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心体の性

作者: N

わたしは横峰千春。小さい頃はよく周りの人からちーちゃん、ちーちゃんと呼ばれていた。わたしはそれに違和感を感じていた。どこかくすぐったいような、的外れのような感覚だった。でも近所の女の子たちも同じように○○ちゃんと呼ばれていたから、女の子がそんなふうに呼ばれるのは普通のことなんだと思った。この違和感もみんな感じているものだと思い込んでいた。でもわたしはみんなとのズレも確かに感じていた。周りの女の子たちがやっているおままごとや人形遊びにはまったく興味がなく、男の子たちと鬼ごっこをしたり、泥団子を作ったり、昆虫を捕まえたりして遊ぶ方が好きだった。よく男の子相手にケンカもした。周りの大人たちは、「ちーちゃんは男の子みたいやねー。」とよく話し合っていた。でもそれがわたしにとっては普通だったから、たいして傷つくこともなかった(幼かったこともあるだろうけど)。

 小学校にあがる頃に、わたしの違和感はより深くなった。その小学校の制服がスカートだったからだ。今まででも、スカートを見ることはしばしばあった。近所の女の子たちがそれをはいて遊んでいるのを見たことがあったからだ。わたしはもちろんスカートにはまったく興味がなかったので、まさか自分がそれをはかなければならない日が来るとは夢にも思っていなかった。だから、制服がスカートであることを知って、愕然とした。わたしはスカートそれ自体が嫌いだったのではなく、それをはいている自分が嫌だった。わたしはスカートをはくのを拒否したが、両親は、一度はかせてみよう、そしたら案外気に入るかもしれないと思ったのか、強引にスカートをはかせた。わたしはあまりにもそれが嫌で、泣き叫んで暴れまわった。わたしの度を越した拒否反応に両親は呆れて、「じゃあ、ジャージで行きなさい」と言ってくれた。学校にも連絡して許可を取ってくれた。ただ、場所は小学校だ。みんなと違う格好をしていたら、たいていからかわれる。わたしも最初のうちは色々言われたが、何を言われても気にしないフリをしたり、少し顔がいかつかったためか、すぐに何も言われなくなった。学校に行っても女の子と遊ぶことはなく、休憩時間は男の子たちとサッカーをしたり、ドッジボールをしたりして遊んだ。わたしは運動がとても得意で、男の子たちからも一目置かれていた。勉強もそこそこできて通知表の成績(1~5段階評価で5が最も良い)は、国語、算数、理科、社会、体育、図工のうち体育以外は4、5の変動で、体育は常に5だった。たいして違和感もなく、小学校生活を送ることができていた(四年生までは……)。

 小学五年の春に、わたしの身体に異変が現れた。胸が出てきたのだ。それに気付いた時、四年生の時に受けた保健の授業が、ふと頭に浮かんだ。「胸が出てくることは女性になってきている証拠だから、恥ずかしがることないよ。もし悩むことがあったら、先生やお母さんに相談していいんだからね。恥ずかしいことじゃないんだからね」と、先生は真面目な顔をして言っていた。わたしはそれを思い出して初めて自分が「女性」であること、これから「女性」になっていくことを知った。わたしは、男の子、女の子という言葉は知っていたが、「男性」、「女性」ということについて考えたことはなかった。わたしは自分の身体に起こったその異変を不快に思い、少し、自分の身体を見るのが嫌になった。

 わたしの小学校では毎年何回かプールの授業がある。プールは大体みんな楽しみにしているようで(水が苦手で泣いてしまう子もいたが)、わたしも楽しみにしていた(学校のプールは25メートルプールだったが、わたし当時、50メートルは普通に泳げたと思う)。しかし、その年のプールはいつものプールとは、わたしにとっては、大きく違っていた。その原因は、更衣室の変化であった。四年生までは、男女混合の更衣室だったのに、五年生では、男子用と女子用に分けられていた。その事実を知った時、わたしはとまどいを隠せなかった。でもどちらに行かなければならないかはわかっていた。周りの女子たちと同じように女子更衣室に向かった。周りの女子たちはそれがさも当然であるかのような顔をして、友達とペチャクチャおしゃべりをしながら歩いていた。わたしは彼女たちを見ながら、不安な気持ちに襲われた。わたしの抱いているこのとまどいを彼女たちは感じていないのではないかと、心の中でひっそり思った。女子更衣室に到着して部屋を見回すと、裸の女子たちが、そこには大勢いた。少し胸が出た者もいれば、ぺったんこの者もいた。その瞬間、まるで雷が落ちたかのように自分の中に、ある衝動が走った。「自分のいる場所は、ここじゃない」すぐにその部屋からとび出して、とにかく走った。目的地は設定していなかったが、とにかく走った。止まるのに二、三十秒はかかった。男子更衣室に行こうかと一瞬考えたが、それも自分にはしっくりこないような気がした。今までも何度か孤独を味わったことはあったが、それらとはわけが違った。少し前までみんな同じ「人間」という枠にはまっていたはずなのに、いつの間にかそれが、「男性」、「女性」というふうに、二手にきっぱりと分かれてしまっていた。男の子は「男性」という枠に、女の子は「女性」という枠に、みんな上手くはまっているのに、わたしだけ、上手くはまれない。そう思うと、目の周りが熱くなってきて、急いで近くの女子トイレに駆け込んだ。泣きながら、できるだけ自分の身体を見ないようにして、スクール水着に着替えた。トイレを出る時に、ふと洗面所の鏡を見ると、「女性」用のスクール水着姿の、少し胸の出た自分の姿が、そこには映っていた。咄嗟に手に持っていた巻きタオルで、自分の身体を隠した。するとまた、目の周りが熱くなってきて、うつむきながらトイレから出た。

 それ以来、わたしは、「男性」、「女性」というような性別に関する言葉を聞くと、ビクッとするようになってしまった(あくまで心の中で、だけど)。特に、女だからどうこうと言われるのをひどく嫌った。それに、他人に身体を触られるのもとても不快に感じるようになっていた。六年生の春に、廊下で、あるわたしと同じクラスの男子が冗談半分でわたしの胸を触った。その瞬間、わたしの胸から身体全体へと、とてつもない不快感が広がって、わたしは我を忘れてその男子の腹を思いっ切り蹴った。3、4メートルは飛んだ。わたしは痛がっているその男子に向かって、「触んな、バカ!」と、大きな声で、涙目になりながら叫んだ。その後、先生に二人はこっぴどく叱られ、その男子はわんわん泣いていたが、わたしは少ししか泣かなかった。それは先生に叱られたためでもなく、罪悪感からでもなく、ただ、触られた時の屈辱的な感情がまだ残っていたからだった。先生はそれを反省の涙だと勘違いして、どの子のケンカの時にも言うようなお決まりのセリフを述べて、わたしたちを教室に返した。わたしはそれ以来、その男子とは口を利かないことに決めた。というより、口を利けないような気がした。

 小学校を卒業した後は、近くの中学校に入学した。卒業式の時には、みんな泣いていた。わたしも泣いていた。でもみんなの涙の意味とわたしの涙の意味は、ずいぶん違っていた。みんなの涙の意味は、小学校を旅立って中学校に行くことに対する喜びや悲しみ、友達との別れに対する悲しみ、特に何も感じてはいないが周りが泣いているからつられて泣いている、といったところだろうが、わたしの涙の意味は、歳を重ねるにつれて明確になってくる男女の区別、その中で自分はやっていけるのか、どちらかに属すことができるようになるのか、いつかこの自分の感情を、本当の自分を、さらけだすことができる日が来るのだろうか、ということに対する不安だった。小学校やクラスメートに対する思いは、少しもなかった。

中学校に入ってからは、部活動に精を出した。小学校の時は、サッカー部に所属しており(小学五、六年に部活動があった)、自分で言うのもなんだけど、なかなかの成績を収めたが、サッカーはもういいかなと思って、陸上部に入部した。サッカーをやっていたおかげもあって、一年生の女子の中では一番足が速かった。その学校の陸上部は、男子陸上部、女子陸上部と分けられているのではなく、男子と女子、合わせて陸上部となっていた(長距離と短距離は分けられていて、わたしが所属していたのは短距離の方だった)。同じ陸上部短距離とはいえ、男子と女子の練習量は違っていた。でもわたしは女子だからという理由で男子に負けるのが嫌で、少なくとも男子の練習量はこなすようにしていた。例えば、男子は50メートルを10本、女子は7本の場合、わたしは10本以上はこなした。陸上のことを考えていると、自然と性別のことを忘れることができた。学校の休憩時間や昼休みの間も、ただぼんやり陸上のことを考えて、時を過ごした(もちろん、女子たちが、いわゆる「女子っぽいもの」について話し合っている教室の中で)。話をする友達はいないというわけでもなかったが、特段、交遊はしなかった。好きな人ができるわけでもなかったし、そもそも自分は男性を好きになるのか、女性を好きになるのかさえわからなかった。そういうことを深く考えるとまた苦しくなるので、陸上のことを考え続けた。

 男子以上の練習をしてきた甲斐もあって、わたしはどんどん足が速くなった。個人の大会で入賞できたり、秋頃にはリレーのメンバーに選ばれるようにもなった。学校の勉強の方も授業はしっかり受けて、陸上で疲れていても、できる限り、その日受けた授業の復習もして、テスト一週間前には部活はすべて停止になるので、テスト勉強を、テスト勉強、というよりも今までの総復習という意識でこなした。その間も、走り込みは欠かさなかった。一日でも休んでしまうと次の日が辛くなることを知っていたからだ。陸上は確かに辛い日もあるけど、走っている時がこの世で一番心地よく、わたしには感じられた。走っていると、男とか女とか、そういうことから解放されて、ただの一人の、一個の人間というモノになっている、そんな風に感じることができた。わたしはできるだけ、その感覚の中にいたかった。わたしが陸上に夢中になっていたのは、そのためだったのかもしれない。

 中学二年は、一年の時と同じように陸上漬けの生活を送った。大会には何度も出場させてもらい、賞をたくさんもらった。冬には、100メートル走で優勝もした。顧問の先生(陸上部短距離の顧問は男の先生だった)から、「このままいけば、推薦とれるかもな」と言われた。わたしはそれを聞いて、「はい、これからも頑張ります」と、クールに返答したが、内心、とても嬉しかった。もっともっと陸上を追求したかった。その日からそれまでよりも熱心に陸上に取り組んだ。わたしが陸上に対するやる気に満ちていた矢先、事件は起こった。

 それは、三月の初旬に起こった。わたしが誰もいない部室でスパイクの手入れをしていると、同じ陸上部の、わたしより少し足の遅い男子が入ってきて、わたしの前で立ち止まった。そして、

「お前、あんま調子乗んなよ」

と、低いが力を込めたような声で言った。

「なにが」

わたしは少し睨んで言った。

「お前がなんか近頃、勘違いしてるようだから言ってるんだよ」

「勘違い?」

「そう、勘違いだよ。今は俺より足が速いみたいだけど、そんなの今だけだよ」

「はあ?何言ってんの?」

「お前は今、男と同じ練習、いやそれ以上か、練習してるみたいだけど、歳を取るにつれて女は男について行けなくなる。そうなれば当然、足の速さも男に劣るようになる。今はお前の方が速いが、そのうち俺にも勝てなくなる。陸上ってのはそういうもんだ」

「何でそんな風に言うの?」

「お前がそれに気付いていないようだから、教えてあげてるんだよ。お前は女だ!潜在的な女なんだよ、お前は!」

「これ以上言ったら、許さない。あんたスランプなんでしょ?最近タイムが全然良くない。それでイライラして、あんたより速くなったわたしにあたってるんでしょ?そういうのやめてくれない?迷惑だから。そんなことしてる暇あったら、練習しなさいよ、練習!」

「ああ、そうだよ。俺はスランプだ。これはお前へのあてつけだよ。でもなあ、このあてつけはけっこうお門違いじゃないと思うけどね。お前が自分が女であることを認識していないのは本当のことだろ?もうお子ちゃまじゃないんだからさ、俺たち」

「殴るよ、本気で」

「殴れるもんなら、殴ってみろよ。身をもって実感したら、自分が女であることを、少しは認識できるかもな。そうすれば、少しはかわいくなるんじゃねえか」

わたしは彼の胸ぐらに飛びかかって、右手で思いっ切り彼の左頬殴ろうとしたが、その手を押さえられて、腹を思いっ切り蹴り飛ばされた。わたしが腹の痛みでなかなか起き上がれないのを見て彼は、「え、それで終わり?やっぱりお前も女だなあ」と、わたしをあざ笑った。それが耳に入った瞬間、もう何がなんだかわからなくなって、ただ無我夢中に彼に飛びかかり、全力で彼を突き飛ばした。なにか、ゴン、という鈍い音がした。わたしはその音を気にする余裕もなく、「男とか女とか、しょうもないこと言ってんじゃねえよ!」と、息を上げながら、泣き顔で、大声で叫んだ。わたしの呼吸が整ってきても、彼は起き上がらなかった。さすがにおかしいと思い(内心、罠かもしれないと警戒しながら)、おそるおそる近づいてみると、彼の頭の後ろには、砲丸投げ用の7.26キログラムの鉄球が一つ、何食わぬ顔して座っていた。その鉄球には赤黒い液体が、自分の存在を主張するかのように光り輝いて付着していた。……

彼はその後すぐに救急車で近くの病院に運ばれた。幸いにもただの脳震盪で脳には異常はなく、何針か縫うだけですんだ。学校で、彼の両親とわたしの両親とそれぞれの担任の先生(彼とは違うクラスだった)と顧問の先生の前でわたしは事情を隠すことなくすべて話した。彼の意識が戻ってから、もちろん彼にも事情聴取をし、彼もわたしと同じような内容のことを話した。そこから彼らが導き出した結論は、「スランプにはまり苛立っていた彼が、調子の良い彼女に嫉妬し、変えることのできない事実でもって彼女を非難したため、彼女の怒りを買い、取っ組み合いの喧嘩になった末、引き起こされた不慮の事故」というものだった。彼とわたしはお互い「形式的な」謝罪をして、思いとは裏腹な握手をした。その証拠に、二人ともあえて手に力を入れ、手を離れるのに時間がかかった。大人たちはその様子を見て、満足そうな顔をしていた。

表面的な解決を終えて、両親と共に家に帰る途中に父が、

「彼が千春にしたことは確かに酷いことだ。ただの言いがかりだ。でもな、千春、どんなことがあっても簡単に暴力という手段を使っては駄目だ。お前は自分より彼のほうが悪いと思っているかもしれないが、お前も彼と同じくらい悪いことをしたんだ」

 父は真面目な顔でそう言うと、少し目が緩んで

「それに……な、千春、彼が言っていたことは、別に間違いってわけじゃないんだ。千春もわかってはいるだろうけど、男性と女性は生まれもって身体のつくりが違うんだ。男性の方が女性よりも身体的に強くなるようにできているんだ。それはもう、仕方のないことなんだ。受け入れるしかない。でも女性には、男性には絶対にできない『妊娠』というものができる。赤ちゃんを産むことができる。出産の時の痛みは鼻からスイカを出すくらい、とよく言うから、本当は女性の方が強くできているのかもしれないけどな。父さんはな、千春、男性と女性とでは、最初からある程度役割が決まっているような気がするんだ。それぞれ与えられた役割を果たすためにこんなにも体つきが違っているんじゃないかって。だから、体格という面で、まあつまり、運動神経とかそういった面で、男性と女性を比較しても意味が無いんだよ。男性は『男性』で女性は『女性』で、それぞれ頑張れば良いんだよ。比べることはない。彼がいけなかったのは、その内容自体というよりも、その内容を千春が傷付くような言い方で、千春を傷つける手段として使った、ということなんだ」

 父の話を聞いて、わたしはまた傷付いた。父の話は、自分が男であるのか女であるのかを認識できた上での話のようにわたしには思われたからだ。その上で、男に生まれたかった、女に生まれたかったという悩みを持っている人に対して効力を発揮するもので、わたしの場合、そもそもその話の前提すら成り立ってはいなかった。わたしは自分が男なのか女なのか、認識できてはいなかった。さすがにこの身体を見れば女であることは一目瞭然だが、それはあくまで表面的なことで、それによって得られる性別判断は、たいして重要なことのように思われなかった。わたしは内面的に自分が男なのか女なのかで悩んでいたのだ。こんな身体をもって生まれてきて良かったのだろうか、神様がうっかりミスでもしてしまったのではないかと感じる日々に嫌気ば差していたのだ。『男性』という枠にも『女性』という枠にもいまだ入ることのできていないわたしは、いったいどうしたらいいのだろう。父さん、答えてくれる?……

そう心の中で思いながら自分の中に残っている全勢力を振り絞って父に対して満面の、でも少しひきつった笑みで、

「うん、わかってるって」

と、少し大きめの声で答えた。

後日、わたしは顧問の先生のところに行って、退部届を提出した。

「どうしてこんなものを持ってきたんだ!責任を感じているのか?そりゃお前も悪かったけど、むこうも悪かったんだからおあいこだよ。もう気にするなよ」

「いや、別に責任とか、そういうんじゃないんです」

「じゃあ、なんだ?」

「なんか、もう陸上部にいたくないんです」

「あいつがいるからか?」

「いや、彼に会いたくないから、とかそういうのでもなくて。……陸上部にいるのが、なんか辛いんです」

「お前、陸上が好きなんじゃないのか?推薦も、このままいけば多分もらえるのに」

「陸上は好きです。それは変わっていません。ただそれ以上に、陸上部にいるのが辛いんです。すみません。期待に応えられず……」

「それを俺が受け取ったら、お前は楽になれるのか?」

「はい、多少は」

「そうか、わかった。じゃあ一応受け取っておく。でも俺は、今まで頑張ってきたお前が、ただ休養をとるだけだと思っておく。スポーツ選手にとって、休みは大切だからな。……だからいつでも、また陸上がしたいと思ったら、戻ってきていいんだからな」

「……」

「待ってる、なんて言わないよ。ただお前が辛くなるだけだろうから」

「はい。……ありがとうございます」


中学三年の春、転校生が一人、わたしのクラスにやって来た。名前は、川上葵。体型はスリムで、身長はわたしと同じか少し小さいくらい(わたしの当時の身長は158センチだった)で、髪は肩くらいまである(わたしはショートヘアだった)、可愛い感じの女の子だった。わたしの席の位置は右手の入口から二列目の、後ろから二番目で、その右隣の席が空いていた(他のクラスはすべて40人だったのに対し、わたしのクラスは39人と、一人少なかった)ので、彼女はそこに座ることになった。

葵がわたしのクラスに来て初めての授業は数学だった。その授業の後に、

「あのー、さっきのここ、どういうことか教えてくれませんか」

と、周りは男子ばかりだったせいか、わたしに聞いてきた。

「ああ、ここはこうして、こうして……こうすればいいんだよ」

と、わたしは素っ気なく答えた。

「あー、なるほどなるほど、そういうことか!ありがとう、おかげで理解できました」

「それは良かった」

「あたし、さっき自己紹介したけど、川上葵です。よろしくお願いします。あなたは?」

「横峰千春」

「じゃあ、千春ちゃんって呼ぼうかな」

「千春でいいよ。ちゃんは、なんか気持ち悪い」

「うん、わかった。じゃあ、あたしのことは葵って呼んで!」

「わかったわかった」

「じゃあ早速、今日の昼休み、食堂で一緒にご飯食べよう」

「え、急だな。弁当無いの?」

「うん、今日無いんだよね。うち、お父さんいなくてお母さん働いてるから作ってくれる暇ないんだよね。まあ、自分で作れなくはないけど、食堂もあるわけだし、そこまですることはないかなと思って」

「それで、食堂に頼ることにしたと?」

「そういうこと」

「へー。まあ、食堂行ったことあんまりないし、いいよ、食堂でも」

こんなにクラスの子と話したの久しぶりだなと、クラブを辞めてからより周りとの交遊を絶つようになっていたわたしにとっては、内心嬉しいことだった。

わたしはその日のうちに、葵と打ち解けることができた。わたしは葵と話していると、なぜか妙に落ち着けて、やや寒い心の中に明かりがポッと灯ったような温かさを感じた。この感覚は他の人に抱いたことのない、初めての感覚だった。わたしはそこに浸るのを心地よく感じていたが、あまりにも浸り過ぎると自分を見失ってしまうような、少し異様で危険な匂いがそこから洩れているのに気付いてはいたから、飲み込まれてしまわないようそこには十分注意した。とはいえ、人を惹き付け、病みつきにさせる、その麻薬のような作用は、わたしを今後、苦しめることになるのだけれど。

わたしが葵に対して抱いていたその感覚とはまったく異にする感覚ではあろうが、葵もわたしとの交遊を楽しんでくれていたようで、

「明日も一緒にご飯、食べようね。ていうか、親友になろうよ」

と、可愛い顔して言ってきた。それに対してわたしは、相変わらずの素っ気なさで、

「親友って、なろうって言ってなるもんじゃないだろ」

と、少し目を背けて返答した。


その日から、わたしと葵は日増しに仲良くなって、好きな音楽や今ハマっていること、将来のことなど、色々なこと(ただ、陸上のことはあまり良い思い出ではないので伏せておいた)を話し合った。

「千春はさあ、将来何するか、もえ決めてるの?」

「いや、あんまり考えてないよ。将来のことなんて。今を生きるのに精一杯」

「へえー、意外。千春って何事にも計画を立てるタイプだと思ってた。ほら、定期テストとか」

「まあ、ある程度はね。でもテストで計画なんて立てないよ。授業受けて、家で復習して、テスト前にもう一回見直しして、ってやってるだけだよ」

「千春はすごいなあ」

「別にすごくないよ。やろうと思えば誰だってできる。やってないだけ。葵だって全然できる」

「えー、あたしは、ねえ……」

「いや、できるって。わたしが今言ったこと続けてみなよ。絶対点上がるって!」

「……あ、まあ、点上げたかったら、なんだけどね。別に上げなくても、死ぬわけじゃないし」

「千春、もう高校決めてるの?」

「まあ、今のところ光清高校にしようかなって思ってる」

「光清って、この辺で一番レベルの高い高校じゃん!すごっ」

「レベル高いったって偏差値60ちょいだから、そんな高い壁じゃないよ。ねえ、葵も一緒に行こうよ、光清に!」

「え、あたしが?いやいや無理だって。ていうか、偏差値って何?」

「そんなことはどうでもいいから、ね、とにかく目指そうよ。ね、高校も一緒に行こう!」

「でも今からやって間に合う?もうほぼ七月だよ。あたし今まであんま勉強とかしてこなかったし……」

「大丈夫、大丈夫。わたしが言ったことやってる人なんてほとんどいないから。定着してなきゃ意味ないのに、みんなもう授業受けただけでわかった気になってるから復習なんてしない。それで成績が伸びないって言ってるから驚くよ。まず塾行く前に習ったこと復習しなよっていつも思うよ。だから葵はちゃんと復習してね。それと、いい忘れてたけど、予習もちゃんとしてよ。どこがわからないかのがわかっていないと、授業で混乱するから」

「はー、やること多いな」

「それだけでも全然違うから。ね、頑張って!」

「……うん、わかった、そこまで言うならやってみるよ」

「そう!良かった!わからないところがあったら、わたしでよければいつでも聞いてくれていいから」

わたしはその日の帰り道に(葵とは家が逆方向なので、いつも正門で別れる)、自分がこんなにも他人の世話を焼くなんてちょっと変だなと思った。なぜそんなことをしたのか、その時はわからなかったかが、今になって思うと、その時にわたしを突き動かしていたのは、ただ、葵のことをもっと知りたい、感じたい、離れたくない、わたしのことをもっと知ってほしい、感じてほしいという、当時のわたしには思いもよらない、不思議な感覚ではあったろうと、今になっては思う。

葵は、案外一度やると決めたことは貫徹するタイプらしく、熱心に勉強に取り組んでいた。放課後にはよくわたしの家で一緒に勉強した。もちろんわたしは葵の家にも行きたくはあったが、遠回しにそれを伝えてみても、部屋が汚れているとかなんとかで、入れてくれることはなかった。残念ではあったが、その理由を特段問い詰めようという気もなかったので、結局いつもうちで勉強することになった。うちの両親も葵のことが気に入ったらしく、幸いにも夕食を共にすることも多かった。

ある日、いつものようにわたしの部屋で一緒に勉強していると、葵は数学の問題集から顔を上げて、独り言のように、

「この家は、温かいなあー」

と、ふやけた声で呟いた。

「え、何?急に」

突然思いもよらぬ非日常的な言葉を葵が使ったので、わたしは少し驚いた。

「ここの家の人はみんな優しいな、と思って。お父さんもお母さんも、千春も」

「優しいって、別に普通じゃない?」

「普通じゃない。少なくとも、あたしにとっては」

「え?」

葵は少し俯きながら、深刻な顔で話始めた。

「まだちゃんと言ってなかったけど、あたしの両親、離婚したの。あたしが10歳の時に。あたしのお父さん、ろくに仕事もしないで昼間っからフラフラして、深夜くらいになると帰って来て酒飲んで当たり散らす。さすがに暴力は振るわなかったけど、バカなことにお金使ってあたしたち家族にめっちゃ迷惑かけてたんだ。そのせいでお母さんはずっと夜遅くまで働いて、いつもクタクタになって帰って来てた。その証拠に帰って来るとすぐにお風呂に入って布団敷いて寝てたから。でもその眠りもお父さんの暴挙にいつも妨げられてたけど。あたしも少しでもお母さんを楽にしてあげたくて、お風呂掃除したり、洗濯もの取り込んだり、できることはした。それなのにお父さんは、少しも変わってくれなくて。……でもある日急にね、急にだよ。テーブルの上に自分の記入欄びっしり埋めて判子までついてあった離婚届が置いてあった。普通、一方的に別れるにしても、手紙ぐらい一緒に置いていくでしょ。手紙じゃなくても一言、『ごめん』とか、なんとか言うでしょ、フツウ。……でも何もなかった。きっと浮気でもしてたんだよ。外で女作って、今頃その女とヨロシクやってるんだよ。あたし、お母さんには黙ってたけど、お父さんがゴミ箱に捨てた名刺を見た時、その時まだ10歳だったけど、いかがわしい店のものだってことは一応わかったから。お母さん、勝手にお金使われて、それで実は愛されてもいなかったなんて……本当にかわいそう。でもお母さんは、その離婚届見た時、なんかほっとしたような顔してて……あたし、それ見てまた苦しくなった」

葵がこんな顔して話すのをわたしは初めて見た。いつもの笑顔は、そこにはなかった。その笑顔の裏に実はいつも隠れていた、ほんの僅かな黒い感情が急に前面に溢れだしてきて、顔全体を覆ってしまったような、そんな顔をしていた。

葵の話によると、それ以後葵の母は仕事の量は減り、負担は軽くなったが、明るくなることはなく、常に葵の家は暗く淀んだ雰囲気があるから、わたしを家に入れたくなかった、ということだった。葵は話の最後に、

「この家に『孤独』は似合わないね」

と、ぼそっと息をはくように呟いた。わたしはそれに妙な違和感を覚え、

「『孤独』の感じ方は、人それぞれ」

と、反射的に小さく呟いてしまった。幸い葵には聞き取れなかったらしく、

「え、何か言った?」

と、尋ねてきたが、わたしは適当にごまかして、

「さあ、結構長いこと休憩したし、そろそろ勉強に戻ろう」

と、わたしはその話を切り上げた。

わたしは葵の話を聞いて、葵の求めているものを理解した気がした。それは「愛」、葵の言う「孤独」の真反対側に位置しているもので、わたしが葵と始めて昼食を共にした学校の食堂で感じた、あの妙な感覚は、わたしが葵の孤独を無意識に察知して、瞬時にわたしの心に宿った温もりでもって、葵を包もうとしたつまり、葵が欲しているものを与えようとした証拠なのではないかと、わたしは不思議なくらい実感でもってそう思った。そうなると、「愛」を与えようとしたのだから、わたしは葵を愛したことになる。ならば葵と同じ高校に行きたがったことも説明がつく。どう考えても、わたしは葵を愛している。愛してしまったことはもう仕方がないが、問題なのは葵がわたしのことをどう見てるかということだった。わたしは、この葵の告白が、わたしのことを愛しているからしたのではなく、ただ仲の良い友達だから、という理由でなられたもののようにわたしには思われた。葵には本当のわたしが見えていないようだった。それはわたしが必死で隠して見せようとしない為でもあるのは確かだ。とにかく、葵が見ているのは「女性」としてのわたしであって、つまり葵の目に映っているのは「女性」だ、ということになる。葵はレズビアンでもバイセクシャルでもないから、そこに見出だしているのは、ただの友情だ。でもわたしの目に映っていたのは「葵」だった。「男性」でも「女性」でもなく、「葵」だった。葵からすればもちろん、わたしたちの構図は「女性」対「女性」なのだろうが、わたしからすれば、「千春」対「葵」だった。唯一無二の個人がそこには映っていたのだ。だから仮に、葵が今すぐ男に変わったとしても、わたしの葵への思いはまったくと言っていいほど、変化しないだろう。葵は「葵」なのだから。

これまでわたしが男を好きにならず、かと言って女も好きにならなかった理由がようやく推定できるようになってきた。わたしが今まで重視してきたのはおそらく、「性別」ではなく、「人間性」だったと言えるような気がした。


葵への思いが意識化されたわたしは、この思いを葵に伝えようかと思った瞬間が幾度となくあったが、行動に移すことはなかった。なぜなら行動に移してしまえば、これまで積み重ねてきた葵との関係が、またこのまま黙っていれば続いて行くであろう葵との将来の関係が、雪崩のようにガタガタと崩れていってしまうのではないかと思ったからだった。たとえ本当の自分が出せなくとも、葵との関係が終わってしまう方が嫌だった。だがそういう気持ちと同時に、自分が本当の自分の姿を大切な人に示さないということに対して、ある種の罪悪感も芽生えていたのも確かではあった。葵を欺いているような心持ちだった。葵は、理由はどうあれ自分の黒い部分をわたしに示してくれた。でもわたしは、決して自分のそういった部分を見せる気にはなれなかった。見せたら何もかもが終わってしまう、見せるくらいなら死を選ぶ、それくらい、葵を愛していた。葵と一緒にいたい、でもそのためには欺かなければならない、でもずっと欺き続けそうもない、でも葵との関係が終わるのは嫌だ、ならば欺かなければならない、……ずっとこの繰り返し。まるで輪廻のようである。

わたしは出口のない迷路をさまよい続けるほかはなかった。


葵は順調に成績を伸ばしていた。夏休みの間もサボることなく熱心に勉強に打ち込んでいたらしく、秋にあった中間テストでは、

「千春!千春!あたし、学年で十番になったよ!遂にトップ10入りだ!」

と、大はしゃぎの様子だった。

「千春のおかげだよ!ありがと」

と、相変わらずの可愛らしい笑顔でこっちを見て言う。

「で、千春はどうだったの?」

「わたしは、五番だった」

「さっすが、千春。やるねぇー」

「でも、前のテストでは三番だったのに……ちょっとショック」

実を言うと勉強はしていたのだが、葵への気持ちに気づいたあの日から、正直以前よりも勉強に身が入らなくなっていたのだ。

「ボヤボヤしてると、あたしに追い抜かれるよ」

などとほざいているので、わたしは素っ気ないふりをして、

「ま、わたしにはまだまだ及ばないね」

と、すかしてみると、葵は、

「すぐ追い抜くから!」

と、やけに気合いの入った物言いだったので、

「どうぞご自由に」

と、かわしておいた。

それでもわたしは、純粋に葵の成長が嬉しかった。葵は笑っていた。わたしはその姿を見て、笑った。

葵はわたしを大切に思ってくれている。それは葵の学力のように、日増しに強くなるのを感じる。それは確かに嬉しいことだ。しかし、それが強くなればなるほど、わたしの罪は、大きくなり、それと同時に、わたしの苦しみも、大きくなる。それもまた、事実。わたしの心には今、喜びと苦しみが共存してはいるが、この苦しみがこのまま膨張し続けて、徐々にその喜びを侵食し、挙げ句の果てにはそのすべてを飲み込み、心に残るのは苦しみだけ、という状態になるのをわたしは恐れた。それだけは嫌だった。喜びより苦しみの方が、たいていは強いものだ。戦えばほぼ確実に苦しみが勝つ。わたしの経験上、この関係が一つの真理であった。だからわたしは、密かにこう祈っていた。葵、お願いだから、これ以上わたしをあなたのことで喜ばせないで……と。

そんな思いとは裏腹に、葵はどんどん成長した。冬の模擬テストでは、葵の偏差値は61まで上がっていた。光清高校の偏差値が63だったので、葵は、本当にいけるかもしれない、と気分が高揚してるようだった。このままいくと、本当に葵が合格してしまう。そうなれば、また葵と一緒にいることができる。でも、わたしはますます辛くなる。葵と一緒にいればいるほど、葵との良い思い出が増えれば増えるほど、葵が本当のことを知った時のショックは大きくなってしまう。そう考えると、今すぐにでも言ってしまった方がまだショックが小さくて良いんじゃないかとも思えるけど……ああ、どうしたら良いのだろう。右も左も、どちらも悪な気がする。今のまま本当の自分を見せないでいるのも、悪。かと言って本当の自分を見せるのも、それはそれで悪。どうやらわたしは、好きな人には悪行しか行えない質らしい。ああ、情けない。自分の無力さにうちひしがれていると、確実に偶発的にではあるが、ある考えがふと浮かんだ。

―逃亡しよう―

するとなぜか妙にその考えが、この場合の真理のように思われてきて、気付いたらいつの間にか、いつ、どこへ、どうやって、など具体的な事柄を考えている自分がいた。葵から逃げる、という目的を果たせる所ならどこでも良かったが、逃亡と言えば海外、海外と言えばアメリカという構図を、まだ世界をまったく知らなかったわたしは頭の中で描いた。いつ頃行くか、どうやって親を説得するかなども描いていくに連れて、その考えが現実味を帯び、頭のそこかしこにべったりと瞬間接着剤のように貼り付いて取れなくなってしまった。どうやらこの苦しみから逃れられるかもしれないという期待が、接着剤のような役割を果たしたらしい。


二月末に、アメリカのシアトルにある公立高校からたくさんの入学に関する書類が届いた。その高校には入試がなかった。両親はわたしのアメリカ留学に反対しなかった。わたしの両親が親の役割について、子どもがやりたいと言っていることをできるだけやらせてあげることが大切で、親がすべきことは、それを後ろからそっと見守っててあげることだけだ、といったような考えを持っているということはわたしに知れていたから、「留学」と言えば許してはくれるだろうというわたしの考えであった。別にわたしは親を騙したくてしたのではなく、それしか方法がないように思われたからだった。さすがにそんな理解ある親も、わたしが急に言い出したものだからかなり驚いてはいたが、決してそれを否定することなく、お金のことは心配しなくていいから頑張ってきなさい、と単身留学を快く認めてくれた。あまりにも激励してくれたので、自分の不純な動機に嫌気が差しはしたが、今更どうすることもできず、もう一刻も早く逃げることしか頭にはなかった。葵はもちろん、そんなこととはつゆ知らず、わたしに、高校に行ったらこんなクラブに入ろうとか、文化祭楽しみだねとか、輝かしい未来の話をしていた。当のわたしは、自分の変化が葵に気付かれぬよう、普段の自分を演じることに努めた。正直そうしている時が、今までで一番辛かった。もう完全に葵を騙している、そうかんじながらも、わたしは頑張った。葵には絶対に内緒で勘づかれることなく、葵の前から姿を消そう、そう心に誓いながら、一刻も早い出発を切に願った。

日本の公立高校の試験日が三月十日で、わたしの出発日が三月九日だった。公立高校の出願期間が三月三日と四日で、出願先がすでに決まっている人は基本的に三日に出し、まだ決まっていない人や倍率を見てから、という人などは四日に出す。葵はもちろん三日に出した。葵は三日に出さないわたしになぜかと尋ねてきたが、わたしは、体調が悪いからと嘘をついた。出すものなんて、わたしには無かった。

学校の卒業式は三月七日にあって、それも無事に終わった。これでもう、葵と会うことはない。おそらく、一生。葵は急にいなくなったわたしを好くは思わないだろう。でもすぐに新しい高校で、葵のあの明るい性格ならきっとわたしより何倍も良い友達もできるだろう。するとそのうち、わたしのことはキレイサッパリ忘れるだろう。少しは覚えていて欲しい気もしなくはないけど……まあ、とにかく、葵とのあの楽しい日々を、幸せだったあの日々を、思い出を、壊されることなく、心の中にしまっておけると思うと、少し安堵の気持ちにもなった。卒業式終わりのいつもの正門で、葵は、

「入試、頑張ろうね!」

と、元気ハツラツとした感じでわたしに言った。それにわたしは、

「うん、もちろん!」

と、虚勢を張った声で答えた。

「じゃあね!」

そう言って立ち去ろうとした時、ついわたしは、

「あ……葵」

と、上ずった声で言ってしまった。

「うん?なに?」

と、葵は相変わらずの可愛らしい表情でこちらに振り返った。葵のその顔を見ると、心の底から悲しみが突き上げてきて、泣きそうになってきたので、

「いや、なんでもない。……バイバイ」

とだけ精一杯言うと、葵はいつも通りの、

「うん、バイバイ!」

元気な声で、にっこりと笑いかけてくれた。わたしは、幸せだった。

わたしは葵と別れてから、涙を流しながら家までゆっくり帰った。その時は、ただただ涙がこみ上げてきて、止めようとも思わず、しまいには目の前が真っ暗になった。何かを考える余裕もなかった。これで良かったんだ、これで良かったんだと自分に言い聞かせるために、何度も心の中で呟いた。呟けば呟くほど涙の勢いが増すことはわからないことではなかったが、そうするほか仕方がなかった。ようやく家の前まで来るとわたしは、涙を腕と手で何回か拭って、腫れ上がったようになっていたであろう赤い目のまま、扉を開けて、大きな声で、

「ただいま!」

と、あらゆるものを吐き出すように叫んだ。


三月八日、夕暮れ時、突然葵に呼び出された。学校近くの、よく放課後に一緒に行った公園にだった。その時刻、その公園には、サッカーをしている小学生くらいの男女四人がごちゃまぜになっているだけで、他に人影はわたしたちだけだった。

「どうしたの?葵。わからない問題でもあったの?」

しかし、それは葵の姿を見れば、そんなことのために来たわけではないことくらいはわかることだった。葵は以前、わたしの家で見せたあの深刻な顔をしていた。

「ねえ、千春、あたしに何か言うことない?」

その声には、いつもの元気で清潔な感じは微塵もなかった。

「言うこと?何それ、別にないよ」

下手な芝居であった。

「嘘つかないでよ!千春のお母さんから聞いたよ」

「……」

「スーパーで、さっき会ったんだ」

「……」

「何で隠してたの?」

わたしは、ただただ狼狽しているばかりで、

「あれー、言ってなかったっけ?ゴメンゴメン」

などと下手にも程があるくらいの演技でもって、真剣な眼差しをわたしに向けている葵に向かった。すると葵は、

「ごまかさないでよ!」

と、今までにも聞いたことがないくらいの大声で返してきた。

「なんかわけがあるんでしょ?」

わたしは、馴れていない演技は止めにして、比較的素に近い演技に変更することにした。

「別にないよ。ただ日本に飽きただけ」

素っ気なく言った。

「それも嘘なんでしょ?わかるよ、あたしには。千春、嘘つく時、目そらすよね」

「……」

思わぬ欠点だった。言われてみればそうかもと確かに思い当たる節はいくつかあった。やはりわたしは、演技が下手なようだった。

「最近、なんか多かったんだよね、そのしぐさ。様子がちょっとおかしいとは思ってたけど、入試が近づいてきてさすがの千春も緊張してるんだと思ってあえて言わなかったんだけど……そういうことだったんだね」

「……」

もしかしたら葵は、わたしのことなら何でもお見通しなんじゃないか、そしたらこのわたしの気持ちも……もしかしたら……、なんていう気持ちが少しわき上がって来た時、

「ねぇ、なんか言ってよ!黙ってちゃわからないじゃん!」

と、いつにもまして大きな声できたので、わたしは思い切って、

「葵、わたしのこと、どう思ってる?」

葵はこの質問に一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに元の表情に戻って、

「親友」

と、一言答えた。ほら、わたしのこと何にもわかってない、と先ほど感じた僅かな期待も消え失せ、もういますぐ世界が終わっても良いような気持ちにさえなった。葵は続けて、

「親友だから、こんなに怒ってるんだよ。親友が何も言わないでいなくなったら、そりゃ嫌な気持ちにもなるよ。葵、本当のこと言ってよ。お願いだから、わけを教えて」

わたしは尚黙っていると、葵は悲しみの表情を顔に浮かべて、

「もしかして、あたしのこと、嫌いになった?それでそんな遠くに行こうって」

葵の悲しみに満ちた顔とそこから発せられた言葉とを聞くと、なにか、心の留め金みたいなものがガコンといって壊れてしまったらしく、今まで溜め込んできた思いがみるみるうちに食堂を通過して、空にでてきてしまった。

「違う!それは違う!わたしは葵のこと、好きだ」

「じゃあ、……なんで」

「葵のことが、好きだからだよ」

「え、あたしも葵のこと、好きだよ」

つくづく、わからない人だなと思った。

「違うんだ。わたしの好きは、葵の好きとは、全然違うんだ。葵、わたしは……わたしは、普通の女の子とは、違うから」

「え、どういうこと……」

葵は絶句したようだった。言わなきゃよかったという後悔の念を感じずにはいられなかったが、ここまできたらもう止めることはできなかった。

「葵は、わたしに友情を感じでくれてるみたいだけど、わたしが葵に感じているのは、友情じゃ、ないんだ。愛情なんだ!わたしがあなたに感じているのは!」

「……」

「わたしね、ずっと自分が男なのか女なのかで悩んでたんだ。身体は女だけど、心が女じゃないっていうか……でもだからって、完全に男だってわけでもないと思うんだ。なんか、どっちにも属せてない感じ。『人間』っていう括りには違和感を感じないけど、二つに分けちゃうと、なぜかどっちにも居場所を感じられない。わたしはいつもそれが不安だった。でもそんな時、葵に出会って、一緒にいろんなことしてるうちに思ったんだ。居場所はここだって。わたしは『わたし』として生きればいいんだって。わざわざ『男性』『女性』に分けなくていい。わたしは葵を好きになって、こんな風に思えるようになったんだよ。葵には感謝してもしきれない。わたしは『わたし』として、葵を好きになったんだ。『男性』としてでも、『女性』としてでもなく、『わたし』として。それって、自分で自分のことを、こんな自分のことを、ちゃんと真正面から認めることができたってことじゃないかな。わたしは、それが嬉しかった。でもそれを、葵に知られるのは凄く恐かった。せっかくの良い思い出が、葵がわたしに感じてくれている友情が、汚れてしまうんじゃないかって。でも言わなかったら、葵を騙していることになるんじゃないかとも思えて、板挟みの状態になって、日に日に辛さも増してきて、もう抱えきれなくなちゃった。だから、……こっそりいなくなろうと思ったの」

葵は何も言わず、ただわたしの目をじっと見ていた。わたしも意識的にではあるが、葵の目をじっと見返した。しかしずっとそうしてるわけにもいかず、なにか気恥ずかしい気持ちになってきて、とうとうわたしの方が先に目を背けてしまった。

「じゃあね、葵。元気でね。明日の試験、頑張ってね」

とだけ言い残し、その場から逃れようと公園の出口に身体を向けて歩き出そうとした時、後ろから葵が、

「千春……」

と、本当に小さな声で呟くのが確かに耳に入ったが、聞こえぬふりをして、足早にその場から立ち去った。


わたしは今、高校二年生。わたしの通う高校の寮で暮らしている。わたしはその高校の陸上部に入って、陸上を再開した。やはりブランクが長かったから、最初は少し苦労はしたが、今ではリレーの選手に選ばれている。友達もたくさん、とまではいかないけど、日本にいた時よりはできた。最初はなじめるか心配したけど、普通に向こうから話しかけてくれるので、とても打ち解けやすかった。最初は言語の壁を感じたけど、いつの間にか感じなくなっていた(元々英語が好きで勉強してた為もあるだろうけど)。それに、ここにはいろんな人がいる。黒人、白人、わたしみたいな黄色人。宗教、文化の違い。そんな中にいると、わたしが日本にいる頃は、絶えず悩まされていた性別の問題は、少し小さく見え、悩む回数も減ったと思う。まあ、だからって、誰にも打ち明ける気はないんだけどね。わたしがこの先、また人に恋をすることがあるか、子どもを産むのかどうか、そういったことはまだわたしにもわからない。その時はその時でどうとでもなるような気さえしている。ところで、わたしは葵がその後どうなったのか、まったくもって知らない。少し気になるところではあるが、特段探ろうとか、そういう気はない。ただ遠くのこの異郷の地から、合格してたらいいな。あんなに頑張ってたもんな。そんなことを思いながら、今日も学校をあとにしていつものように寮に帰るだけだ。クラブ帰りで汗を垂らしながら寮に帰ると、わたし宛てに二通、手紙が届いていた。一通は母さんからで、もう一通は……名前が書かれていない。誰からだろうと怪訝に思いながらも、その送り主不明の方から開けて読もうとした時、その手紙の中の文字に身体が反応した。この少し丸い、くせのある字……これはまぎれもなく、葵の字だ!何度なく見た字であるから間違いない。そう確信するとわたしは、その手紙を早く読まなければ飢え死にするが如く勢いで貪り読んだ。読み終えると、わたしの目から大粒の涙が頬にぽつぽつと落ちた。それと同時に、その手紙はわたしの手からスルッと、滑り落ちた。……

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