12話 眠りから目覚めさせるのは誰のキス?
目を覚ましたのは一限目半ばだった。頭を上げると、鏡子は気づいたようで本を読む手を止め、晴れやかに笑った。本から手を離し、教科書を持つと私に見せてきて、小さく口を動かし「えいご」と口パクで教えてくれた。
笑顔を返し、机の中から英語の教科書とノートを取り出した。
体を起こし、シャーペンを握り、黒板に書かれている文字をノートに写す。できるだけ鏡子を見ないようにして授業に集中した。途中、宇佐見先生の言葉や、鏡子の言葉が蘇ってきたが、頭に英文をばら撒き言葉を散らした。
一限目を終えた途端、頭上で放送が流れた。雑談をしていた生徒も息を潜め、放送の音声に耳を傾ける。
『二年一組、橘詠さん。今すぐ職員室に来てください』
え、私?
何もしてないよ?
クラスメイトの目が私へと向く。私は前髪で顔を隠し、突き刺さる視線を感じながら教室を出ていった。
職員室に行くと、保健室に行くように指示された。
逃げようかと思った。職員室を出て、重い足を持ち上げて、隣の保健室へと移動する。
白いドアが大きく立ちはだかる。
足首を見えない手が掴んで、そこから動けない。
今まではあんなにも居心地がよく気軽に入れていた場所なのに、今回ばかりはとても入りづらい。ドアを開ければ地獄が待っているような気がした。
あの陰の潜んだ瞳が私を捕まえて、細い腕に刻まれた傷を見せつけ、乾いた唇を動かして、私に「憎い、憎い」と壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返し呟くのではないか。
消毒液の匂いが頭を揺らし、血で錆びついたカッターを私に突きつけ、脅すのではないか。
ゆっくりとドアに手を伸ばす。
ドクドクと心臓が大きく脈打つ。指先が震え、世界がぐらりと揺れる。
時間は容赦なく過ぎていく。入らなければ。
保健室には狂人が眠る。
指を引っ掛け、ゆっくりとドアを開けた。
案の定、消毒液の匂いが鼻を突き刺す。喉が締め付けられ、胃がキリキリと痛みだす。
「失礼します……」
空調の音だけと私の声だけが響いた。宇佐見先生は姿を現さない。いないのだろうか。だと嬉しいのだが。
呼吸は落ち着いてきて、心臓は静かに脈打つ。ソファに手を添え、部屋の中を見回す。
誰も利用していない清潔感の漂うベッドが三つ並んでいて、仕切りの奥には宇佐見先生が普段つかっている机がある。パソコンはつけっぱなしで、机の上にはなにかのファイルが開かれていた。
あれ、本当にいないのか。
そう安心したときだった。
肩を強い力で引かれ、世界が上下反転する。
ソファに倒れ込み、目を開けると狂人が目の前にいた。
いや、今は宇佐見先生だった。
唇の端を吊り上げ、いたずらに笑う。
「誰もおらんと安心してたやろ、あほ」
宇佐見先生は体を離し、白衣を脱いだ。腕には生々しい傷が残っている。血が固まって、傷を塞いでいた。
「先生、どうして呼び出したんですか」
私の質問を宇佐見先生はひらりとかわし、私の前に紅茶をおいた。
「いやー、詠が先生を探してるのおもろかったわー」
口を開けてげらげらと笑う。私が口元を歪めると、宇佐見先生は軽い言葉で謝り、席を立った。ドアのそばにかけられている「外出中」のプレートをドアの外に飾り、部屋の電気を消した。
ソファ戻ってくると、口を開いた。
「過去は今の自分を殺す」
またその言葉。
空調が効いているはずなのに、汗が吹き出る。
「先生は私はあんたが憎い」
その声は低く、憎しみのこもっていた。私の目を見つめたまま、言葉を私に投げつける。
「詠の声も、ふとした時に見せる憂いに満ちた瞳も、その小さな体も、優しい性格も、サラサラな髪も、その存在自体が憎い。憎い、憎い!」
体が言うことを聞かず、ソファから動くことができない。
言葉の刃が私を傷つけていく。心に刺さり、えぐり取る。血を流し、泣いている。
「どうして、詠なんだ! どうして、お前なんだ!」
何を言っているの?
私は何もしていないよ。
「どうして、私の心をかき乱すんだ!
忘れていたのに、お前のせいですべてが狂った!」
肩を捕まれ、揺さぶられる。視界がぐわんぐわんと大きく動く。
目の前に狂人がいる。
右手に隠し持っていた剃刀が私の喉に向けられる。
そんな状況なのに、私の意識は遠くにあった。現実逃避なのかもしれない。
ある暑い日の学校帰り、鏡子が澄んだ声で、「今日は森鴎外の『高瀬舟』を読んだのよ」と言っていた。
歩きながら、明るい声である台詞を口にする。
笛を切ったら、すぐ死ねるだろうと思ったが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思って、力いっぱい押し込むと、横へすべってしまった。刃はこぼれはしなかったようだ。
声に合わない辛い台詞だった。
難病を患った弟が、兄に迷惑をかけたくないと剃刀で喉をさいて自殺をしようとするが、死にきれず。帰ってきた兄に、自殺の手伝いを頼むシーンであった。
夕日が山を照らし、黒いカラスが渡る空の下、鏡子は語っていた。
宇佐見先生の持つ剃刀を見て、思い出していた。
意識が戻ってきて、ようやく命の危機であることに気付く。
刃先が喉に刺さり、チクリと痛む。
このまま私は死んでしまうのだろうか。命の危機なのに、いや命の危機だから、頭は波一つない海のように静かだ。
私は想像した。
喉に刃が突き刺さり、そのまま下に引く。
切られたところが熱を持ち、ヒリヒリと鈍く痛み、黒みがかった血が流れ落ち、白い襟を赤く染める。
きっとこのことが表面化すれば、事件として処理されるのだろう。
そんなあっけなく死を迎えるのかな。
口から薬の匂いがする宇佐見先生の目はギラギラと輝いて、不気味だ。
ああもうだめなのかな。
「お前さえいなくなれば」
怒りと憎しみが言葉に収まりきらないほどに詰められている。
私は、この期に及んでも、宇佐美優香という先生を嫌いになることができなかった。
私は殺される。
宇佐見優香という先生ではなく。
宇佐見優香という狂人に殺される。
目を閉じて、死を覚悟した。
「詠ちゃん」
頭の中で鏡子の声が聞こえてきた。
そう思っていた。
「詠ちゃん」
私の幻聴ではない。
鼻先をかすめた花の匂い。鏡子の匂い。
目を開けると、長い三つ編みが映った。
「詠ちゃん、次の授業が始まるよ、帰ろう」
――詠ちゃん、そろそろ次の授業が始まるわ。帰りましょう。
鏡子と出会った日、図書室にいた私を見つけ、私に帰ろうと言ってきた。朗らかに笑った顔と同じ笑みをしていた。
私の手を掴み、私を廊下へと引っ張り出す。
「どうして保健室ってわかったの」
「勘よ」
ああ、あのときと同じ。




