10話 道化の仮面が落ちた時
背を向けたまま片手を上げ、颯爽と部室から出ていった。
「詠ちゃんっ、先生、白衣忘れてる!」
ソファに残った白衣。
「届けてくる」
私は白衣を掴み、部室を出ていった。夕日に染まる廊下を走り、トイレの前に通りかかった時。トイレの中から、話し声が聞こえてきた。ドアに耳を当てて、聞き耳を立てる。
「憎い、憎い!」
荒々しい言葉が聞こえ、背筋がゾッとする。
体重をドアに掛けすぎたらしく、キィと鋭い音を立てて微かにドアが動いた。
「誰」
冷たい声が飛んでくる。
声に捕らえられ、体がこわばって動かない。
ドアが開き、白い腕が伸びてきて私の腕を掴み、トイレの中に引っ張り込む。
ドアに体を押し付けられた。トイレは暗く、相手の姿が見えない。
手を伸ばして、なんとか電気のスイッチを押した。
電気が付き、姿がはっきりと見える。
茶色に染まった髪、淡いピンク色のブラウス、赤い唇。
「宇佐見先生!」
右手にはカッターが握られていて、私の肩を押さえつける左腕からは赤い液体が滴り落ちている。
白い腕には三本の斜めの線。
「なにして……」
宇佐見先生は獣のような荒い呼吸をして、生気を宿さない瞳で私を見ると、ひび割れた唇を開いた。
「何って、リストカット」
声は掠れて、うめき声のようだった。
「……どうして」
恐怖で言葉が最低限しか浮かんでこない。
毛穴から嫌な汗がぶわっと吹き出し、肌を濡らす。光に反射するカッターが恐怖を増幅させた。骨を軸として体が小刻みに揺れる。
力を入れて震えを止めようとするが、これっぽっちも止まらない。
私の瞳に映る宇佐見先生が、得体の知れないなにかに見えた。
宇佐見先生は、カッターの刃を腕に押し当てると、ゆっくりとゆっくりと横に引いていった。鋭い銀色の刃がやわらかな皮膚を破り、肉に刺さる。刃は止まることなく肉を裂き、奥からとくとくと赤黒い血が滲み出てきた。
痛みを感じていないのか、表情は変わらない。
「こうするとね、今の私は生きてると分かるの」
そんなことをしなくても生きているじゃないか。
口を釣り上げ、歪んだ笑みを浮かべていた。
「今の自分を刻みつけなきゃいけないの」
捲くられていた袖がずり落ち、傷に重なると、袖は血を吸いシミを作った。
今の自分を刻みつける?
――宇佐見優香は今の私であるが、宇佐見優香は一度死んだ。
金色に輝く日の光が差し込む部室で、宇佐見先生はそうつぶやいていた。
私には、さっきも今も宇佐見先生の言っている言葉の意味が理解できない。
だって、宇佐見優香は宇佐見先生でしょ。
過去がどうだろうと、なんだろうと、いまを生きているのは変わらない事実なのだから。
心臓が動いて、生きているじゃないか。
腕から血が流れていても生きているじゃないか。
喉を見えない手で押さえられたように、呼吸が苦しくなる。
宇佐見先生はカッターを腕に突き刺したまま、私の目をじっと見つめて。
呟いた。
「過去は今の自分を喰らい殺す」
そう告げると、宇佐見先生はカッターを抜き、袖を直すと、私の手から白衣を取り上げて出ていった。
凍てつくような鋭く尖った、氷柱のような言葉が胸を貫いた。
私は全身の力が抜け、その場にへたり込む。
床には血溜まりが出来ていた。
血溜まりを見た時、自分の過去が目を覚まそうとする。
ああだめだ。
忘れろ。
首を大きく何度も振ってかき消す。
まだ力が入りきらない足を無理矢理立たせて、トイレからでた。廊下の壁を擦るように歩き、途中何度も崩れ落ちそうに鳴りながら、よろよろと部室に戻った。
部室に入ると、本を読んでいる鏡子が目に入った。私を見て、鏡子は聖母マリアのような清い笑みを浮かべる。
安心から体の力が抜け、前に倒れそうになる。鏡子が本を置き、私のもとへ駆け寄ってきた。
床につく直前、鏡子が私の脇に腕を滑り込ませ、間一髪、床に顔面を当てずに済んだ。
やわらかないい匂いが体を包む。
「詠ちゃんしっかりして。顔色が悪いわ!」
霞んだ視界に鏡子の心配そうな顔が映った。
鏡子の澄んだ瞳には私が映っている。
「詠ちゃん、詠ちゃん」と鏡子が幾度も私の名前を叫び、そこで私の意識は途絶えた。
――過去は今の自分を喰らい殺す。
――過去は今の自分を殺す。
言葉が削り落ちていく。
――過去は今を殺す。
殺す。
地を這うような恐ろしい声が頭に響き、目を覚ました。
夢か、と安堵して一息つく。
手にあたたかなぬくもりを感じて、手を見ると、鏡子の手があった。
「ひどくうなされていたわ」
鏡子は心配そうに私を見つめている。夢でよかったけど、私が見たあの光景は――宇佐見先生のあの発言は夢じゃない。
思い出すだけで体温が下がる感じがした。
鏡子は手を解き、ポケットからハンカチを出すと、私の額に滲んだ汗をそっと拭く。優しい花のにおいがした。体を起こして、あたりを見回す。鞄は机の上に置かれ、私はソファに寝かせられていたようだ。外はもう真っ暗だった。
「今何時」
「午後八時過ぎたところね」
午後八時だって? 長く意識を失いすぎた。
私は立ち上がり、鞄を掴む。
「鏡子、帰ろう」
鏡子は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに朗らかに笑って「ええ」と答え、
「心配だから家まで送らせて」と付け加えた。
鏡子は私に何があったのか聞いてこず、いつものように隣でずっと読んだ本の話や、枝に止まった鳥が……と当たり障りのない話をしていた。鏡子の気遣いが心に染み渡る。
「送ってくれてありがと。心配かけてごめんね」
家の前に着き、鏡子に謝った。鏡子は、微笑んだまま「いいのよ」と言った。
鏡子に手を振り、数段の階段を上がって玄関ドアを開けた。
「じゃあまた明日」
「うん、また明日」
返事をして、中にはいった。ドアが閉まるまで鏡子は私のほうを見ていた。
「ただいま」と言うと、お母さんはリビングから飛んで出てきた。
「おかえりなさい、心配してたのよ」
「ごめん、ちょっと部活が長引いちゃって……。疲れたから先お風呂はいるね。
これから仕事でしょ。いってらっしゃい」
心配そうに見つめるお母さんのそばを通り、そのままお風呂場に行った。




