。既読がついただけで返事はなかった。
翌日、午後二時ぴったりにインターホンが鳴った。お母さんは手作りのクッキーを持って、外へ出る。私も後を追って、外に出ると、ネイビーブルーの車が止まっていた。助手席の窓が開いていて、お母さんが顔をのぞかせ、クッキーを渡した。運転席に座る紫さんは私を見ると優しく微笑んだ。
「詠さん、おひさしぶりね」
私が頭を下げると、お母さんは「今日は娘をよろしくお願いします」と私の肩に手を置いた。
「お預かりしますね、さあ乗って」
助手席のドアが開き、「よろしくおねがいします」と乗り込む。
ラベンダーの香りがした。ゴミひとつ落ちていない綺麗な車内。
車は静かに走り出す。
洋楽が流れ、紫さんはその洋楽に合わせて鼻歌を歌う。
外の景色が移り変わってゆく。
「学校生活、どう?」
「二年に上ってからは充実した日々を過ごしてます」
窓に笑顔が映った。
「そう、よかったわ。どんなお友達ができたのかしらー」
ちらりと私を見た。
「料理が下手で自分勝手で、よく笑う子ですね」
前を向いたままクスクス笑う。その笑顔は鏡子によく似ていた。紫さんが三つ編みだからだろうか。笑い方や、横顔がどことなく似ていると思う。
「料理が下手なのね、でも大丈夫よ。料理は回数を重ねるうちにうまくなるのよ」
「そうですよね」
見た目はおいしそうだったのだから、きっともっと練習すれば美味しくなるはずだよね。
失敗は成功のもとっていうし。
車を走らせてどのくらいが経ったのか、住宅街を抜け、海沿いの道路を走っていた。車から流れる洋楽が海と合っていて、ドラマのワンシーンのようだ。
「どこにむかってるんです?」
「わたくしのいきつけの喫茶店よ」
前を見据えたまま声を弾ませた。唇をほころばせ、音楽を変えた。
それから少し経って、崖の上に立つレトロな喫茶店が見えてきた。車は数台しか止まっていない。
「あそこですか?」
紫さんは頷いた。
ウインカーをだしてハンドルを回した。
駐車場には三台の車が停められていた。車を停めて、降りる。
潮の匂いのする心地の良い風が髪を揺らした。
『むさしのかふぇ』とチョークで書かれた看板がドアの前に置かれている。ドアを押して中に入ると、ドアの上に取り付けられたベルがカランカランと鳴り、私達の来店を知らせる。客は私達の他に、一人のおじいさんと老夫婦がいた。おじいさんはカウンターで新聞を読みながらコーヒーをすすっていて、老夫婦はテーブル席で会話を楽しんでいるようだった。カウンターの向こうでは、コーヒーポットから湧き上がっている湯気が天井へと姿を消す。
海の見える一番奥のテーブル席に腰を下ろした。
ゆっくりとしたクラシック音楽が流れていて、私にとってすごく落ち着くことができた。
パソコンで作業するのにも邪魔は入らず、過ごしやすいだろう。
若者が好むような内装ではなく、くすんだ木のテーブルや、ソファの感じ、天井からぶら下がった電灯が時代を語っているようだ。
「ご注文お決まりで……まあ、紫さん。いらっしゃい」
小太りのおばさんがメモ用紙とペンを持ってやってきた。
紫さんを見て、ぎょっと驚く。
「こんにちは。いつものと、この子にペペロンチーノとカフェオレを。
あら、どうして驚いた顔をしているのですか」
あら、どうして私の話も聞かず勝手に注文するのですか、と言いたい。
店員さんは、えくぼをつくって笑った。
「いつも一人でいらっしゃるからつい。
かしこまりました、ごゆっくりどうぞ」
店員さんが去っていくと、紫さんは頬を膨らませて「失礼ねー」と言い、笑いを漏らした。
「お仕事抜きでここに来るのは初めてですもの。ひとりじゃないことぐらいあるわ」
頬を膨らませるところとかやっぱり鏡子に似ている。
いや、考え過ぎだろうか。
頬を膨らませるぐらいだれでもするよね。
「どうしてカフェオレを頼んだんですか」
私の目をいたずらっぽく見ると、理由を説明する。
「ペペロンチーノって辛いでしょう。乳製品は辛さを抑えてくれるの、水よりもね」
数日前のことを思い出して頬が熱くなった。
辛いと、水を何杯も飲んでいた。飲んでも一瞬しか辛さがおさまらなかったこと。
乳製品が辛さを抑えると知っていればどれだけよかったか。少なからず、あれほど飲まなくて済んだはずだ。
「顔が赤いわよ、どうしたの」
紫さんが心配そうに顔を覗き込む。
「いえ、ちょっと思い出しただけです」
「ふふふ、そうなのね。
ねえ、詠さん」
紫さんの顔から笑みが消え、私を見据える。
澄んだ瞳が私を映し、悪意一つ感じられない残酷な言葉を吐いた。
「詠さんの小説をもう一度読みたいわ」
言葉が鋭く尖り、心に突き刺さる
自己満足としてかいている物ではなく、それは一冊の本として、世に出したいという意味だろう。
「詠さんの作品を楽しみにしている人だって大勢いるわ」
突き刺さった言葉を引き抜き、何度も何度も心に突き刺してはえぐり出される。
もうあんなのごめんだ。
弱虫な私にはもう無理だ。耐えられない。
紫さんの瞳には期待が宿っていた。
期待に応えることはできない。
ごめんなさい。
沈黙が居座る。
あの物語は私のために書いたものだ。結局あれも自己満足の作品でしかなかったんだ。
私が欲しかった言葉を、私が欲しかった人を、私が体験したかったことを書いただけなんだ。
孤独を埋めるための作品だったんだ。
心の声は届かない。
膝の上で握りしめた拳が震える。
紫さんから視線を外して、俯いた。
「おまたせ、ペペロンチーノとカフェオレ、それからいつものね」
沈黙を破る明るい声が聞こえ、顔を上げた。
目の前に、コーヒーカップとペペロンチーノが置かれる。
紫さんはブラックコーヒーとペペロンチーノだった。
「この話はやめましょ、ご飯は楽しく食べなくっちゃ」
「い、いただきます」
フォークで巻き取り、口に入れる。辛さが舌を刺激し、体温を上げる。
正直、鏡子のより美味しい。麺とうまく絡み合い、辛さを丁度よくしてくれている。鏡子の作ったペペロンチーノはきっと乳化がうまくいっていなかったのだろう。
オリーブオイルとパスタの茹で汁が混ざり合ってとろみのあるソースになることで、味を調和させる。それがうまくいかないと、味が別々になってしまう。
「どう? おいしい?」
「おいしいです、辛すぎなくて食べやすい」
紫さんは満足げに微笑んだ。
私はどうしても紫さんと鏡子を重ねてしまっていた。別人なのはわかっている。けれど、仕草が、表情が、鏡子を連想させる。
唇を開き、細い指がコーヒーカップを支え、
カップが傾く。喉の軟骨がくいくいと動き、コーヒーが食道を通る。
紫さんはふぅと息をついて、私に話かけた。
「さっきのお友達の話、もっと聞かせてちょうだい」
ペペロンチーノをたいらげたあと、名前を出さずに鏡子の話をした。
転校してきて、やたらと私に構ってくること、ずっと本の話をしていること、紫さんと同じ三つ編みをしていること。
その子のおかげで学校が楽しいと思えていること。
物事を急に決めること、そして行動を起こすことが早くて、たまに迷惑だと思っていること。いいことも悪いことも話した。
紫さんはコーヒーを飲みながら、私の話を笑って聞いていた。
「面白い子なのね、詠さんと正反対な性格でいい刺激になってるみたいね。よかったわ」
紫さんは左腕に付けた時計を見て、そろそろ出ましょうと笑顔で伝えた。私は頷き、席を立つ。
「すみません、ごちそうさまです」
「いいのよ、学生なんだから甘えられるときに甘えておきなさい」
会計を済ませて外に出た。
太陽が傾いてきて、私の目線とほぼ同じ高さにある。しかしまだまだ昼の時間は続きそうだ。
車に乗り込み、出発する。
「来た道を帰るのもつまらないし、違う道から帰りましょうか」
穏やかな波がゆらゆらと海面を揺らし、ぼやけた夕日が映っていた。
窓のちょっとしたスペースに腕を曲げ置いて、顔を預ける。
車内で特に会話はなく、洋楽が流れている。
外を眺めながら、窓に映る紫さんの横顔をたまに見ていた。車は海から離れ、山道へと入っていく。背の高い木が規則正しく並び、舗装された曲がりくねった道を登っていく。
「あ、鹿」
木々の間に、子鹿の姿を発見した。首を下に伸ばし、草をむしっていた。
「よかったわね、嬉しいことがまたひとつ増えたね」
母親のような口調で紫さんはそういった。
垂れてきた前髪が視界を狭め、紫さんの顔が見えなくなる。
邪魔だけど切りたくないな……。
次第に満腹と車の揺れで眠気がやってきて、気がつけば景色が山の中から見慣れた家々に変わっていた。
「あら、おきた? 丁度着いたわ」
車が止まり、『橘』の表札が目に入った。
シートベルトを外し、ぐーっと背伸びをする。
「今日はありがとうございました」
お礼を言って、外に出ようとドアに手をかけた。
「あ、まって」
振り向いて紫さんを見る。
申し訳無さそうに、でも真剣な表情をしている。
「お願い、もう一度だけ小説を……書いて欲しいの」
胸に手を当てて、切実な眼差しを私に向けている。
一瞬、鏡子がそこにいるのかと思った。
こんな時でも、鏡子を思い出す。鏡子が私の小説を望んでいるように感じる。
紫さんから目をそらし、ドアを開けた。
背を向けたまま、答えを言う。
「すみません、それは、できません」
窓には今にも泣き出しそうな顔があった。
罪悪感に胸を蝕まれ、もう一度謝る。
「すみません、本当に無理なんです」
何かを言いかけ、口を閉じるとただ一言「気が向いたら教えて」と言い残し、車は去っていった。
静かに去りゆく車を私は見つめていた。
家に入るとお母さんが子供のようにふくれっ面で座っていた。
「どうしたの」
お母さんはじっと私を見つめたまま、ぼそっと「紫さんともっと話したかった」と呟く。
織姫と彦星じゃないんだから、都合さえ合えば会えるでしょう……。
はあと私はため息を漏らし、
「あー……はいはい」
お母さんの意見を流して、自室へ戻った。




